シャオティエンがアルスーンに下賜されてひと月と少しが経った。相変わらず伴侶らしい関係を築けないまま今日も夜を迎える。
「シャオティエン殿下、そろそろ休みましょうか」
もはや恒例となりつつある言葉をかけて就寝を促した。いつもなら返事も頷くこともなく横になるシャオティエンだが、なぜかベッドに腰掛けたまま身動き一つしない。
「殿下?」
どうしたのだろうかともう一度声をかける。すると黒髪をさらりと揺らしながら、小振りな頭がアルスーンの顔を見上げるようにゆっくりと動いた。
これほど間近で、しかも正面からしっかりと顔を見るのは初めてだった。他国の将軍でしかないアルスーンが王子であるシャオティエンの顔をじっと見るのは非礼極まりなく、親善の挨拶のときもやや視線を落としてしか対面していない。下賜されてからもそれは変わることなく、これが初めて間近で見る機会だった。
(なんと美しい人なのだ)
あまりの美しさにアルスーンは言葉を失った。
(この国では見慣れない髪型だが、それもまた美しいな)
前髪は眉を少し隠すくらいに切り揃えられ、後ろ髪は長いものの両頬に触れている横髪は顎くらいの長さに整えられている。先日、神華の国で貴族に仕えていたという女性を新たに雇い入れたが、彼女が彼の国の王族らしく整え直したのだろう。身元がしっかりした女性で、親族が王族の後宮に勤めていたとも話していた。
(雇ってよかった)
アルスーンは心からそう思った。侍女にはシャオティエンが心休まるように身の回りを整えてほしいと頼んでおいた。おかげで東方の衣装や装飾品を購入するための出費が膨らんでいるものの、それで以前のように穏やかに暮らしてもらえるなら安いものだ。
(これは彼の国が滅ぶ場面に居合わせた俺の務めだ)
少しでも彼の国のように暮らしてほしい。そう思い、姿だけでも以前に戻りつつあることに安堵するアルスーンの耳に、「なぜ」という王子の声が聞こえてきた。
「なぜわたしに触れないのですか?」
涼やかな声はシャオティエンのものだ。久しぶりに聞く声は以前と同じ美しいもので、ようやく言葉を発したことに胸を撫で下ろしながら冷静に答える。
「殿下がそれを望んでおられるとは思えないからです」
「Ωの感情などαにとっては取るに足らぬこと。この国ではそうではないのですか?」
その言葉に、王はシャオティエンの気持ちなどお構いなしに手折ったのだろうことがわかった。王族として生まれ、高貴なΩとして育てられたシャオティエンにとっては屈辱だったに違いない。
「俺は一介の将軍でしかありません。殿下が望まれぬことをするつもりはありません」
生真面目に答える様子をシャオティエンの美しい黒眼がじっと見つめる。
「一介の将軍などと謙遜を。この国では王よりも人心を掴んでいると聞いています」
「さて、いずれの噂でしょうか」
「我が国でも、この国に連れて来られてからも耳にしました。賞賛する声は王へのものをも上回るとか」
淡々と告げるシャオティエンに、アルスーンは少しずつ警戒心を強めていった。なぜそんなことを口にするのかと緑眼をスッと細める。
アルスーンも軍人や民たちに慕われている自覚はある。中流貴族から将軍にまで駆け上がった立身出世は民からすれば夢のような話で、軍人たちにとっても希望に見えるのだろう。
しかし、滅んだ国の王子がそのことを口にする理由はない。しかも自分は祖国を滅ぼすきっかけになったと言ってもいい憎むべき相手だ。侮辱したいのなら「おまえもαなら抱きたいのではないか」と言えば済む。本当に行為を望んでいるなら挑発なり媚びるなりすればいいだけで、触れたら触れたで「おまえもどうせ王と同じなのだろう」と侮蔑することもできたはずだ。
(それなのに、なぜ人心などと口にする)
囚われの亡国王子が気にしたところでなんの益もない。帰る国があるなら反乱を画策する一端とも考えられるが、すでに祖国は滅んでいる。そもそも将軍とはいえアルスーンは王に疎まれている存在だ。そのことは広間での一件でシャオティエンにもわかったはずだ。そんな男を誑かしたところで得られるものは何もない。
(憎いこの国をどうにかしたいのであれば陛下を誑かせばよかったのだ)
しかし王はシャオティエンを手放した。しかもアルスーンを嘲笑うための道具にし、大勢の前で子を孕むことができないΩだと蔑んだ。そのことから、この一年で二人の間に深い溝ができたのだろうことは容易に想像できる。
「あなたはわたしの運命です。初めて会ったときにそう感じ、このひと月で確信しました」
「運命……?」
聞いたことのない表現に、アルスーンはますます緑眼を細くした。おそらくαやΩの関係性について話しているのだろうが、そういった言葉は耳にしたことがない。まさか年若い乙女のように「運命の恋人だ」と言いたいわけでもないだろう。そう考えるとますます理解できなかった。
警戒しながらも美しい顔をじっと見つめる。そんなアルスーンの顔をシャオティエンもじっと見つめ返した。
「間違いなくあなたは運命のαです」
涼やかな声が確信を持っているかのように再びそう告げた。
「あの穢らわしい男に身を委ねるのは反吐が出そうでしたが、耐え抜いてよかった。あなたこそ運命のαだと感じたのも間違いではなかった。そのことを、このひと月でさらに確信しました」
「何をおっしゃっているのか俺にはわかりません」
アルスーンの言葉に美しい王子がほんのわずか笑みを浮かべた。
「あなたもすぐにわかるでしょう。わたしは間もなく発情を迎えます。それこそがあなたが運命のαだという証。ようやく、ようやくそのときを迎えることができるのです。これまでどんなαを前にしても呼吸すら乱すことのなかったわたしの体が、ようやく運命を見つけたと歓喜している……発情を迎えたとき、あなたもわたしが運命だとわかるはずです」
美しい形の唇がゆっくりと口角を上げる。あまりにも妖艶なその表情に、アルスーンの目は釘付けになった。息を呑むようなアルスーンの表情に「その日が楽しみです」と口にしたシャオティエンは、くるりと背を向けるといつもどおり左端で横になった。
(いまのはどういう話なんだ?)
呼吸が寝息に変わったのを確認したアルスーンは、ベッドの上に座り眠るシャオティエンの背中を見ながら言われたことを反芻した。もちろん発情は知っているが「運命」という言葉に聞き覚えはない。
(これまでそんな言葉を口にしたΩはいなかったが……)
アルスーンも三十九歳、これまで発情したΩの相手をしたことは何度となくある。相手は貴族令嬢や令息、それに商家の息子や高級娼館の蝶もいた。しかし、どんな身分のΩも「運命のαだ」と口にしたことはなかった。
(もしかして神華の国にはそういうαとΩの関係があるのだろうか)
残念ながら神華の国に詳しくないため考えたところでわかるはずがない。わからないことを延々と考えたところで意味はない。そう判断したアルスーンは「警戒だけはしておくか」と改めて思いながら、いつもどおりベッドの右端に横たわり目を閉じた。
それから三日の間、シャオティエンに変わった様子は見られなかった。侍女にもよく様子を見るように伝えているが、問題がありそうな報告は届いていない。
(しかし何かが引っかかる)
そう感じる自分の勘をアルスーンは無視できなかった。αとしてもそうだが、軍人としていくつもの困難を乗り越えてきた経験から「何かあるかもしれない」という勘は侮れないと実感していた。
(やはり調べておくか)
仕事の傍ら、シャオティエンが口にした「運命」とやらを調べることにした。ところが国一番の蔵書を誇る王宮の書庫にも神華の国の本はほとんどなく、彼の国のαやΩについて書かれているものも見つからない。親交はあったものの東方への関心が低かったため、わざわざ書物を保管しようという貴族や文官たちはいなかったのだろう。
それからさらに五日経った頃、侍女からシャオティエンの食欲がなくなってきたとの報告が届いた。少し熱っぽい様子からΩの発情ではないかという内容も添えられていた。
(殿下の言うとおりになっているようだが……さて、どうしたものかな)
アルスーンにはシャオティエンと発情をともにする気はない。伴侶になったとはいえ相手は元王子だ。将軍職をいただいてはいるものの、中流貴族でしかない自分が肌を重ねるのはふさわしくない。それに孕めないΩと大勢の前で蔑まされたのだから、そういう行為は不快であり自尊心を傷つけることになるだろう。
(申し訳ないが張り型で我慢してもらうことにするか)
アルスーンはさっそくΩ用の張り型を数種類用意させた。さすがに侍女に持っていかせるのはどうかと思い、自ら寝室に持っていくことにした。それに侍女とはいえ他人から張り型を渡されるのは伴侶がいる王子に恥をかかせることになる。
(今夜からは別の部屋で寝ることにしなくては……)
さすがに発情間近のΩと同じベッドで寝ることはできない。これまでΩの発情に呑み込まれたことはなかったが、王族のΩがどこまで強い発情を迎えるのかアルスーンにはわからなかった。それなら自衛としてもそばにいないほうがいい。
今夜この張り型を手渡し、寝室は王子に使ってもらうことにしよう。自分は書斎で寝ればいい。若い頃は行軍で野営することも多かったからか、寝る場所にこだわりはなかった。
(食べ物や水は侍女に運ばせるとして……いや、それはまずいか)
運んだ際に自分の姿がないのは王子に恥をかかせることになる。ということは書斎で寝るのもよくない。発情の間は寝室の隣で寝て、食べ物や水は自分が受け取って寝室に運び入れることにしよう。問題は発情の匂いだが、息を止めて素早く置けばなんとかなる。これまで発情したΩを前にしても意識を奪われることはなかったから大丈夫だ。
そんなことを考えながら寝室のドアを開けたところでぴたりと足が止まった。
(これは……)
慌てて袖口で鼻を覆ったものの時すでに遅く、濃密な香りが鼻腔から体中に広がっていく。
(く……っ。なんという濃さだ。それに目眩がするほど甘い)
これほど甘く濃い香りは嗅いだことがなかった。これまで相手にしたΩの発情は、実際は発情ではなかったのではと思うほどすべてが違っている。
(早く道具を置いて出て行かねば)
アルスーンは袖口で鼻を覆ったまま寝室に入り、下腹にグッと力を入れつつゆっくりとベッドに近づいた。そうして傍らに張り型を入れた箱を置き、急いで踵を返そうとする。ところがなぜか足が動かない。駄目だと思いながらも吸い寄せられるようにベッドに視線を向けた。後悔したのは一瞬で、そのまま食い入るように寝乱れたシャオティエンを見つめた。
(なんと美しいのか……)
あまりの美しさにアルスーンは息を呑んだ。白い夜着の裾は乱れ、あらわになっている太ももから視線が外せない。
(……いいや、駄目だ)
渾身の力で視線を逸らしたが、今度は美しい顔が視界に入り目を逸らせなくなった。黒く長い髪は真っ白なシーツの上で広がり、濡れた黒眼は覚束ない様子で天井を見ている。
「殿下」
思わず声をかけてしまった。これ以上は危険だと本能が訴えているのに、どうしても離れることができない。抗うこともできず、吸い寄せられるようにベッドに片膝を載せた。
「殿下」
(駄目だ、この方に触れては
鬼気迫るような感覚は戦場を前にしたときと同じだった。しかし武者震いのようなものがわき上がることはなく、ただ離れなければという危機感だけが強くなる。早く離れろ、目を逸らせと本能が訴えているのに体のどこも動こうとしない。
思わずギリッと奥歯を噛み締めた。ようやく気配に気づいたのか、夜空のように光る黒眼がちろりと動きアルスーンを見る。
「やっと、わたしのαが来た」
涼やかで甘い声が聞こえた瞬間、アルスーンの右手が真っ直ぐにシャオティエンに伸びた。