アップルは公爵領で、スイーツの研究に余念がなかった。その日もアップルは、ジョンと使用人たちのために作る、薬草入りリンゴケーキの改良版レシピを書き上げた。
「よし、このレシピなら、一段とグレードアップしたケーキのふっくらした食感が楽しめて、体も心も元気になれるわね!」
アップルは満面の笑みを浮かべた。そして実作に取り組む前に、少し休憩して、疲れた頭を休めることにした。
だが、その様子を窓の外からうかがう、黒い影があった。
それは、サニー王妃が密偵として放った、使い魔のカラスだった。
バサバサバサッ――
アップルが椅子に座って居眠りを始めると、カラスは窓から侵入し、机のレシピをくわえて飛び去った。
「あれ? 私、いま寝てた……?」
眠い目をこすりながらアップルが起き上がった時、机の上には既にレシピはなく、カラスの黒い羽根が一枚残されているだけだった。
「あーっ、レシピがない! きっと、あの人のしわざね!」
その日の夜、王宮の塔の最上階。
重々しい鉄の扉が閉ざされたその部屋では、今日も甘ったるい香りが漂っていた。
「スノーホワイトちゃ〜ん、十八歳の誕生日おめでとぉ〜! ママが、特製のリンゴケーキを焼いてきたわよぉ!」
サニー王妃が、ニコニコと笑いながら部屋に入ってきた。
手に持っているのは、こんがり焼き上げられた、見るからに怪しいリンゴケーキの皿。
「……」
スノーホワイトは、ベッドに腰掛けたまま、目の前のケーキを静かに見つめていた。
「また、それ?」
「あらあら〜、疑い深いわねぇ」
サニーはクスクスと笑いながら、ケーキをテーブルに置いた。
「今日のケーキはねぇ、公爵領に行ったアップルが、特別にレシピを書いてくれたの!」
アップルから盗んだレシピを、スノーホワイトに見せびらかすサニー。
「鏡のお告げでね。アップルのレシピ通りに作れば、スノーホワイトちゃんの美容と健康にすっごくいいスイーツが出来るんだって! アップルって、魔力は全然ダメダメなんだけど、そのへんの草をむしってきて料理作るとか、そういう卑しい知恵だけはあるのよねぇ」
「……アップルお姉様が?」
スノーホワイトは冷めた目でサニーを見つめた。
「もしかして、お姉様まで、私の殺害に加担させてるの?」
「そんなことないわよぉ〜! ただ、少しでもあなたを可愛いままで保つためには、たまにはリセットが必要なのよ。だってあなた、しょせんは死体だもの。時々リセットしないと、腐っちゃう」
「……なるほどね」
(そう言えば、この女が王宮に乗り込んできて五年。まだまだ成長期のはずなのに、私の背は少しも伸びてない。蘇生魔法は、直前の姿に戻すんじゃなくて、五年前のあの日、崖から落ちて最初に死んだ時の状態に、私をリセットしてたんだ……)
このまま王妃のペットとして暮らせば、永遠に成長できず、幼い姿のままで死と復活を繰り返すことになる。さりとて、ここを逃げ出せば、いずれは体が腐り果てるだけ……。スノーホワイトは、背筋がぞっとするのを感じた。
「ほら、さっさと召し上がれ!」
サニーはウキウキした様子でケーキを切り分け、スノーホワイトの目の前に差し出した。
「ねえ、ママ。もう飽きないの?」
「飽きる? なぁに、それ?」
「私は何度も死んで、そのたびにあなたが蘇生魔法を使って……その繰り返しじゃない」
スノーホワイトは淡々と呟いた。
「それって、楽しいの?」
「楽しいわよぉ! だって、何度でもあなたを最高の状態に戻せるんですもの!」
サニーは両手を広げて、狂気じみた笑顔を浮かべた。
「壊れても、壊れても、また元通り! 私のスノーホワイトちゃんは、永遠に可愛いままなのよ!」
「ママ、あなたって本当に面倒くさい」
スノーホワイトは呆れたように目を伏せた。
「さあ、早く召し上がって!」
サニーが無邪気に笑いながら催促すると、スノーホワイトは観念したように一切れを手に取った。
「いただきます」
ケーキを口に運んだ瞬間、甘酸っぱいリンゴの風味とバターの香り、そしてかすかなハーブの香りが広がった。
「ん……美味しいわ」
スノーホワイトは二切れ、三切れとケーキを口に運ぶ。
「でしょぉ〜?」
「……でも」
スノーホワイトは、徐々に瞼が重くなっていくのを感じた。
「……やっぱり、毒ね」
「ふふふ! 大正解!」
サニーは無邪気に手を叩いた。
「でも大丈夫! 今までよりさらにグレードアップした健康美人な姿で、ママが蘇生してあげるからねぇ!」
「……っ」
視界が暗くなる中、スノーホワイトは最後に一つだけ言葉を漏らした。
「……バッカみたい」
そして、彼女の体は静かに崩れ落ちた。
「さて……」
サニーは、スノーホワイトの亡骸を見下ろしながら、愛おしげに微笑んだ。
「すぐに元通りよぉ〜」
彼女は両手を広げ、怪しげな紫色の魔法陣を展開した。
「「
淡い光がスノーホワイトの体を包み込み、再び命が宿っていく。
「さあ、目を覚まして!」
「……っ」
スノーホワイトは、再び息を吹き返した。
「おはよう、スノーホワイトちゃ〜ん!」
目を開けると、そこには満面の笑みを浮かべるサニーがいた。
「また生き返ったわねぇ! これでママとまた楽しい時間を過ごせるわ!」
「……」
スノーホワイトは、ぼんやりとした視線でサニーを見つめた。
(また生き返らされた……)
だが、その瞬間。
「……ん?」
スノーホワイトは、ふと奇妙な感覚を覚えた。
(これは……お姉様のレシピの効果?)
幽閉されて以来、体力も気力も極限まで削られた。しかし今回の復活では、今までになく知覚が敏感になり、力がみなぎっているのをスノーホワイトは感じていた。
ケーキのレシピに含まれた薬草の、絶妙な配合バランスがもたらした作用のようだった。
今なら、隙さえあれば、この「牢獄」から、全力疾走して逃げ出せそうな気がする。
「ママ……」
「なあに? スノーホワイトちゃん!」
「なんか……魔力、消耗しすぎてない? 目の周りに、クマができてるけど」
「えっ……?」
サニーの笑顔が、一瞬にしてこわばった。
「な、なによ、そんなことないわよぉ〜?」
スノーホワイトは周囲の魔力の流れを、慎重に探った。
(やっぱり。いつもなら、結界はびくともしない。でも今は……)
結界の魔力が、わずかに弱まっているのが分かった。
(今までにないチャンスかもしれない)
スノーホワイトは、内心で密かに笑みを浮かべた。
「ママ、きっと睡眠不足よ。国の政治を何もかも一人で決めてるから、働きすぎなんじゃない? 少し休んだ方がいいわ」
「えっ? そ、そうかしら?」
サニーは、まだ結界の弱体化には気づいていないらしく、過労が顔に出ていると指摘されたことにだけ、激しく動揺している様子だった。
「ママのために、私がお茶を淹れてあげる。だから、少し横になって待ってて」
「まあまあ、スノーホワイトちゃんったら優しいわねぇ!」
サニーは、大げさにふらつく仕草をしながら、スノーホワイトのベッドに我が物顔で横になり、満足げに笑った。
(今度こそ……)
スノーホワイトは、目の前に寝そべるサニーを見つめながら、静かに拳を握りしめた。
(私は、腐っても王女。明日をも知れぬ命でも、誇りを持って生きるほうがいい。絶対に、この塔からは逃げ出してやる)
結界が完全に回復する前に、脱出の準備を整えなければならない。
「ママ、少しだけ待っててね……」
スノーホワイトは優雅に微笑みながら、心の奥底で燃え上がる決意を密かに抱いていた。