夜の九時。仕事を終えたかのんはロッカーで着替えをして慌ただしく廊下を歩く。
すると、学生のアルバイトが声をかけてきた。
「あ、大河さん、ご飯一緒に……」
「ありがとう、でも今日は用事があるんだ!」
笑顔でその誘いを断り、かのんはいそいそと職場を出て駅へと向かう。
昨日の夜見つけたカフェ。
変な噂があるカフェ。
今朝、ここに来る途中見つけることができなかったカフェは本当に、夜だけ営業しているのだろうか。
会いたい人がいるのならマップアプリが案内してくれるというが、でもかのんにはそんな相手、いない。
ではなぜかのんはあの店を見つけられたのか?
「でも、そんなことあるわけないよね。だって死者に出会えるカフェなんてそんなの、嘘に決まっている」
電車に揺られてかのんは最寄駅へとつく。
昨日と同じ時間、かのんは駅を出て足早にアパートへと続く道を歩く。
九時半を過ぎているので人通りはやはり少ない。
ときおり車が通るだけの道を歩きそして、住宅街の細い道を行く。
もう少し行くと、あのカフェを見つけた場所にたどり着く。
そう思うとかのんの足はどんどん早くなっていく。
角を曲がり、あのカフェが見えるはずの通りへと出たときだった。
暗い住宅街の中にぼうっとしたオレンジ色の明かりを見つけて、かのんは思わず足を止めた。
「あ……」
その灯りを見て、思わずかのんは足を止めた。
夜なので外観はよくわからない。だけど、その建物の前に見覚えのある形の看板が立っている。
かのんはゆっくりとそこに近づきそして、看板を見つめた。
「思い出に出会えるカフェ、月の隠れ家」
そう、確かに書かれている。
「これ、昨日と同じ言葉……」
そう呟き、かのんは看板から目を離し、入り口のドアを見つめる。
このドアもたぶん昨日と同じだろう。
昨夜は老齢の女性が一緒で、彼女が扉を開いたものだからちゃんと見てはいなかったけれど、ドアを照らす淡いオレンジ色の灯火は覚えている。
「なんで昼は見つけられなかったんだろう?」
顔を歪ませかのんは首を傾げ、店の扉のノブに手をかけてゆっくりと開いた。
扉を開けると、昨日と同じオルゴールのような音楽が聞こえてくる。
それに、数組の客。
昨日とは顔ぶれが違うかと思ったが、一組だけ知っている顔があった。
昨日の女性が、昨日と同じ青年と談笑しているのが見える。
かのんが見たブログが本当であるなら、二度目にここを訪れることはできないはずだ。なのにかのんも、あの女性もここを訪れることができた。
そもそもかのんに会いたい人はいないし、アプリも使っていない。ならばあれは怪しい噂なのだろう。
そも自分を納得させて、かのんは店内に足を踏み入れた。
「……いらっしゃいませ」
マスターである京介が、昨日と同じ服装でカウンター内から出てくる。
「おひとり、ですか?」
言葉をかみしめるように、こちらの様子を伺う様な目でかのんを見つめ、京介が問いかけてくる。
「はい、そうです」
「……そう、ですか。ではあいている席にどうぞ」
そう淡々に告げ、京介はカウンターに戻っていく。
なんだろうか、あの態度は。まるで、かのんが現れたのが不思議であるかのような反応だ。
かのんは店内をみまわしそして、カウンターの隅に座るルカの姿をみとめる。
彼は今日も、パソコンに向かって作業をしているようだった。
連れがいるわけではないので、かのんは昨日と同じ席に着く。ルカと、ひとつ席を空けた椅子に腰かけそして、メニューを開く。
勢いで入ってしまったものの、二日続けて夕食に千円以上かけてはいられない。
非正規のパートに、千円の出費は痛すぎる。
とはいえ来てしまったし、なにも頼まないわけにはいかない。それに腹は減っている。
「ご注文が決まりましたらお声をかけてください」
「あ、決まってます。あの、夜空のカルボナーラとカフェオレをください」
そうかのんが言うと、京介はエプロンのポケットから伝票を取り出し、そこにさらさらと書いていく。
彼はふっと顔をあげて、どこか懐かしそうな表情を浮かべた後、
「かしこまりました」
と言い、かのんに背を向け奥へと消えていった。
なんだろうか、あの顔は。不思議に思うけれど確認することもできないので、かのんは水が入ったコップを手にした。
「あれ、今夜も来たのかい?」
楽しそうな声が隣の隣からかかり、かのんは顔をそちらに向ける。
口もとに笑みを浮かべたルカが、頬杖をついてこちらを見ていた。
「こ、こんばんは。あの、はい。ちょっと気になってしまって」
そう答えてかのんは曖昧に笑う。さすがにあのブログの事は話せない。あんなのきっと噂だから。
「そうなんだ。珍しいよ、二度も来る人は」
そう、無邪気に笑いながら言われた言葉に、かのんは思わず目を見開く。
二度、来る人は珍しい。
「え?」
「うん、珍しいよ。たぶん、ふつうは一度しか来ないからね。あの老女も昨日きていたと思うけど、ふたりもそんな人が現れるのは本当に珍しいよ」
そしてルカは、あの老女の方をちらり、と見た。
彼女は相変わらず、楽しそうに青年と話をしていた。まるで、恋人といるかのように頬を染めて。