××橋を渡りきった俺たちは、ひとまず川から少し離れた場所まで移動し、崩れかけたビルの陰で短い休息を取った。
アドレナリンが切れたのか、どっと疲労感が押し寄せてくる。
美羽も、額に汗を滲ませながら、荒い息を整えていた。
「…渡れた、ね」
「ああ。
これで少しは、九州に近づけたはずだ」
俺の言葉に、美羽は小さく頷いた。
しかし、橋の中央にあった不気味なバリケードと血痕の記憶が、楽観的な気分を打ち消す。
あの橋は、本当に安全だったのだろうか。
ただ、運が良かっただけなのかもしれない。
「陽太、これからどうするの? まっすぐ西へ行くの?」
「そうしたいけど、闇雲に進むのは危険だ。
まずは地図が欲しい。
ここがどこで、どっちに何があるのか、正確に把握しないと」
食料や水も心許ないが、情報がないのは致命的だ。
俺たちは再び立ち上がり、周囲の探索を始めた。
対岸の景色は、橋を渡る前と大差なく、破壊された建物と瓦礫が広がっている。
人影は見当たらない。
しばらく歩くと、かつては小さな商店が軒を連ねていたと思われる通りに出た。
ほとんどの店はシャッターが歪み、窓ガラスが割れ、商品は略奪されたのか空っぽに近い。
ここでも、人々の絶望的な生存競争が繰り広げられたのだろう。
「…ひどい」
美羽が顔を歪める。
俺も、胸が締め付けられるような思いだった。
それでも、何か手がかりがないかと、一軒一軒、比較的状態の良い店を覗いて回る。
数軒目の、小さな個人経営らしき書店。
入り口のドアは壊れ、本棚は倒れ、床には本が散乱していた。
ほとんどの本は汚れて破れていたが、諦めずに奥へ進んでみる。
「陽太、これ…!」
店の隅で、美羽が声を上げた。
彼女が指差す先には、埃をかぶってはいたが、ビニールに包まれたままの地域の詳細な道路地図と、一冊の分厚い日本地図帳があった。
「やった! 美羽、ナイスだ!」
これは大きな収穫だった。
特に道路地図は、この辺りの地理を把握するのに役立つはずだ。
俺は地図を手に取り、思わずガッツポーズをした。
地図を探している途中、崩れた棚の奥に、何か箱のようなものが見えた。
手を伸ばしても届かない。
「…ちょっと試してみるか」
俺は、箱の近くに転がっていた軽い雑誌と、その箱を『置換』できないか試みた。
以前より細かいコントロールが必要になる。
集中し、対象を明確にイメージする。
『置換(リプレイス)』
一瞬の浮遊感。
目の前に、雑誌と入れ替わって埃っぽいボール紙の箱が現れた。
中身は、古びた万年筆のセットだった。
今は役に立たないが、能力の精度が少し上がったことを実感できた。
物を取る、という戦闘以外の目的で使えたのも収穫だ。
だが、やはり軽い疲労感は伴う。
乱用は禁物だ。
俺たちは、書店を出て、少し離れた場所にある、比較的壁がしっかり残っている建物の陰に身を寄せた。
そこで、早速手に入れた地図を広げる。
「ここが、俺たちが渡ってきた××橋だろ。
ということは、現在地は…この辺りか」
俺は道路地図に指を走らせる。
地名を見てもピンとこないが、川の位置と橋の名前から、おおよその場所は特定できた。
次に、日本地図帳を開き、東京から九州までの長大な距離を改めて確認する。
気が遠くなるような道のりだ。
「九州まで、どのくらいかかるんだろう…」
美羽が不安そうに呟く。
「さあな…。
でも、こうして地図があれば、闇雲に進むよりはずっとマシだ」
俺たちは、九州へ向かうための大まかなルートを検討した。
大きな国道や高速道路は、確かに効率的かもしれない。
だが、その分、異形や、他の生存者――特に危険な連中――と遭遇するリスクも高いだろう。
ラジオで聞いた、能力者ギルドや暴徒化した集団のことも頭をよぎる。
「少し遠回りになっても、できるだけ小さな町や村を繋いでいくルートの方が安全かもしれないな」
「うん、私もそう思う」
俺たちは、いくつかの候補ルートを地図上に描き込み、当面の目標として、この先にある比較的小さな町を目指すことに決めた。
そこまで行けば、また新たな情報が得られるかもしれない。
作戦会議を終え、地図をリュックにしまおうとした、その時だった。
グォォォォォン…!
遠くから、複数の異形の咆哮が聞こえてきた。
それだけではない。
咆哮に混じって、パン、パンパン!という、乾いた銃声のような音も断続的に響いてくる。
かなり離れているようだが、この辺りも決して安全地帯ではないことを、否応なく思い知らされた。
「…行こう、美羽。
長居は無用だ」
俺は立ち上がり、鉄パイプを握り直す。
美羽も、角材を手に、こくりと頷いた。
その表情には、さっきまでの不安の色が少し薄れ、代わりに確かな決意が浮かんでいるように見えた。
地図とルートという、具体的な道標を得た。
それは、暗闇の中に灯った小さな希望の光だ。
しかし、その光を目指す道もまた、危険に満ちている。
「何があっても、俺が美羽を守る」
俺は、心の中で、そして美羽にも聞こえるように、そう呟いた。
美羽は何も言わず、ただ俺の隣に並び、前を見据えた。
その横顔は、以前よりもずっと強く、頼もしく見えた。
新たな目的地へ向かって、俺たちは再び荒廃した街へと足を踏み出した。
遠くで響く咆哮と銃声が、この世界の厳しさを奏でる不協和音のように、いつまでも耳に残っていた。