公爵家の昼下がりは、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
しかし、廊下の奥からふわりと甘い香りが漂ってきた瞬間――その空気は一変する。
「ふふ、今日もいい出来ね!」
公爵夫人アップルは、キッチンで特製のリンゴケーキを焼き上げていた。
「気分の落ち込みには、このハーブがいいわ。今日はバターを少し多めにして、蜂蜜とバニラエッセンスは控えめに……うん、完璧ね!」
彼女はケーキの焼き色を確認しながら、誇らしげに微笑んだ。
「公爵家の食事はあまりにも質素で、栄養不足すぎるもの。少しくらい私が変えてもいいわよね」
アップルは、自分にそう言い聞かせながら、ケーキを冷ましていた。
(どうせ城に引きこもってばかりなんだから、せめて、体に良くて美味しいものを食べさせないとね)
その頃――
「……また、あの匂いか」
ジョン公爵は、机に広げた書類を手にしたまま、ふと鼻をひくつかせた。
「ケーキかな……」
彼の目の前には、領地の税収に関する報告書が山積みになっていたが、甘いリンゴとバターの香りが漂うたび、書類の文字が霞んで見える。
「集中できん……」
ジョンは小さくため息をついた。
「公爵様、こちらを」
執事が、ジョンの執務室に焼きたてのリンゴケーキを運んできた。
「ん? またか」
ジョンは、ケーキの香りに誘われながら、気だるそうに皿を見つめた。
「最近、やけに頻繁だな……」
そう言いつつも、手はしっかりとケーキに伸びていた。
「まあ、食べるか」
ジョンは、何気なくフォークで一口食べた。
「……!」
ふんわりとしたケーキの食感、バターの香ばしい香り、リンゴの甘酸っぱさと、ほんのりとしたバニラエッセンスのアクセント――。
ジョンは、口の中で広がるそのハーモニーに、思わず目を閉じた。
「……うまい」
その言葉は、気づかぬうちに漏れ出ていた。
「なんだ、これ……」
ジョンは驚きながら、もう一口、さらにもう一口と、ケーキを頬張った。
「前のタルトも悪くなかったが、これは……」
ジョンは、知らぬ間に笑みを浮かべていた。
「……あの女、何を企んでるんだ?」
ジョンは、ふと我に返った。
「こんなにうまいものを毎日食べさせて……俺を懐柔する気か?」
眉をひそめながらも、次の瞬間にはまたフォークを手に取っていた。
「……いや、違うな」
ジョンは、空になった皿を見つめながら、小さくつぶやいた。
「アップルはそんな計算高い女じゃない」
ジョンは、ふと昔のことを思い出していた。
――幼馴染、スノーホワイトとの婚約。
それは国王の命令による政略結婚だった。
「王家に世継ぎの男子が生まれた場合、スノーホワイトはモンストラン公爵家当主と結婚する」
それが、王家と公爵家の間で交わされた条件だった。
しかし――
「結局、王家に男子は生まれなかった」
ジョンの目が遠くを見つめた。次世代の王家を継ぐのはスノーホワイトである以上、公爵家に嫁入りするわけにはいかない。そしてジョンも、モンストラン公爵家を守らねばならない立場上、王家に婿入りすることはできない。
「元々、スノーホワイトとの結婚なんて、無理な話だったんだ」
ジョンは、苦々しい笑みを浮かべた。美しい少女スノーホワイトの姿は、少年の日の思い出として、強烈にジョンの心に焼き付いていた。彼女との結婚が現実となる日を、ひたすら夢見ていた。
だがその夢は、「王家に世継ぎの男子が生まれたら」という条件付きの、全く他力本願なものでしかなかった。ジョン自身は、その夢の実現のために、特に何も行動してこなかった。
「それなのに、俺は……」
アップルが嫁いできた時、ジョンは無意識に、彼女に冷たく当たった。その態度を見て、使用人たちも同じように彼女を冷遇したことだろう。
(アップルのせいでスノーホワイトとの婚約が破棄された――)
そう思い込もうとしていた。
「でも、違う……」
ジョンは、自嘲気味に笑った。
「全部、俺の逆恨みだったんだな」
ジョンは、窓の外を眺めながら、アップルのことを思い浮かべていた。
「……あの女、本当に変なやつだ」
彼女が何を考えているのか、ジョンにはまだわからなかった。
しかし――
「――良く分からんが、甘いものを食ったせいか、頭が冴えてきたぞ。今日中に、この仕事を全部終わらせるとしよう」
ジョンは、それまでとは見違えたように精力的に、山積みの書類をテキパキと処理していった。冷え切っていた心に、ほんの少しだけ、熱いエネルギーが戻っていることに彼自身も気づいていた。
その頃――
「ふぅ……今日のケーキも完璧だったわ」
アップルは、焼き上がったケーキの残りを見つめながら、小さくつぶやいた。
「でも……ジョンは私を妻とは思ってないのに、何やってんだろ、私」
アップルの瞳には、どこか影が差していた。
「……私なんかが愛されるわけない」
アップルは、心の奥で小さくつぶやいた。
「私は、ただの代用品……」
アップルは、自分自身にそう言い聞かせていた。
「ジョンが愛しているのは、スノーホワイト」
「私は、ただの『政略結婚の駒』……」
アップルの心には、どこか諦めがあった。
(でも……)
アップルは、ほんの少しだけ胸に手を当てた。
(でも今は、ジョンが少しでもスイーツで幸せな気分になってるなら……まあ、それでいいか)
アップルは、自分の価値をまだ信じられなかった。
ジョンは、徐々にアップルへの想いに気づき始めていた。
「私なんかが……」
「あいつ、なんでこんなに……」
お互いの気持ちのすれ違いに、気づかないまま。
「明日も……アップルパイ、焼こうかな」
「……また、あの香りに誘われてしまうのか」
アップルは、心の奥の切ない想いを隠しながら、次のスイーツの準備を始める。
ジョンは、甘い香りを思い出しながら、心の奥で静かに問いかける。
二人の心は、少しずつ交差し始めていた。