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第7話 白雪姫の姉ですが「王子様」とお茶します

 公爵家の午後は、今日も甘い香りに包まれていた。


「……ん?」


 ジョン・モンストラン公爵は、廊下の先から漂ってくる香ばしい匂いに、思わず鼻をひくつかせる。


「また、あの匂いか……」


 ジョンの机の上には、領地の管理に関する未処理の書類が、相変わらず山積みだった。そして、甘くバターの香りが漂うたびに、ますます集中力はどこかへ飛んでいく。


「どうして俺は、あの女の作るスイーツに、こんなに気を取られてるんだ?」


 ジョンは、自分の中に芽生えつつある奇妙な感情を振り払うように、首を振った。


(あれは、ただの菓子だ。俺が気にする必要は――)


 しかし、その時――


「公爵様、奥様が焼かれた新しいケーキをお持ちしました」


 執事が、銀のトレイに載せたリンゴケーキを持ってきた。


「……またケーキか」


ジョンは、思わず苦笑した。


(いや、違うな。今日は……)


「待て」


 ジョンは、ケーキが載ったトレイを見つめながら、ふと考え込んだ。


「アップルをここに呼んでくれ」


「えっ? 奥様を、ですか?」


 執事は驚きの声を上げた。


「そうだ」


 ジョンは素っ気なく答えた。


「どうせなら作った本人と一緒に食べた方が、うまいだろう」


 執事は急いで、アップルを呼びに厨房へ向かった。 


「えっ……?」


 公爵夫人アップルは、ジョンの突然の呼び出しに目を丸くした。


「ジョンが……私を?」


「はい、ティータイムをご一緒にと」


(な、なんで急に……?)


 執事の言葉に、アップルは一瞬固まった。しかし、意を決して答える。


「分かりました」


 アップルは、胸の奥が妙にザワザワするのを感じながらも、表情には出さず、静かに立ち上がり、階段を昇った。


「入れ」


 ジョンの私室に通されたアップルは、おずおずと足を踏み入れる。


「失礼します」


 ジョンは、テーブルのケーキにまだ手をつけず、アップルが来るのを待っていた。


「座れ」


 ジョンは、無表情のまま椅子を勧めた。


「え、えっと……」


「気にするな。せっかくだから、一緒に食べたくなっただけだ」


 ジョンは、アップルの戸惑いには気づかないフリをしながら、ケーキを指差した。


「これ、お前が作ったんだろ?」


「はい……」


 アップルは、少し戸惑いながらも、テーブルの向かいに座った。


「今回は、ちょっとアレンジしてみたんです」


 アップルは、照れくさそうに微笑んだ。


「リンゴをキャラメリゼして、バターの量を増やしてみたんです。生地も少し厚めにして……」


「……なるほど」


 ジョンは、一口ケーキを頬張った。


「……」


 サクッとした食感と、濃厚なバターの香り、甘酸っぱいリンゴの味が、口いっぱいに広がる。


「……うまい」


 ジョンは、無意識のうちにもう一口、さらにもう一口とケーキを頬張っていた。


「……マジでうまいな」


 ジョンは、思わずポツリと呟いた。


「そ、そうですか?」


 アップルは、頬を赤らめながらも、どこか落ち着かない様子だった。


(二人でお茶して、ケーキ食べるなんて。なんだか、夢みたいね)


 しかし、アップルは心の奥で自分に言い聞かせていた。


(でも、これはただの気まぐれよ)


 そしてアップルは、ティーカップに手を伸ばしながら、少しだけ声を潜めた。


「ちょっと、気になることがあるんです」


「ん? なんだ?」


ジョンは、ケーキを食べる手を止め、アップルの顔を見た。


「このリンゴケーキのレシピを、母に盗まれたみたいなんです。わざわざ公爵家まで手下を送り込んで、そんなことをするなんて。何か、悪い予感がします」


「レシピを、盗まれただと?」


 ジョンの眉がピクリと動いた。


「ええ。バカバカしい話とお思いでしょうけど、事実なんです。知っての通り、母は魔法使いです。城の中に、母の使い魔のカラスが侵入した形跡があって……」


 アップルは、真剣な眼差しで話を続けた。


「そして私のレシピが、なくなっていたんです……」


「なるほど、それは深刻な事態だなぁ……」


 ジョンは、不安そうな表情で、腕を組みながら考え込んだ。


「それじゃ、お前のスイーツは……この味は、もう二度と食べられないと言うのか?」


「は? そっちの心配ですか? ……いえ、大丈夫です。盗まれたのは改良版リンゴケーキのレシピだけですし、そもそも私が書いたものですから……」


「なあんだ。じゃあ、何も問題ないじゃないか」


 今後もアップルの手作りスイーツが食べられると分かって、ホッとした表情をジョンは見せた。


「あのですね……私が心配してるのは、レシピが悪用されないかということなんです。どう使うつもりかは分かりませんが。あんな母ですけど、やはり魔女としては最強ですから。意味のないことはしないと思います」


 アップルは、少しだけ声を落とした。


「いま王宮では、私の母が、完全に実権を握っています」


「ほう、サニー王妃陛下が……?」


 ジョンの顔が険しくなった。アップルは、静かにうなずく。


「母は、魔力で国を支配しています。国王陛下は後宮に引きこもって、ほとんど表には出てきません」


「陛下が、引きこもっているだと?」


 ジョンの表情はますます険しくなった。


「スノーホワイト王女殿下は、母に愛されてるようです。でも、溺愛っぷりが異常で……」


 アップルの声が、わずかに震えた。


「母は、スノーホワイトを手元に置いて、まるで……」


「……まるで?」


「……お人形みたいに扱っているんです。それで、スノーホワイト殿下の代わりに、私がここへ来ることになりました」


 アップルは、辛そうに目を伏せた。


「そうか」


ジョンは、ゆっくりと息を吐いた。


「国王陛下は政務を放棄し、王妃陛下が全てを決めている。そしてスノーホワイトは束縛されている、と」


 ジョンの瞳には、かすかな怒りが宿っていた。


「……もし、それが事実なら」


 ジョンは、ゆっくりと椅子にもたれかかった。


「君の実の母親なのに、申し訳ないが……誰かが王妃陛下を追い出して、スノーホワイトを助け出さなくてはな」


(やっぱり……)


 アップルは、ジョンの言葉を聞きながら、心の奥で考えた。


(やっぱりジョンは、スノーホワイトを助け出す王子様プリンスなのね……)


 モンストラン家は王室の親戚だから、ジョンを公爵殿下プリンスと呼んでも、さほど差し支えはないだろう。


(そして私は、王家の血を一滴も引いてない、ただの代用品……)


 アップルは心のなかで自嘲しながら、かすかに苦笑した。一方、ジョンは冷静に分析を続ける。


「このまま王妃陛下の支配を放っておけば、国は崩壊する」


 ジョンは、自分がやる、とは最後まで言わなかった。表面上はあくまで、評論家のような態度で、意見を口にするだけだった。それでも、アップルの胸は、ギュッと締め付けられた。


(……やっぱり、ジョンはスノーホワイトのことを想っているんだ)


 アップルは、静かにティーカップを手に取りながら、心の中でため息をついた。


(私は、ただの駒。ジョンは、スノーホワイトの王子様なのよ)


 アップルは、潤んだ瞳でジョンを見た。その視線に気づいて、ジョンもアップルの顔をまじまじと見つめ返した。


「……ん? どうした?」


 頬を紅潮させながら、ジョンは尋ねた。


「いえ、なんでもありません」


 アップルは、無理に微笑みを作りながら、小さく首を振った。ジョンの顔が真っ赤なのに、アップルも気がついた。スノーホワイトを助けに行きたい一心で、気分が高揚しているのだろうとアップルは思った。


「お話、聞いてくださってありがとうございました」


「……うん」


 ジョンは、それ以上何も言わなかった。


(スノーホワイトは、義理でも私の妹。ジョンが妹を助け出してくれるように……私も姉として、できる限りのことをするまでよ)


 アップルは、壁に掲げられたジョンとスノーホワイトの巨大な肖像画を横目に見ながら、ジョンの部屋を退出した。


(私は別に、それ以上何も望まない)


 しかし――


 ジョンは、アップルが去った後、残りのケーキを口に運びながら、どこかソワソワと、落ち着かない気分を抱えていた。


 体の奥底から、やり場のないエネルギーが湧き上がってくるのを感じる。


「アップル……ほんとに、不思議な女だな」


 ジョンの独り言は、誰にも届かないまま、部屋の中にかき消えていった。


 ジョンを「スノーホワイトを助け出す王子様」に育てようと、切なく思い詰めるアップル。しかしその覚悟は、夫婦の距離を再び遠ざけようとするものでもある。


 そしてジョンの心は、アップルの思惑とは別の方向へと、大きく動き始めていたのであった。

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