異界の空気は、ねっとりと重かった。
薄暗い教室。
教壇の上に置かれた、白い仮面。
私はそれを見つめていた。
(今しかない……)
仮面に手を伸ばす。
だが、異界全体が私の動きを察知したかのように、教室の外から、異形のモノたちがうごめき、うなり声を上げていた。
床を這う音。壁を叩く音。
怒りと憎しみが、世界を満たしていく。
逃げ場はない。
でも、私は知っている。
この仮面を砕かない限り、また生徒たちが“選ばれ”、また無惨に消えていくことを。
私は、教壇の仮面を掴んだ。
その瞬間、教室のドアが破られた。
異形たちが、なだれ込んでくる。
腕が三本ある者、顔がねじれている者、人間の形を模した、しかし人間ではないものたち。
「……来るなら、来い」
私は、仮面を胸に抱き、走った。
◇ ◇ ◇
逃げる私を追って、異形たちは廊下を埋め尽くす。
突き当たり。
崩れた階段。
朽ちた非常扉。
すべてが、私を閉じ込めるために歪んでいた。
だが、私は知っていた。
異界送りの構造は、廃校そのものと重なっている。
ならば、非常階段の踊り場――
美琴が、かつて命を絶った場所。
ここが、呪いの起点。
そこまでたどり着けば、仮面を砕く力も最大になる。
私は、異形たちの腕をかいくぐりながら、朽ちた非常扉を蹴破った。
◇ ◇ ◇
踊り場に出た瞬間、空気が変わった。
重い。
苦しい。
世界全体が私の動きを押さえつけようとしている。
足がもつれ、膝をつく。
仮面を握る手が、痺れるように痛い。
だが、そのとき。
「……先生!」
聞こえた。
背後から、生徒たちの声。
振り返ると、数人の生徒たちが、必死に異形たちを押し返していた。
恐怖に震えながら、それでも私を信じ、支えようとしてくれていた。
「終わらせてください!」
「先生しか、できないから!」
涙を浮かべながら叫ぶ生徒たち。
私は、立ち上がった。
仮面を高く掲げる。
そして――
(これで、すべてを終わらせる!)
叫びとともに、仮面を、踊り場のコンクリートに叩きつけた。
バキィィィンッ!
甲高い音が異界に響き渡る。
仮面は、砕けた。
細かい破片が、空中に舞う。
その瞬間、異界全体が、震え、崩れ始めた。
壁が割れ、天井が落ち、黒い霧が渦巻き、異形たちが苦悶の声をあげながら消えていく。
異界という世界そのものが、消滅しようとしていた。
◇ ◇ ◇
私は、目を閉じた。
(みんな、どうか――)
次に目を開けたとき、私は現実世界の教室に立っていた。
朝日が、差し込んでいた。
生徒たちも、そこにいた。
全員――無事だった。
私は、教壇の上で、震える足で立ちながら、
心の底から、静かに息を吐いた。
(終わった……)
◇ ◇ ◇
放課後。
人気のない廊下を歩きながら、
私はポケットに手を入れた。
そこには――
ひと欠片の、白い仮面の破片。
砕いたはずの仮面。
けれど、消えきらず、私の手の中に残っていた。
(本当に……終わったのか?)
ふと、教室の奥のガラスに映った自分の顔。
その口元が、
わずかに――
笑っているように見えた。