世界は、何事もなかったかのように動き続けていた。
高校時代に起きた、あの異界送り事件。
私はそれを、心の底に封じ込めたまま、大学院へ進んだ。
民間伝承、都市伝説、不可解な失踪事件。私が専攻を選んだ理由は、誰にも言わなかった。
ただ、あの夜を、二度と繰り返させないため。
夜。机の引き出しの中で、仮面の破片が微かに震えるたび、私は思う。
――まだ、終わっていない。
◇ ◇ ◇
ある日、指導教官が提案してきた。
「夜に消えた集落、っていうテーマを掘り下げてみたらどうだ?」
渡された資料の中に、ひとつの名前があった。
緒川村。
すでに地図から消され、住民は全員行方不明。公式記録には、失踪理由も、事故も、何一つ残されていない。
ただ、ネットの片隅には、こんな噂だけが残っていた。
『夜中に教室へ呼び出され、消される儀式があった』
『白い仮面をつけた教師が現れた』
私は、震えた手でページをめくった。
(……緒川)
異界送り。かつて私が見た、地獄の原点。
私は、また呼ばれている。
◇ ◇ ◇
夜。仮面の破片を掌にのせる。硬く、冷たい。けれど、どこか生きているような脈動を感じた。
「――行くしかない」
誰に向かって言ったのかもわからない。
ただ、私は決意した。
◇ ◇ ◇
数日後、私は緒川村へ向かっていた。
山間の電車を降り、人気のないバスに乗り継ぎ、最後は、廃道を歩くしかなかった。
日が傾き、あたりは薄暗くなりはじめている。
ポケットの破片が、ずっと微かに震えていた。
◇ ◇ ◇
村の入り口に差し掛かったとき、誰かが立っていた。少女だった。銀色がかった黒髪、儚げな影を纏うような存在感。
彼女は私を見ていた。
まるで、最初からここで待っていたかのように。
「……あなた、誰?」
私が問うと、彼女はふわりと首を傾げ、そして、静かに名乗った。
「緒川澪。この村の、最後の生き残り」
緒川、あの名前。私は言葉を失った。
澪は微笑まず、ただ、まっすぐに私を見ていた。
「君が、中嶋凛だよね」
どうして――。
澪は、答えを待たずに言った。
「君は、ここに来る運命だった。血が、そう呼び寄せたんだよ」
夕闇の中で、彼女の声は、奇妙に優しかった。
私は、無言で彼女を見返すしかなかった。