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第9話 地図と道標

××橋を渡りきった俺たちは、ひとまず川から少し離れた場所まで移動し、崩れかけたビルの陰で短い休息を取った。

アドレナリンが切れたのか、どっと疲労感が押し寄せてくる。

美羽も、額に汗を滲ませながら、荒い息を整えていた。


「…渡れた、ね」


「ああ。

これで少しは、九州に近づけたはずだ」


俺の言葉に、美羽は小さく頷いた。

しかし、橋の中央にあった不気味なバリケードと血痕の記憶が、楽観的な気分を打ち消す。

あの橋は、本当に安全だったのだろうか。

ただ、運が良かっただけなのかもしれない。


「陽太、これからどうするの? まっすぐ西へ行くの?」


「そうしたいけど、闇雲に進むのは危険だ。

まずは地図が欲しい。

ここがどこで、どっちに何があるのか、正確に把握しないと」


食料や水も心許ないが、情報がないのは致命的だ。

俺たちは再び立ち上がり、周囲の探索を始めた。

対岸の景色は、橋を渡る前と大差なく、破壊された建物と瓦礫が広がっている。

人影は見当たらない。


しばらく歩くと、かつては小さな商店が軒を連ねていたと思われる通りに出た。

ほとんどの店はシャッターが歪み、窓ガラスが割れ、商品は略奪されたのか空っぽに近い。

ここでも、人々の絶望的な生存競争が繰り広げられたのだろう。


「…ひどい」


美羽が顔を歪める。

俺も、胸が締め付けられるような思いだった。

それでも、何か手がかりがないかと、一軒一軒、比較的状態の良い店を覗いて回る。


数軒目の、小さな個人経営らしき書店。

入り口のドアは壊れ、本棚は倒れ、床には本が散乱していた。

ほとんどの本は汚れて破れていたが、諦めずに奥へ進んでみる。


「陽太、これ…!」


店の隅で、美羽が声を上げた。

彼女が指差す先には、埃をかぶってはいたが、ビニールに包まれたままの地域の詳細な道路地図と、一冊の分厚い日本地図帳があった。


「やった! 美羽、ナイスだ!」


これは大きな収穫だった。

特に道路地図は、この辺りの地理を把握するのに役立つはずだ。

俺は地図を手に取り、思わずガッツポーズをした。


地図を探している途中、崩れた棚の奥に、何か箱のようなものが見えた。

手を伸ばしても届かない。


「…ちょっと試してみるか」


俺は、箱の近くに転がっていた軽い雑誌と、その箱を『置換』できないか試みた。

以前より細かいコントロールが必要になる。

集中し、対象を明確にイメージする。


『置換(リプレイス)』


一瞬の浮遊感。

目の前に、雑誌と入れ替わって埃っぽいボール紙の箱が現れた。

中身は、古びた万年筆のセットだった。

今は役に立たないが、能力の精度が少し上がったことを実感できた。

物を取る、という戦闘以外の目的で使えたのも収穫だ。

だが、やはり軽い疲労感は伴う。

乱用は禁物だ。


俺たちは、書店を出て、少し離れた場所にある、比較的壁がしっかり残っている建物の陰に身を寄せた。

そこで、早速手に入れた地図を広げる。


「ここが、俺たちが渡ってきた××橋だろ。

ということは、現在地は…この辺りか」


俺は道路地図に指を走らせる。

地名を見てもピンとこないが、川の位置と橋の名前から、おおよその場所は特定できた。

次に、日本地図帳を開き、東京から九州までの長大な距離を改めて確認する。

気が遠くなるような道のりだ。


「九州まで、どのくらいかかるんだろう…」


美羽が不安そうに呟く。


「さあな…。

でも、こうして地図があれば、闇雲に進むよりはずっとマシだ」


俺たちは、九州へ向かうための大まかなルートを検討した。

大きな国道や高速道路は、確かに効率的かもしれない。

だが、その分、異形や、他の生存者――特に危険な連中――と遭遇するリスクも高いだろう。

ラジオで聞いた、能力者ギルドや暴徒化した集団のことも頭をよぎる。


「少し遠回りになっても、できるだけ小さな町や村を繋いでいくルートの方が安全かもしれないな」


「うん、私もそう思う」


俺たちは、いくつかの候補ルートを地図上に描き込み、当面の目標として、この先にある比較的小さな町を目指すことに決めた。

そこまで行けば、また新たな情報が得られるかもしれない。


作戦会議を終え、地図をリュックにしまおうとした、その時だった。


グォォォォォン…!


遠くから、複数の異形の咆哮が聞こえてきた。

それだけではない。

咆哮に混じって、パン、パンパン!という、乾いた銃声のような音も断続的に響いてくる。

かなり離れているようだが、この辺りも決して安全地帯ではないことを、否応なく思い知らされた。


「…行こう、美羽。

長居は無用だ」


俺は立ち上がり、鉄パイプを握り直す。

美羽も、角材を手に、こくりと頷いた。

その表情には、さっきまでの不安の色が少し薄れ、代わりに確かな決意が浮かんでいるように見えた。


地図とルートという、具体的な道標を得た。

それは、暗闇の中に灯った小さな希望の光だ。

しかし、その光を目指す道もまた、危険に満ちている。


「何があっても、俺が美羽を守る」


俺は、心の中で、そして美羽にも聞こえるように、そう呟いた。

美羽は何も言わず、ただ俺の隣に並び、前を見据えた。

その横顔は、以前よりもずっと強く、頼もしく見えた。


新たな目的地へ向かって、俺たちは再び荒廃した街へと足を踏み出した。

遠くで響く咆哮と銃声が、この世界の厳しさを奏でる不協和音のように、いつまでも耳に残っていた。

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