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第5話

 シャオティエンが祖国にいた頃のような笑顔を取り戻して半月ほどが経とうとしていた。新婚だからと任務から少し離れていたアルスーンも通常任務に戻る日が近づいている。「こうして屋敷で執務をするのもあと少しか」と思いながら凝り固まった首や肩を回したところで、随分と体がなまっていることに気がついた。屋敷で執務するようになってから体を動かすことが極端に減ってしまっている。このままでは軍人として情けないことになりかねない。そう思い、気分転換も兼ねて愛馬の様子を見に行こうと執務室を出た。

 いつもなら広間の前を通り、居間に立ち寄る。執務中、居間でくつろぐことが多いシャオティエンの様子を確認するためだ。しかしアルスーンは広間へ向かうのとは逆のほうへと歩き出した。


(あの方向は中庭だろうか)


 執務室を出る直前、窓から庭に出るシャオティエンの姿が見えた。中庭を散策するのは珍しいことではないが、何かが引っかかる。


(敷地内で万が一ということはないだろうが……)


 シャオティエンを迎えてから屋敷の警備体制を一新した。簡易的だった塀は強固に作り直し、門には警備のために雇った元軍人を常駐させている。王族が滞在するには不向きな作りの屋敷だが、シャオティエンのためにできうる限りの対策は施した。


(やはり一人で出歩くのは遠慮いただくべきか)


 庭に出るための渡り廊下に向かいながらそんなことを考えた。シャオティエンは伴侶である前に元王子だ。気持ちは王族に仕えるのと変わらない。そんな自分の考えにシャオティエンが不満を抱いていることには気づいている。わかっていても伴侶というより王子という意識が勝っていた。


「やめ……」


 どこからか聞こえてきた小さな悲鳴にハッと視線を上げた。声はかなり小さいが、誰かが言い争っているようにも聞こえる。


(いまの声は……)


 間違いなくシャオティエンの声だ。アルスーンはすぐさま渡り廊下から中庭へと走った。シャオティエンが向かったであろう東屋を目指しながら、かすかにΩの香りが漂っていることに眉をひそめる。


(……この香りは……)


 顔をしかめながら視界に入った立派な東屋を見た。だが、そこにシャオティエンの姿はない。それにΩの香りはさらに奥から漂っている。アルスーンは一旦足を止め、音を立てないようにさらに奥にある小さな東屋へと進んだ。

 小振りな東屋に二人分の人影が見える。一人は長い黒髪のシャオティエンで、もう一人は軍服を着た軍人だ。


「やめて……っ」


 シャオティエンが髪を乱しながら身をよじるのが見えた。同時にほのかに漂っていたΩの香りが濃密なものに変わるのを感じた。


「何をしている」


 そう言いながら近づくと、白く細い手首を掴んでいた軍服の男がハッとしたように振り返った。


「か、閣下!」


 男が慌てふためきながら敬礼した。フラフラとよろめいたシャオティエンは、そばにあった椅子にくたりと腰掛ける。その様子にアルスーンはわずかに眉を寄せ、それから軍服の男に視線を向けた。

 険しい上官の表情に男は顔を強張らせながら「こ、これは」と言いかけ、すぐに真一文字に口を閉じた。敬礼をしたままグッと目を閉じる。その表情から、この場で切り捨てられる覚悟をしていることがわかった。


「書類を拾い、仕事に戻れ」


 アルスーンが口にしたのはそれだけだった。男は驚いたように目を見開き、すぐに「は、はいっ!」と返事をする。地面に落ちていた書類を慌てて拾い上げた男は、もう一度敬礼すると大慌てで走り去った。それを無言で見送ったアルスーンは、改めてシャオティエンに視線を向けた。

 ゆるやかに背中のあたりで結ばれている黒髪はわずかに乱れ、彼の国の衣装は胸元が少しばかり乱れている。その姿を見れば先ほどの男がシャオティエンに何をしようとしていたかは一目瞭然だ。

 軍服の男はアルスーンに書類を届けに来た部下だった。執務室で書類を受け取り、処理が終わった別の書類を渡した際にいくつか言葉を交わした。下級貴族出身だというその男は、終始尊敬の念を隠さない眼差しでアルスーンを見ていた。

 そのことを思い返しながら、アルスーンはわずかに細めた緑眼でじっとシャオティエンを見る。


「殿下から発情したときのΩの香りが漂っていますが、どういうことでしょうか」


 アルスーンの問いかけにシャオティエンの返事はない。くたりと椅子に座る姿はまさに妖艶そのもので、そこにΩの香りが重なればどんなαも我を見失うだろう。


(αどころかそうではない一般人も引き寄せられるだろうな)


 現にあの軍人はαではない。それでも手を伸ばさずにはいられないほどの気配がシャオティエンから漂っていた。


「朝食のときには発情の兆候は見られませんでしたが」


 だから香りに気づいたアルスーンは顔をしかめた。もし発情の兆候があったならαであるアルスーンが気づかないはずがない。ほんの数時間前には一切感じなかった発情の香りに眉がググッと寄る。


(αでないあの男が原因ではないだろう)


 αなら強制的に発情を促すこともできるが、そうでない一般人にΩの発情を誘発することは難しい。そもそもαの上官がすぐそばにいる状況で、そういった薬を上官の伴侶相手に使うとは考えにくかった。

 αはΩへの執着が強く、伴侶のΩを一歩も外に出そうとしないαもいる。少しでもほかのαが近づけば決闘をも辞さないαもいるほどだ。そんなαのそばで一般人が伴侶のΩに何かするのは自殺行為にも等しい。


「何が目的ですか?」


 だからこそアルスーンはそう問いかけた。静かな声に伏せられていた黒眼がゆっくりとアルスーンを見る。


「わたしの心配はしないのですか?」

「発情を促す薬を使い、あなたから仕掛けた。それなら自分に害が及ぶような真似はしないでしょう」


 アルスーンの返事にシャオティエンの口角がわずかに上がった。


「どこまでを害と考えるかは人それぞれですよ」


 そう言って立ち上がったシャオティエンの首に、ほんのわずか赤い痕が見えた。胸元が乱れている原因がそれだとわかり、アルスーンの緑眼が細くなる。


「王に散々なぶりものにされたこの身、もはやどこまでが害かなどわからぬものです」

「……何が目的ですか」

「目的は最初からただ一つだけ」


 歩み寄ったシャオティエンがゆっくりと両手を伸ばした。神華の国の衣装は袖口がゆるやかな作りだからか、斜め上に伸ばした細腕を柔らかな布がすべり落ちていく。そうしてあらわになった白い腕がアルスーンの首に絡みついた。


「わたしはあなたがほしい。わたしだけのαにしたい。それなのにうなじを噛んでもらえないままでいます。それならばと、少しばかり強引なことを考えました」

「あの男を利用しましたか」

「αでなくともわたしの香りからは逃れられません。ほんのわずかな香りでもです。それにΩに初心な者ほど香りに流されやすいもの。あなたに謝りながらも手を伸ばす姿は憐れと思いましたが、あなたが噛んでくれないのが悪いのですよ」


 そう言ってシャオティエンは女神とも悪の化身とも言いがたい微笑みを浮かべた。清純ながら蠱惑的で、あらゆる欲を刺激するような抗いがたい気配をも漂わせている。


(己がそういう性質であるとよく知っている者の姿だ)


 自分がどう動けば相手を惑わすことができるか理解しているのだろう。相手がαだろうとそうでなかろうと、シャオティエンの色香に惑わされない者はおそらくいない。

 細腕を引きはがしたアルスーンは、黒髪が乱れるのも構わず後頭部を掴むと噛みつくように口づけた。アルスーンより頭一つ分ほど背が低いシャオティエンは、口づけに応えようと軍服の胸元を握り締めながら爪先立ちになる。

 まるで縋るような仕草にアルスーンは腹の底がカッと熱くなるのを感じた。ほかの男が触れることを簡単に許しながら、こうして「あなただけだ」と身を任せる。まるで悪女のようだと思いながら、漂うΩの香りを吸い込むたびにαとしての本能を嫌というほど感じた。


「俺の嫉妬心を煽ろうとは」


 唇を離し、触れそうな距離のまま低い声でそうつぶやいた。


「そうでもしなければ、あなたは本気になってくれません」

「嫉妬しないかもしれないとは思わなかったのですか?」

「あなたから強いαの香りが漂い始めていましたから、αの本能を剥き出しにするのはわかっていました」

「……なるほど」


 最近やけに匂っていた香りは、どうやら自分の香りだったらしい。これまで自分の香りを感じるほど発情したことがなかったせいで気がつかなかった。


(そして、それを誘発したのは殿下で間違いない)


 そのためにずっとそばにいたのだろう。己の香りを何度も嗅がせることでαの本能を刺激し、とどめに自ら発情を促す薬を飲んで一気に本能を剥き出しにしようとした。


(Ωがαの発情を誘うとはな)


 αがΩの発情を促すことはあっても、Ωが意識してαを発情に導くなど聞いたことがない。

 美しくも妖しげに微笑むシャオティエンを睨むように見据える。そんなアルスーンにシャオティエンは艶やかな笑みを浮かべた。


「失礼」


 苦々しく思いながら肩に担ぎ上げたアルスーンは、いつもは見せない乱暴な足取りで屋敷の中へと戻った。普段とは違う荒々しい主人の様子に侍女たちが驚きの表情を見せる。そんな彼女たちに視線を向けることなく「しばらく部屋に人を近づけるな」と告げたアルスーンは、粗野にも見える仕草で寝室のドアをぴしゃりと閉じた。

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