モンストラン公爵家の午後。
ジョン・モンストラン公爵は、執務室で書類を片手にしながら、机をトントンと指で叩いていた。
「遅い……」
朝から待っていたのに、いつもの甘いスイーツの香りが漂ってこない。
午後になっても、ティータイムの気配は一向に感じられない。
「おかしいな」
ジョンは、書類を無造作に置いて立ち上がった。
「アップルは……どこだ?」
「公爵様、どうかなさいましたか?」
老執事が恐る恐る声をかけた。
「アップルは?」
ジョンは、短く尋ねた。
「奥様は……確か、庭の方にいらっしゃったかと」
「……庭?」
執事の言葉を聞いたジョンの眉間に、深いシワが刻まれた。
「一体何をしている……?」
一方その頃、庭園の片隅にある
「このハーブはですね、神経痛や関節痛に効くんですよ」
アップルは、テーブルの上に摘み取ったハーブを並べながら、優しく微笑んだ。
「へぇ、さすが奥様。薬草にお詳しいんですね」
料理長は、感心しきりだった。
最初はアップルを「公爵夫人が厨房に立つなんてとんでもない」と目の敵にしていた彼も、今ではすっかり心を入れ替え、彼女のスイーツ作りに感服している。
「実は、奥様のスイーツを毎日頂いていたら、長年苦しんだ腕の神経痛が、すっかり楽になったんですよ」
「よかったです。シナモンの消炎作用かな? ハーブを使ったお菓子の効能、もっと研究してみたいですね」
アップルは楽しそうに笑ったが、ふと、その笑顔が曇った。
「どうなさいました?」
料理長が心配そうに尋ねる。
「……いえ。いつか、私がここからいなくなった時のために、料理長さんにレシピをお教えしておこうかなと思って」
「え?」
アップルは、寂しげに目を伏せた。
(だって、ジョンがもし、あの人を倒してスノーホワイトを助け出したら、私はブラックモア公女ですらなくなる。ただの平民に戻ったら、当然、この城も出ていかなくちゃいけない……)
「い、いなくなるって、どういう意味だ⁉」
突然、ジョン公爵の声が響いた。
「わっ⁉」
アップルは驚いて声を上げた。物陰から現れたジョンは、まるで猫のような素早さで、ババッとアップルのそばに駆け寄った。
「何を……何を勝手に決めているんだ!」
料理長が、青ざめながら立ち上がる。
「こ、公爵様……!」
「貴様……」
ジョンの鋭い視線が、料理長に突き刺さる。
「使用人の分際で、私の妻と一緒の席に座るとは、どういうつもりだ」
「い、いや、その……」
「しかも、距離が近すぎるぞ!」
ジョンはさらに一歩近づき、大声で怒鳴りつけた。
「も、申し訳ありません!」
料理長は汗だくになりながら、椅子を引いてそそくさと退出していった。
「ジョン、落ち着いて!」
アップルは慌ててジョンの腕を引いた。
「料理長さんとは、ただスイーツの話をしていただけなんです。私がいなくなった後のことを考えて……」
「何をバカなことを言っているんだ」
ジョンは、苛立たしげに言った。
「お前がいなくなるなど、許すわけがないだろう!」
「で、でも……!」
「謝罪しろ」
ジョンは椅子に腰掛けて足を組み、ふんぞり返りながら言った。
「えっ?」
「スイーツを持って来なかっただろう。謝罪しろ」
「ご、ごめんなさい。スイーツなら、ちゃんとここに……」
アップルはバツが悪そうに顔を伏せながら、バスケットからリンゴヨーグルトを取り出して、公爵の前に置いた。
「それだけで、許されるとは思うなよ」
ジョンは、不機嫌そうに腕を組んだまま、さらに言い放った。
「食べさせろ」
「……はい?」
アップルは、思わず耳を疑った。
「口に運べ」
ジョンは、まるで当然のように口を開け、「アーン」の体勢になった。
「え、ええぇ⁉ それは……!」
「早くしろ」
「で、でも……!」
アップルの頬が、見る見るうちに真っ赤になる。
「……わかりました」
アップルは、観念したようにスプーンを手に取り、リンゴヨーグルトを一口分すくった。
「……い、いきますよ?」
「ああ」
ジョンは、目を閉じて口を開けたまま、微動だにしない。
(なんでこんなことに……!)
アップルは心の中で叫びつつも、ジョンに顔を近づけ、震える手でスプーンを口元へ差し込んだ。
「あ、アーン……」
ジョンは、パクリとヨーグルトを食べ、満足そうに目を細めた。
「……うまい。柔らかいヨーグルトの中に、固いリンゴが入ってる。このシャリシャリ感がたまらんな」
素朴なほめ言葉に、アップルはますます顔を赤らめた。
「これで、今日は許してやろう」
ジョンは満足げに言った。
「明日も食べさせろよ」
「な、何をおっしゃってるんですか! ではこれで、失礼しますね!」
アップルはあわただしくバスケットを抱え、席を立つ。
しかし、その顔には、ほんのりと笑みが浮かんでいた。