王宮・塔の最上階。
「……今だわ」
スノーホワイトは、静かに息を整えた。
サニーが、蘇生魔法の疲労から、ベッドで泥のように眠り込んでいる。その、ほんの一瞬のスキをつく――
長い幽閉生活と蘇生ループで鍛えられた彼女は、このタイミングを虎視眈々と狙っていた。
(一撃でとどめを刺せれば、あるいは……?)
スノーホワイトは、守り刀の短剣を戸棚から取り出し、握りしめた。サニーが目を覚ます気配はない。しかし……
……サニーほどの大魔法使いが、自身の体に自動反撃魔法も仕掛けず、ただ無防備に爆睡するとも思えない。実際、幽閉生活の初期に彼女の背後から襲いかかってみたことがあったが、その時はダメージが全部跳ね返ってきた。
(あの時は、痛かったなぁ……それに、この人ひとりを暗殺するだけじゃ、この国はきっと、まともな姿には戻らないのよね。やっぱり、私が一度、外の世界に出なくちゃ)
スノーホワイトは、衣ずれの音を立てないように細心の注意を払いながら、純白のドレスを脱ぎ、動きやすい外出着に着替えた。
「可愛いだけのお人形なんて、もう終わり。今度こそ私の意志で、生き抜いてみせる」
部屋の扉は、サニーの力が弱まっている今、少し魔力を込めるだけで、軋んだ音を立てながら開いた。
足音を忍ばせ、塔の階段を一段ずつ駆け下りる。
途中の階に、見張りの兵士は皆無だった。プライベート空間への干渉を嫌うサニーの命令で、王宮の兵士たちは、スノーホワイトの部屋から遠ざけられているらしい。自身の魔力に対するサニーの過信が生んだ、警備の穴だった。
(おかげで、堂々と降りられるわ)
塔の二階に着いて階段の下を覗き込むと、一階にはさすがに、警備隊が詰めているのが見えた。スノーホワイトはそっと二階の窓を開け、窓の外に出た。石造りの外壁に必死でしがみつきながら、足場を慎重に探して這い降りること約五分。ようやく、地上に足が着いた。
(自由……!)
城壁に向かってダッシュするスノーホワイトの姿に、ようやく気づいた警備兵が叫ぶ。
「王女殿下をお止めしろ!」
スノーホワイトは一瞬の迷いもなく、城壁から堀の水へとダイブした。兵士たちは、まさか王女に矢を射ることもできず、オロオロするばかり。
「後を追うんだ! じょ……城門を早く開けろ!」
城門から追手の騎馬隊が出撃する頃には、スノーホワイトはとっくに堀を泳いで渡り、王都の暗闇の中へ消えていた。
スノーホワイトは、追手に見つかりやすい街道沿いを避け、逃走経路として「魔の森」を選んだ。
「スノーホワァァァァァァァァァァイトッ!」
翌日、王宮全体に響き渡った絶叫。
塔のベッドの上を転げ回る、サニー王妃の叫び声だった。
「いない、いない、いなぁい……っ⁉ 私のかわいいスノーホワイトが、いないのよぉおおおお!」
寝グセ頭のまま泣き崩れ、スノーホワイトのファンシーな部屋を破壊し尽くしたサニーは、我に返ると、魔法の鏡の所へ行き、血走った目で鏡を睨みつけた。
「スノーホワイトはどこよ⁉ 答えなさい、鏡!」
王家の秘宝・魔法の鏡が、淡々と答える。
「街道沿いで見つからないのなら、魔の森を通って、モンストラン公爵領にでも逃げ込むつもりでしょう」
「はぁぁ⁉ 魔の森って、足を踏み入れたら幻覚を見て、気が狂う森じゃない。なんであんな不気味な所に……」
「あなたが追い詰めたせいでは?」
「うるさいうるさいうるさーいッ!」
鏡を軽く蹴飛ばしてから、サニーは考えこんだ。
「仕方ないわね。例の『ハンター』を呼びなさいッ!」
その日の午後、兵士たちに連行されて、灰色のマントをまとった男が、王妃の前に姿を現した。彼は両目を、黒い眼帯で覆っている。
「ハンターとやら、あなたは魔の森で、自由に動けるらしいわね」
「――仰せの通りで。私は、両眼がよく見えません。それゆえに魔の森では、幻覚の影響を受けません。この城では一日かけても出口を見つけることすらできん私ですが、魔の森の中なら、この額の骨、『第三の眼』で魔力を探知して、手に取るように周りの様子が分かります」
「ねぇ、魔の森に行ったスノーホワイト王女を、捕まえてきてくれない?」
「殺しても構いませんか」
「だめえぇ〜! 森の奥で死なれて、私の蘇生魔法が間に合わなかったらどうするのよ。傷ひとつ、つけないでちょうだい。 ふふっ……生け捕りで、ね?」
「面倒ですな……私は森に罠を仕掛け、獲物を捕って暮らすだけの世捨て人です。あまり器用なことはできません」
ハンターはため息のような息を吐きながら、魔力でスノーホワイトの痕跡を探る。
「感知した。心が、強く跳ねておる……!」
「そうよ。私のかわいいスノーホワイトちゃんは、命がけでぴょんぴょん逃げてるの。さぁ、追いかけて、私のもとに戻して?」
「承知しました。まずは私を、森の入口に戻して頂けますか」
サニーはうなずいた。兵士たちはハンターを連れ出して馬車に乗せ、魔の森へと向かった。
その頃、スノーホワイトは既に、夕日が照らす森の入口にまで到達していた。
「ここなら……少なくとも、あの人だって、追っては来れないはず」
王都から外れた「魔の森」は、古代の精霊の力が渦巻く聖域だった。目に映るものすべてが、魔物の姿となり、悪夢の光景となり、悲しい思い出の幻となって、森に踏み込む者の精神を切り刻むという。
サニーでさえ、恐れて、決して近寄らないエリアだった。
しかし、スノーホワイトには、この森の奥に、ある目的があった。
(森の向こうにあるという、
スノーホワイトは震える足を抑えながら、森の中へと足を踏み入れて行った。森の木々が、彼女の目にはまるで絞首台のように映っていた。