目を覚ましたのは、まだ夜明け前だった。古びた家の中は、しんと静まり返っている。
薄い障子の向こうからは、かすかに風の音が聞こえるだけ。
月明かりがかろうじて、部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
私は、布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
(眠れない……)
無理もなかった。ここに来てから、何も起きていない。
けれど、何も起きていないこと自体が、逆に不自然だった。
◇ ◇ ◇
ふと、ポケットの中に手を伸ばす。
仮面の破片。
冷たく、固く、しかし、どこか体温を持っているような錯覚。
指先で撫でると、わずかに震えた気がした。
(気のせい……だよね?)
私はそっと布団から抜け出し、家の中をそっと歩き始めた。
廊下はきしみ、壁には細かなひびが走っている。懐中電灯もないので、手探りで歩く。
澪の姿は見えなかった。おそらく別の部屋で休んでいるのだろう。
◇ ◇ ◇
縁側に出ると、月明かりに照らされた村の風景が広がっていた。
崩れた家々、雑草に埋もれた道、そして、ぽつんと立つ、あの倒れかけた祠。
(……あそこが、始まりの場所)
澪がそう言っていた。
私は裸足のまま、そっと家を出た。
夜の村は、昼間よりもさらに静かだった。風さえも、今は鳴りを潜めている。
私は、足音を立てないように、祠へ向かって歩いた。
◇ ◇ ◇
祠の前に立ったとき。ふと、胸騒ぎがした。
祠の中は、やはり空っぽだ。誰かがいた痕跡もない。
だけど――違和感。
目に見えるわけではない。でも、確かに「何か」が、そこにいる気配。
私は息を殺し、じっと祠を見つめた。
そして、気づいた。
――祠の中に、うっすらと浮かぶ、無数の指跡。
小さな手。大人の手。爪で抉った跡。
祠の床や壁に、うっすらと、無数の指で掻き毟ったような跡が刻まれていた。
月明かりに照らされ、その傷跡が、まるでこちらを見ているかのように見えた。
背筋に冷たいものが走った。
(なにこれ……)
私は一歩、後ずさった。
その瞬間。
カラン、と音がした。
祠の奥から、何かが転がり落ちた。
小さな――白い、仮面の破片。私の持っている破片と、そっくりだった。
でも、違う。
それは、濡れていた。月明かりに濡れる仮面の破片は、まるで、血を吸ったように、赤黒く染まっていた。
◇ ◇ ◇
そのとき、背後で、草を踏む音がした。
振り向くと、そこに――澪が立っていた。
「こんな夜中に、何してるの?」
穏やかな声。
だが、その瞳の奥に、ほんの僅かに、何か別のものが潜んでいる気がした。
私は、答えを喉の奥でつかえさせたまま、ただ、立ち尽くしていた。