気がつくと逞しい両腕で美しきΩ王子を力一杯抱きしめていた。されるがままのシャオティエンをこれでもかと掻き抱き、体が折れるのではないかというほど力強く抱きしめる。そうして濃密な香りを放つ首筋に顔を埋めた。
「なんと甘く……いい香りだ……」
「んっ」
首元で囁くだけでシャオティエンが甘い吐息を漏らした。たったそれだけの反応でアルスーンの体がカッと熱くなる。
このままではΩの発情に呑み込まれてしまう。そうなってはうなじを噛んでしまうかもしれない。自分がこの高貴なΩのうなじを噛むなど分不相応だ。「噛んでは駄目だ」と腹の底に力を入れたアルスーンは、渾身の気力で腕の力をゆるめた。
「殿下、いくつか張り型をお持ちしました。俺は隣の部屋で待機していますので、ご自身で慰めてください」
「嫌だ」
「殿下、」
「あなたはわたしのαです。あなたがいるのに、なぜ張り型を……?」
話し方は覚束ないものの涼やかな声はしっかりしている。わずかに体が離れたのさえ嫌がるようにシャオティエンの細い腕がアルスーンの背中に回った。
「あなたはわたしのαです。あぁ、やっとこうして触れることができた」
ため息をつくようにそう囁かれ、背中がぞわりとした。耳元で囁くシャオティエンの声はまるで微笑んでいるように聞こえる。甘く蠱惑的な声がアルスーンの神経を少しずつ冒し始める。
「あなたはわたしの運命。わたしだけのα」
背中を抱きしめていたたおやかな腕が離れ、細い指がアルスーンの頬をひと撫でした。そのまま白魚のような両手が頬を包み込む。
「そしてわたしは、あなたのΩ」
甘く魅惑的な告白にアルスーンの首筋がぞくりと粟立った。同時に冷水にも似たものが背筋をすべり落ちる。戦場ですら感じたことがない恐怖にも似た感覚に全身の肌が総毛立つのを感じた。
「さぁ、わたしをあなたのものに」
頬を包み込んでいたシャオティエンの手が逞しい首筋を撫でた。そのまま肩先まで撫で、「ほぅ」とため息をつくと細腕を首に絡ませる。
「わたしを、あなただけのものに」
鼻先を触れ合わせながら、シャオティエンが美しくも淫らにそう囁いた。あと少しで触れ合う唇がゆっくりと笑みの形に変わる。
アルスーンは「ぐぅ」と低く唸ると、艶やかな黒髪を乱すように後頭部を右手で掴んだ。そのままグッと引き寄せ淫らに誘う唇を塞ぐ。シャオティエンもそんな乱暴な仕草を嫌がることなく、自ら唇を押しつけるように両手でアルスーンの頭を掻き抱いた。そのまま茶色の髪を指先で掻き乱し、それでも足りないのだと言わんばかりに胸をぴたりと触れ合わせる。
気がつけば互いに貪るような口づけを交わしていた。何度も角度を変えながら上唇を甘噛みし、下唇に吸いつき、互いの口内で舌を絡めあう。そうするたびにシャオティエンの香りは濃密さを増し、それに呼応するかのようにアルスーンからも新緑のような香りが漂い始めた。
(駄目だ……これ以上は……呑み込まれてはいけない……っ)
発情したシャオティエンを前に、アルスーンは暴走しそうになる気持ちを叱咤した。ありったけの精神力を振り絞り、なおも口づけを続けようとするシャオティエンの肩を掴んで引きはがす。
(流されるわけにはいかない)
ぐぅっと眉を寄せ、ギリと奥歯を噛み締めた。アルスーンは稀に見る強靱な心の持ち主だった。だからこそ、これまで発情したΩを相手にしてもうなじを噛むことはなかった。さらにいえば清廉潔白を絵に描いたような人物でもあった。
貴族や富豪らの甘い言葉や金銭に惑わされることはなく、どこかの派閥に力を貸したり自ら立身出世を望んだりすることもない。発情したΩの色仕掛けに落ちることもなく、どんな高貴なΩでも噛みたいと思うことがない己のことを「大したαじゃないからだろう」と思うことさえあった。だからこそ多くの軍人に慕われ、民たちの信頼も厚かった。
そうした生真面目なアルスーンを一部の貴族は疎ましく思っていた。自分たちに汲みしない危険人物だと考え、排除しようと画策した。彼らの歪んだ諫言を吹き込まれた王も己の玉座を危うくする人物だと考えるようになった。
「なぜ……?」
とろけた黒眼で見つめるシャオティエンの表情に、危うくアルスーンの理性が焼き切れそうになる。それでもグッと奥歯を噛み締め、さらに顔を遠ざけた。
「わたしをあなたのものにしてもよいのですよ……?」
「……いいえ、なりません」
「そんなことを言わず、うなじを噛んで」
「駄目です」
「なぜ……?」
逞しい胸に手を添えるシャオティエンの体から、より一層濃い香りが放たれた。それにグゥッと眉を寄せながらも、アルスーンは「駄目です」と頑なに拒絶する。
「どうして……わたしだけのαなのに……」
なおも縋りつく美しいシャオティエンがアルスーンの首筋に口づけた。そうして長い黒髪を自ら掻き分け、見せつけるように傷一つない真っ白なうなじを顕わにする。
発情したΩの香りはうなじからもっとも強く放たれる。経験したことがないほど濃密な香りがアルスーンの鼻をこれでもかと刺激した。それでもアルスーンはシャオティエンの望みを叶えようとはしなかった。
(このまま噛んでは、きっと何かが起きる)
それは軍人としての本能が訴える危機感のようなものだった。噛めば何かが起きる。噛んでしまえば何が起きるかわからない。予感めいたものがΩの発情に引きずられるのをかろうじて防ぎ、噛みたいというαの本能をギリギリで押し留めていた。
「噛んで、そしてわたしをあなただけのものに」
「駄目です」
「なぜ、んぅ……っ」
甘く訴えるのを邪魔するように、アルスーンは再びシャオティエンの唇を塞いだ。そのままベッドに押し倒し息ができないほど口内を蹂躙する。そうして縋りつく手の力が抜けるまで貪ったところで、アルスーンは己の腕に噛みついた。
シャオティエンの香りに促され、α特有の牙が出ているとわかっていながら思い切り歯を立てた。鋭い痛みに一瞬顔が歪んだものの、おかげでαの本能に呑み込まれかけていたアルスーンの意識がはっきりしてくる。
(理性が残っている間に殿下には気を飛ばしてもらおう)
危うくなれば、また腕を噛めばいい。その程度のことでαとしての本能が収まることはないが、うなじを噛まないようにすることはできる。
アルスーンはグゥッと下腹に力を入れると、もう一度腕に噛みついた。「ツゥッ」と痛みに顔を歪めながら美しいΩを見下ろす。そうして張り型を手にし、シャオティエンの夜着に手をかけた。
発情中のシャオティエンは何度も「うなじを噛んで」と口にした。そのたびに放たれる濃く甘い香りに抗いながら、アルスーンはただ王子の体を慰めることにだけ集中した。うなじに触れることなく道具ばかりを使うアルスーンに、シャオティエンは気が触れたように何度も「うなじを噛んで」と訴えた。それでもアルスーンは決して噛もうとしなかった。それどころか愛撫一つ施すことなく主君に仕えるように奉仕し、意識が危うくなれば自らの腕に噛みついた。
三日三晩でアルスーンは腕を十回以上噛んだ。そうやってΩの香りに呑み込まれることなくシャオティエンの体を慰め続けた。
発情が終わった四日目の午後、シャオティエンは仰向けに寝ているアルスーンに馬乗りになっていた。普通のΩなら発情の疲労から丸一日眠っていてもおかしくない状態だというのに、発情明けにも関わらずシャオティエンの細腰はしっかりしている。
「殿下、無理をされないほうがよいのでは」
「うるさい」
発情が終わってもなお妖艶な顔が、いまは怒りの色を滲ませている。
「お相手したことを怒っておいでか」
「その逆です」
「逆とは?」
「とぼけないでください。なぜ噛まなかったのですか?」
涼やかな声には棘が混じっていた。夜着の合わせから白い太ももが見えていることを気にすることなく、逃がさないとばかりにシャオティエンが両足で逞しい腰をしっかりと挟む。
「噛めば名実ともに殿下はわたしの伴侶になります」
「わかっています。そもそも、わたしはすでにあなたの伴侶。それなのになぜ噛まなかったのかと問うているのです」
黒眼がアルスーンをきつく睨みつけた。
「それとも、王から下げ渡されたわたしには噛む価値もないと思っているのですか」
自分を侮蔑するような言葉に、アルスーンは咎めるように見つめ返しながら口を開いた。
「そうではありません。が、安易に噛むという選択はできません」
「わたしを噛むことを安易な選択だと?」
「わずかでも疑いの芽がある限りは噛めないと申し上げているのです」
「……わたしを疑っているのですね」
「あなたはこの国を憎んでおられる。それなのに、なぜ俺に噛まれたがるのか理解できません」
「噛まれたわたしが何かすると思っているのですか? Ωのわたしが、αであり将軍でもあるあなたに何ができると言うのです?」
「何かできるから噛ませたがっておいでなのでしょう?」
アルスーンの言葉にシャオティエンが口を閉じた。代わりに華奢な手がゆっくりとアルスーンの首にかかる。わずかに力が込められたその手にアルスーンの息を止めるほどの力はない。
「こうして首を絞めることすらできないわたしに何ができると?」
「力でΩがαに勝つことは無理でしょう。しかし、殿下はわたしをどうにかできる何を持っていらっしゃる。それが“運命”という存在なのではありませんか?」
アルスーンが話している間、シャオティエンの指は戯れるように逞しい首を撫でた。まるで愛撫のようにねっとりと触れる感触に、もしやはぐらかすつもりではないかとアルスーンの眉間に皺が寄る。それに小さく笑ったシャオティエンが、うっとりした眼差しを向けながら口を開いた。
「運命とは互いに唯一であるαとΩを指す言葉です。我が国では神が授けてくださる最上の強き絆と言われていました」
細い人差し指が立派なのど仏をするりと撫でた。
「本来、運命は互いに感じ合うものだと言われています。しかし、あなたはわたしを見ても何も感じていないようだった。あの日、わたしはあなたこそが運命だと感じたというのに」
シャオティエンがいう「あの日」とは、親善のために挨拶したときのことを言っているのだろう。何かあっただろうかと思い返したものの、アルスーンに特別気になる記憶はない。
「もしや勘違いかと思ったときもありました。でも、そうではなかった。そもそもわたしが運命を間違えるはずがありません。そして再びあなたに会い、確信しました。あなたはわたしの運命、わたしだけのαです」
「だから殿下は俺のΩというわけですか」
「そのとおりです」
「しかしそれだけじゃないはずだ。何を隠しておいでですか?」
のど仏を撫でていた指が顎を伝い、唇の端に触れた。そうして下唇を撫で始めたシャオティエンが愛おしいと言わんばかりの表情を浮かべる。しかしそれを見上げるアルスーンの表情は固いままだ。
「わたしが黒真珠と呼ばれていたことは知っていますか?」
突然何を言い出すのだろうか。戸惑いながらも、「存じています」と答える。
彼の国の貴族が口を揃えてシャオティエンのことを黒真珠だと褒め称えていたことは覚えている。たしかにシャオティエンは黒真珠のように美しい。黒い瞳はもちろんのこと、流れるような黒髪もまさに黒真珠からできているような美しさだ。だが、そうした王族を賛辞する言葉はどの国にもある。これだけの美しさであれば、シャオティエンを形容する言葉はほかにもたくさんあっただろう。
「そう呼ばれる理由がわたしにはあるのです」
アルスーンの唇から指を離したシャオティエンは、そう言いながら極上の笑みを浮かべた。