「黒真珠はとても貴重なものです」
まるで歌うように涼やかな声が言葉を紡ぐ。怒りを滲ませていたのが嘘のようにシャオティエンの表情が艶めかしいものに変わった。一方、それを見つめるアルスーンの頭の中は激しく警鐘が鳴り響いていた。
何かよくないことを聞かされそうな気がする。おそらく聞かないほうがいい類いのものだ。そう思っているのに美しいΩを押しのけることができない。
「真珠が豊富に採れる我が国でも、黒真珠は滅多に見ることが叶わないものでした」
「……我が国ではさらに貴重だと言われている宝石です」
「そんな黒真珠に例えられるほど、わたしは貴重なΩなのです」
「貴重なΩ……?」
たしかにシャオティエンは“貴重なΩ”と呼びたくなるほどの美しさだ。真珠が普通のΩだとしたら、シャオティエンは滅多に出会うことがない黒真珠だと言ってもいい。しかし王族のΩは総じて美しく生まれるものだ。美しく生まれ、大事に育てられ、まるで大輪の薔薇が花開くように美しく咲き誇る。
「黒真珠を持つ者には富と祝福が与えられる、そういう言い伝えがあることは知っていますか?」
「……いいえ、聞いたことがありません」
「この言い伝えも我が国では有名なものです。そのことも含め、わたしは黒真珠だと言われていたのです」
つまり「手にすれば富と祝福が与えられるΩ」だということだろうか。
(しかし王族のΩであれば誰もがそう言われるものだ)
シャオティエンは彼の国でとくにそういう扱いを受けていたのだろう。挨拶のとき、広間にいた貴族たちが「他国の将軍ごときに顔をお見せになるとは」と驚いていたことを思い出した。それだけ彼の国では特別な存在として扱われていたに違いない。
しかし、どの国でも王族Ωを娶れば富や地位を得られるのは普通のことだ。だからこそ多くの貴族は王族Ωを娶りたいと望んでいる。
(それとも、そういう意味ではないということか?)
訝しむように目を細めるアルスーンにシャオティエンが微笑みかけた。
「わたしを手に入れたαは、この世でもっとも強いαとなる」
「……はい?」
「我が国ではそう言われていました。しかし実際は少し違います。わたしだけのαを、わたしが最上のαにするのです」
「最上のα……?」
「そう。誰よりも強く、どのαよりも優れた最上のαにする。もちろん、この国の王などよりもずっと優れたαに」
まるで天啓を告げるかのように赤い唇がニィと笑みを深める。
「あなたはわたしのαです。つまり、わたしはあなたを最上のαにすることができる、ということです」
美しく微笑むシャオティエンの表情に戦慄にも似たものを感じた。戦場では真っ先に敵軍へと突っ込むほどの胆力を備えたアルスーンが、腹に跨がっただけのたおやかなΩに得体の知れない恐ろしさを感じている。そのことにアルスーン自身衝撃を受けていた。
(……いや、これはただの恐怖ではない)
まるで神を前にしたときのような畏怖にも似たものを感じる。
「あなたは最上のαになるのです」
肌が総毛立ち、全身を強張らせているアルスーンの頬を細い指がするりと撫でた。その仕草は慈愛に満ちたもので、微笑むシャオティエンの表情はこの国でもっとも広く敬われている地母神のように見える。しかしアルスーンの背筋を震わせる冷たい感覚が消えることはない。
「わたしにはその力があります。だからこそ黒真珠と呼ばれ大事に育てられてきました。いずれは王族αの伴侶となり、我が国を栄えさせるのだと言われ続けてきました。けれど我が国にわたしのαはいなかった。そのことにどれだけ絶望したか想像できますか? 求めるものを得られない現実が、どれだけわたしの心を蝕んだか想像できますか?」
黒眼が輝きを増しながらアルスーンをじっと見つめる。あまりの美しさに視線を逸らすことができなかった。瞬きを忘れたかのように、ただじっとシャオティエンの視線を受け止める。
「そんなときやって来たのがあなたです。あの日、わたしは予感めいた気持ちを抱きながら城に入るあなたを見ていました。そして広間に到着したあなたを見たとき、遠目だったにも関わらずわたしには運命だとすぐにわかった。あぁ、いま思い出してもあのときの歓喜を思い出すほどです」
目元を赤く染めながら微笑んだシャオティエンが、ゆっくりと上半身をかがめた。
「ようやくわたしだけのαを見つけた」
黒髪がさらりと華奢な肩を滑り落ち、美しい顔がゆっくりとアルスーンに近づいた。鼻先が触れてもなお、二人は目を見開いたまま互いを見つめ続ける。
「わたしは運命のαにしか発情しません。それこそが黒真珠の証。だから王を相手にしても発情の兆候すら表れなかった。それを王は愚弄されたと思ったのでしょう。何度もわたしを発情させようとしましたが、あの程度のαに発情することなどあり得ません」
「……そうしたことを口にし、陛下の怒りを買い、わたしに下賜されるように仕向けましたか」
それには答えず小さく笑ったシャオティエンが、触れるだけの口づけをアルスーンの唇に落とした。このときアルスーンは、自分がただならぬ者を伴侶にしたのだと悟った。
この日を境に、シャオティエンの様子が明らかに変化した。表情を変えることなく口を開くこともなかったのが嘘のように笑顔を見せ、さらに侍女らにねぎらいの言葉をかけることさえある。
もっとも大きく変わったのはアルスーンへの態度だった。まるで自分こそがアルスーンの伴侶だと周囲に見せつけるように執務のとき以外は片時もそばを離れようとしない。その様子に屋敷の者たちは「なんと仲睦まじいお二人だ」と感嘆の眼差しを向けるようになった。
(さて、どうしたものか)
アルスーンはシャオティエンを屋敷に迎え入れたときと同じことを思い、それよりも厄介なことになったなとため息を漏らした。
(うなじを噛み、正真正銘の伴侶となるのはかまわないが……)
噛もうがどうしようがシャオティエンが正式な伴侶であることに変わりはない。十年前に一方的に婚約破棄されて以来、婚約者を作ることもなく許嫁すらいないアルスーンにとってはむしろありがたいことだった。子宝に関しても、シャオティエンとの間に子ができないのであれば親戚の誰かに家督を譲る準備を始めればいいだけだ。
(そうしたことはどうにでもなる。……だが、あの「最上のα」という言葉がどうしても引っかかる)
わざわざ「この国の王などよりも」と口にしたことも気になった。この国の将軍である自分に、なぜ敢えてそんなことを告げたのだろうか。王に疎まれている自分相手でも何か企てているのではと疑われるようなことを口にするのは危うすぎる。
(俺を挑発しているとも考えられるが、そんなことをしたところで俺が何かするわけもないのに)
もう少し若ければ多少の野望は抱いたかもしれない。しかし自分は四十を目前にした年齢で、若く美しいΩにそそのかされるには年を取りすぎている。それ以前に生真面目なアルスーンが王に反旗を翻そうと考えることなどあり得なかった。
(俺の性格は殿下もご存知のはず。それでも敢えて口にするあの方の狙いとは……)
アルスーンは二つのことを考えた。
一つは、将軍であるアルスーンを取り込んでこの国から逃れることだ。大勢の民や軍人に慕われているアルスーンが力を貸せば国外へ脱出することは可能だろう。だが、この国を出たところで神華の国はもうない。彼の国があった場所に戻って国を興そうにも、それが容易でないことはシャオティエンもわかっているはずだ。
二つ目は国家転覆だ。王より優れたαがいれば国を内側から崩壊させることができる。崩壊すれば祖国の恨みを晴らすことはできるだろうが、滅ぼしたところでシャオティエンが得るものは何もない。
「アルスーン殿」
涼やかな声にどきりとし、眺めるだけになっていた文書から視線を上げた。開いたドアのそばには神華の国の衣装を身に纏ったシャオティエンと、後ろにカートを押す侍女の姿が見える。
「いかがしましたか?」
「なにやら難しそうな顔ばかりしているのが気になって、息抜きにとお茶を用意しました」
そう言って微笑む姿はアルスーンが望んだとおりのものだ。彼の国で挨拶したときのシャオティエンを思い起こさせるような笑顔が戻ったことは喜ばしいが、アルスーンの心はなぜかざわついて落ち着かない。
(いったい何を企んでいるのだ?)
疑いが拭えないせいでどうしても警戒してしまう。それなのに、シャオティエンを見た途端に警戒心が薄れていくのを感じた。なぜ警戒しているのかわからなくなり、目の前にいる美しいΩのために力を尽くさねばという気持ちがわき上がってくる。慌てて視線を逸らしても、今度はどこからか漂う香りが気になって胸がざわついた。
(はじめは殿下の香りかと思っていたが、そうじゃない)
最近ほんのりと感じるようになった香りは殿下から香る甘いものとは少し違う。Ωの香りよりもすっきりとした力強いもので、どこか懐かしく感じるものだった。嫌悪感を抱くことはないが、ずっと嗅いでいたいという類いのものでもない。
「どうかしましたか?」
涼やかな声にハッと我に返った。「いえ、なんでもありません」と答え、執務用の椅子から立ち上がる。途端に若葉のような香りが強まったように感じて思わず眉を寄せた。「そういえば殿下が近くにいるときによく匂うな」ということに気づき、ますます眉間に皺が寄る。
「もしや執務の邪魔をしましたか」
アルスーンの表情を見てそう思ったのだろう。やや寂しげにそう口にしたシャオティエンに「大丈夫です、問題ありません」と返す。
「それならよかった」
そう言って微笑むシャオティエンは、まるで相思相愛の伴侶を前にしているような雰囲気だ。そんなシャオティエンの様子に、屋敷で働く者たちは皆「ようやく主人が心を通い合わせる伴侶を迎えられたのだ」と安堵の表情を浮かべた。少し前までは表情がなく口を開かないシャオティエンを遠巻きにしていた従僕や下女たちも、いまではすっかりシャオティエンを尊敬するような眼差しで見るようになっている。
(それは悪いことではない。伴侶である殿下はこの屋敷の主でもあるのだから、仕える者たちには慕われるほうがいい)
そう思うのとは裏腹にアルスーンの胸はざわつく一方だ。これも軍人としての本能かと考えたものの、何にそこまでの危機感を覚えるのかはっきりしない。それにシャオティエンが口にした「最上のα」という言葉の意味もわからないままだ。はたしてこのままでいいのかと考えながらソファに座る。
「あと少しといったところでしょうか」
意味深な言葉に視線を上げた。テーブルを挟んだ向かい側には、この部屋にすっかり馴染んだ美しい姿がある。カップを傾ける仕草も美しく、まさに極上のΩといった雰囲気だ。そんな姿さえもアルスーンにはよからぬ何かを企んでいるように見えて仕方がない。
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。ただ、こうしてあなたのそばにいられる喜びを噛み締めているのです」
給仕をしていた侍女の頬がサッと赤らんだ。そのままうっとりするような眼差しで二人の主人を見つめる。
これが幸せな日常だろうことはアルスーンにもわかっている。それでも得体の知れない感覚は日々強くなっていた。何か恐ろしいことが起きそうな予兆を感じながら、それを振り払うように熱いお茶を一気にあおった。