乱暴な足取りのままベッドに近づいたアルスーンは、まるで荷物のようにシャオティエンを放り投げた。乱雑に扱われたというのに、アルスーンを見上げるシャオティエンの表情は艶やかなままだ。
「意外と乱暴なのですね」
「どの口がおっしゃる」
横たわったまま小さく笑うシャオティエンに緑眼がわずかに細くなる。先に挑発してきたのはシャオティエンだ。いまさら紳士ぶるつもりはない。相手もそれでいいと望んでいる。それでもアルスーンは手を伸ばすことなく、じっとシャオティエンを見下ろした。
(このまま流されればうなじを噛んでしまうだろう)
いまは意識がはっきりしているが、いつ発情に呑み込まれるかわからない。前回耐え抜いたのが嘘のようにαの本能が暴れようとしているのを感じていた。それでもじっと見据えたのは、うなじを噛むとどうなるのか知りたかったからだ。
「ここにきてまだためらうのですか?」
「なぜそうまでしてわたしにうなじを噛ませたがるのです?」
「何度も言っているでしょう? わたしをあなたのものにしてほしいのだと」
「前回の発情の折り、殿下は“あなたはわたしのα”とおっしゃった。そして殿下は俺を“最上のα”にするともおっしゃった。あれはどういう意味ですか?」
シャオティエンの笑みが深くなる。
「わたしの香りを嗅いでもなお、そのように冷静でいられる胆力もさすがはわたしのαだと感服します。ですが、あなたはもう逃げられない。ようやくあなたをわたしのαにできる」
真っ白なシーツの上で艶やかに微笑む姿にアルスーンは目眩を覚えた。グッと拳を握りしめたものの少しずつ酩酊していくような感覚に陥る。
「噛めばすべてわかること。それにあなたに噛まないという選択肢はありません」
「殿下、」
「ようやくあなたをわたしのαにできる。さぁ、早くわたしをあなたのものに」
体を巡っていた血が一気に脳天を貫いた。ひどい目眩を感じながら痩身をベッドに押さえつけ、妖艶に微笑む唇を塞ぐ。乱暴に組み伏せられている状態でもなおシャオティエンは喉の奥で小さく笑っていた。からかうようにアルスーンのうなじを指先で撫で回し、そのまま茶色の髪を掻き混ぜる。そうしてもう片方の手で広い背中を掻き抱いた。
「んふ、ふふっ、ふ……っ」
笑うように鼻を鳴らすシャオティエンに、アルスーンは甘噛みより強く唇に噛みついた。主導権を握っているのは自分だと言わんばかりにαとしての本能が牙を剥く。
「ん……んっ、んぅ!」
乱暴に手を動かしたアルスーンは、引きちぎる勢いで美しい衣装を剥ぎ取り始めた。布地が肌を擦るのが痛いのか、シャオティエンの眉が一瞬寄るものの抵抗することはない。それどころかアルスーンの口内に舌を差し入れ「もっと」と強請るように両腕で逞しい体を掻き抱いた。
「……なるほど、こうして乱暴にされるのがお好きでしたか」
「ふふっ。そうしたいのなら、ふ、お好きに。わたしは、はっ、あなたの、Ωなのだから」
口づけだけで息が上がっているというのに、シャオティエンはなおも妖艶に笑いながらアルスーンを挑発した。
「殿下のお許しは頂戴しました。となれば、この先は何をされても文句は言えますまい」
「文句など、言うはずがありません。ただ一つ、ふ、うなじを噛むことさえ、忘れなければ」
「……あなたという人は」
呑み込まれては駄目だ。流されるなと本能が告げている。それでもアルスーンはαとしての自分を解き放つことを選んだ。極上のΩを前にそれ以外の選択肢はなかった。
美しい肢体を抱きしめながら、ためらうことなく発情したΩの香りを思う存分吸い込んだ。先ほどまでとは比べものにならないほどの酩酊を感じつつ、「このΩを自分のものにするのだ」というαの本能のまま牙を剥く。
この日、アルスーンはかつてないほどα性が訴えるまま従順に動いた。どんなΩを前にしても理性を失わなかったのが嘘のように、目の前で美しく乱れるΩに何度も手を伸ばした。溺れるように互いを貪り尽くしたものの、本格的に発情したαとΩの本能はそのくらいで落ち着くことはない。
アルスーンはそれを承知のうえでシャオティエンを組み伏せ続けた。駄目だと訴える本能から目を逸らすように自らの欲と香りをぶつけ続ける。そうしてすっかり力を失ったシャオティエンを抱き起こし、あぐらをかいた膝の上に座らせると支えるように抱きしめた。
「さぁ殿下、休んでいる時間はありませんよ。うなじを噛んでほしいのでしょう?」
「は、はっ、」
わずかに上にある顔を覗き込むと頬や目元は真っ赤なままで、気のせいでなければ目尻が濡れている。気がつかなかったが泣いていたのだろうか。
(泣く姿もさぞや美しいだろう……この手でもっと泣かせてみたい)
そんな愚かなことを考えに自嘲しつつ、この状況でも光を失わない黒眼を見つめた。息は荒いものの意識はしっかりしているようで、「噛んで」と甘く掠れた声が返ってくる。
揺れる黒眼がアルスーンの心を覗き込むようにじっと見ている。濡れた瞳は妖しく光り、あらゆる者の欲を刺激するような色香を放っていた。瞳の奥で得体の知れない炎のようなものが揺らめいているようにも感じられる。
噛めば何かが起きる。そうした予感を抱きながらもアルスーンはα性を抑えることができなかった。いや、抑えようという気持ちさえすでに消えている。
(いますぐうなじを噛みたい)
これまで感じたことがないほどの渇望がわき上がってきた。
(このΩは俺のものだ)
生まれて初めてそんな感情を抱いた。考えるよりもαとしての本能がそう告げている。同時に焦燥感のようなものがわき上がり、早くこのΩを手に入れなければと強迫観念にも似た気持ちになった。
全身を巡る強烈な感情や感覚に目眩がした。発情とは違う、もっと深いところで恐ろしい何かが肉体や精神を侵食していく。これがシャオティエンの言う「運命」のせいだとすれば、抗うことはあまりに難しかった。アルスーンは一度奥歯を噛み締め、それからゆっくりと口を開いた。
「うなじを噛めば殿下は正真正銘、俺のΩとなります。いいですね?」
別に許可を得ようと思って口にしたわけではない。覚悟を決めるため、自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。深く息を吐きながら目を閉じ、暴れ出しそうな気持ちをなんとか手懐けながらゆっくりと目を開く。覗いた緑眼はハッとするほど鮮やかに光り、まるで燃え上がる大地のような色をしていた。
「あぁ……わたしの、わたしだけのαが、ようやく……」
アルスーンの燃えたぎる瞳にシャオティエンの黒眼がキラキラと瞬くように光った。
「シャオティエン殿下」
「あぁっ」
名を口にした瞬間、シャオティエンの体から濃厚な香りが一気に放たれた。これまでよりも濃く甘い香りがアルスーンの体を包み込み、それでもなお広がる香りが寝室を満たしていく。
「これが二度目の発情とは思えないほどだ。これほど妖しく美しく、そして恐ろしいほど濃い香りを放つΩの発情は初めて見ました」
アルスーンの大きな手が黒髪にかかる。長い髪を優しく掴むと、うなじをあらわにするように右肩へと押しのけた。逆の手で背中を撫で、グッと抱き寄せてから背骨をたどるようにうなじまでを撫でる。
「あぁ!」
指先でうなじに触れただけでシャオティエンが甘い悲鳴を上げた。抱きしめた体はぶるりと震え、ますます発情の香りが強くなる。
「それに前回の発情とはまったく違います。なるほど、これが運命とやらの発情というわけですか」
絡みつくようなシャオティエンの香りがますます濃くなった。部屋全体に広がっていた香りが、今度は凝縮するかのように二人を覆っていく。それに呼応するように新緑にも似たアルスーンの香りが広がり始めた。
(αとしてここまで発情するのは二度目か)
己の香りに気がつくほどアルスーンが発情したのは初めて発情したとき以来だった。その後は何度発情したΩを相手にしても己の香りが強まることはなかった。若いうちは「もしやαとして欠陥があるのではないだろうか」と悩んだほどで、そのうち自分はそういうαなのだと考えるようになった。
(だが、そうではなかった。相手が違ったということだったのだ)
シャオティエンが相手でなければ発情しない体だったのだろう。それが「運命」ということに違いない。アルスーンはようやく「運命」の意味を悟った。
「殿下のお望みどおり噛んで差し上げます」
耳元で囁くアルスーンの声にシャオティエンが喜ぶように体を震わせる。それにアルスーンのα性も歓喜し、ますます香りが強くなった。目眩がするような高揚感のなか、香しく甘いうなじにαの牙を突き立てる。
「あ・あ……!」
悲鳴にも似た声がシャオティエンの口から漏れた。くたりとしていた体はブルブルと震え、力が抜けていた下半身もガクガクと小刻みに震えている。それでもアルスーンは噛むのをやめなかった。このΩは自分のものだという鮮烈な感情のままに肌を食い破り、絶対に逃がすものかと牙で押さえつける。
どのくらい噛み続けただろうか。気がつけば腕の中のシャオティエンは動かなくなっていた。全身をアルスーンに預けながら荒い息をくり返している。
(やり過ぎたか)
シャオティエンの様子に、アルスーンはようやくうなじから唇を離した。それだけでも感じるのか、シャオティエンが「んっ」と甘く掠れた声を漏らす。
まるで気を飛ばしたかのようなシャオティエンを膝から下ろし、ゆっくりとベッドに横たえた。白い肢体は長い黒髪にところどころ覆われ、それが逆に淫靡に見える。発情しきったこの姿を見ればどんなαも我を見失うに違いない。
(こういう人物を傾国と呼ぶのだろう)
シャオティエンを手に入れるために国同士が争っても不思議ではないと思った。「陛下の前で発情しなかったのは幸いか」と冷静に考えながら、手に入れたΩにもっと触れたいという抑えがたい欲望に深く息を吐く。少し休ませてやるべきだとこらえたところで噛んだばかりのうなじに目が留まった。
「噛み痕……というより模様か?」
αの噛み痕は文字通り“噛んだ痕”としてうなじに残る。ところがシャオティエンのうなじには噛み痕とは言いがたい模様のようなものが浮かんでいた。
(鬱血痕にしては色が違うような……これは花……か?)
よく見れば白い肌に咲く花のような形にも見える。血が滲んでいるせいかと指を伸ばしたところで、なぜか「そうじゃない」と感じた。伸ばした手をベッドにつき、身を屈めてから花のような模様を舌でぺろりと舐める。
「ん……なめ、ないで」
ため息のような囁きが聞こえてきた。
「殿下?」
「ひどく、感じて、しまうから」
うわごとのような言葉だが、わずかに開いた黒眼がとろりと熱っぽくアルスーンを見ている。誘うような色香に、アルスーンは年甲斐もなく喉が鳴るのがわかった。
「殿下は存外、感じやすい体質のようですね」
「ん……意地悪、な、ことを、」
そう言いながらも嫌がる素振りは見せない。
(一回り以上も若い殿下に翻弄されるわけにはいかないが)
それでもひと言申し上げておくべきか、そう考え口を開いた。
「これで殿下は正真正銘の伴侶となりました。これからは不用意なことはなさらないように」
「ふふ、どう、でしょう」
「もはや俺の嫉妬を煽る必要はないはずですが?」
「わたしを、ふ、満足させてくれるのならば。そうでなければ、さて、どうでしょう……?」
からかわれているのだとわかっていても、発情で気が立っているアルスーンの中に腹立たしい気持ちがわき上がった。「それならば」とシャオティエンに覆い被さり、花にも見える噛み痕に吸いつくような口づけを落とす。
「ひぁっ。やめ、感じるから、やめて」
身悶えるのを押さえつけ、ついでだと言わんばかりにさらに甘く噛んだ。途端にシャオティエンが悲鳴のような高い声を上げて全身を震わせた。
「俺を煽るということはこういうことだと覚えておいてください」
シャオティエンの返事はなかった。よく見れば耳や首まで真っ赤にし、細い指はシーツを引っ掻くように掴んでいる。うなじからも再び濃い香りが漂い始めたことで、再び発情の熱に呑み込まれ始めたのだということに気がついた。
(あと一日、いや二日といったところか)
それが終われば名実ともに正式な伴侶になる。アルスーンがシャオティエンのうなじを噛んだという話は時間をおかずして貴族たちの間に広がるだろう。
ふと、これで自分は最上のαとやらになったのだろうかと考えた。シャオティエンの言葉を思い出したものの、自分が変わったようには感じられない。しかし「この国の王などよりもずっと優れたαに」とわざわざ口にしたことが妙に引っかかる。
(まるで本物の傾国のような言葉だな)
何気なく思ったことに背筋が冷たくなった。「いや、まさか」と思いながら、しどけない姿のシャオティエンを見つめる。
(殿下が本物の傾国として……いや、それでも……)
再び漂い始めた濃厚な香りにアルスーンの思考がゆっくりと停止した。残ったのは目の前のΩを貪りたいというαの本能だけだ。アルスーンは畏怖にも似たものを感じながら、甘く香る美しいΩを再び抱きしめた。