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第6話  老女

 かのんは訳が分からなくなっていた。

 ルカの発言から察するにこの店に二度訪れることは基本、無いらしい。それはなぜなのか? まさかあのブログに書かれていた内容は本当の事なのか?

 いいや、そんなことあるわけがない。ただ、ルカが覚えていないだけだろう。

 そうかのんは自分に言い聞かせ、水をひと口飲んだ。

 そうなるとひとつ気になることがある。

 あの老女は昨夜、かのんと会話をしている。ならばかのんの事を覚えているのだろうか。

 気になるけれど、いきなり話しかけて大丈夫か? いやでも、昨日も顔を合わせているのなら、話しかけてもおかしくないだろう。

 そう自分に言い聞かせ、かのんは意を決して立ち上がり、老女と青年が座る席へと向かった。

 紺色のテーブルクロスがかけられたテーブルに、向かい合って座るふたり。

 老女は品のいい、七十代くらいの女性だ。肩まで伸びた髪の毛は綺麗に白くなっている。紺色のコートは背もたれにかけていて、黒いセーターを着ている。

 対して青年は、長めの黒い髪に白地に黒のダイヤの柄が入ったセーターを着ている。その下は柄のシャツを着ているのだろうか。襟元からちらりと赤い模様が見える。

 その服装が、なんだかイマドキに感じなかった。祖父母のアルバムで見た、ふたりの若い頃のファッションに似ているような気がする。

 かのんに気が付いた老女は、微笑み、


「あら、こんばんは」


 と言った。


「こんばんは。今夜もここにいらしたんですね」


 そうかのんが言うと、女性は驚いたように目を見開く。

 そして、小さく首を傾げて言った。


「今夜も……私がこちらに来たのは初めてですが」


「そうですね、松尾さんと俺がここに来たのは今夜が初めてですよ」


 青年の方がそう告げ、こちらを見つめて微笑む。

 そんなわけはない。かのんは確かに老女……松尾さんと話しているはずだ。なのに彼女はかのんを覚えていない?

 動揺して固まっていると、後ろから声がかかった。


「大河様、料理、ご用意できましたよ」


 驚いて振り返ると、そこには京介が立っていた。

 彼は、貼りつけたような笑みを浮かべ、カウンターの方を手で示す。

 かのんはひきつった笑みを浮かべ、


「わ、わ、わかりました。あ、ありがとうございます」


 と答え、いそいそとその場を離れ自分の席へと戻った。

 席に戻ると、昨日とは少し違うデザインの濃い青のお皿にカルボナーラがのっていた。中央に半熟のたまごがのっていて、まるで満月のようだ。その周りに粉チーズと黒こしょうがかかっているようだが、昨日のパスタと同じように量が多いように思える。

 それに、黒に黄色の月が描かれたカップが置かれている。

 かのんは手を合わせて、


「いただきます」


 と呟き、フォークを手に持った。

 カルボナーラを食べつつ、かのんは先ほどの会話について考えた。

 老女の名前は松尾、というらしい。そして青年が松尾さんを名字で呼んでいる、ということは身内ではないのだろう。ではどういう関係なのだろうか。かなり親しげであるからてっきり親子なのかと思ったが違うのか。

 わからないということは不安が募っていく。

 けれどカルボナーラは濃厚でおいしくて、カフェラテも甘くて疲れた身体に沁み渡る。

 量が多いので満足感もすごかった。

 食べ終えて、残りのカフェオレを飲みつつ、かのんは相変わらずパソコンに向かってカタカタとしているルカに声をかけた。


「あの」


「何?」


 ルカは手を止めてこちらを見てにこにこと微笑む。


「ルカさんは、誰かに会うためにここにいるんですか?」


「違うよ?」


「違うの?」


 思わず声を上げ、かのんは口を押えて辺りを見回す。

 皆会話に集中しているのか、こちらを気にする様子はなかった。ほっとして、かのんはルカに尋ねた。


「あの、ルカさんはなんでこのお店に来ているんですか?」


「小説を書くために来ているんだよ」


 そう答えて、彼は濃い青のマグカップを手にしてそれに口をつけた。


「小説を書くために……あの、いつもいるんですか?」


「そうだねぇ。毎日のようにいるかな。ここ、落ち着くから」


 と言い、彼はかのんを見つめて微笑んだ。

 落ち着く、というのはわかるかもしれない。

 皆、会話をしているけれど、ほどよい音量の音楽のお陰で何を話しているのかまではわからない。

 長居したくなるような雰囲気が、この店にはある。


「なるほど……あの、マスターとは友達、なんですよね」


「そうだよ。だから僕はずっとここで作業していられるんだよ」


 そう話していると、京介がかのんの前に立ち、


「こちらをどうぞ」


 と言い、チーズケーキが載ったお皿を置く。


「え、これ……チーズケーキ……」


 それは、かのんの好物だ。

 驚いて、ケーキと京介の顔を交互に見ると、彼はにこっと笑い、言った。


「デザートです」


「あ、えーと、ありがとうございます」


 礼を伝え、かのんは小さなフォークを手にしてチーズケーキにさした。

 口に入れると、クリーミーで濃厚なチーズの風味が口の中で広がりほどよい甘さと酸味が舌の上でとろける。


「おいしい……」


 ひと口食べてそう呟くと、ルカが嬉しそうに笑って言った。


「良かったねぇ、京介。ケーキ、美味しいって。僕にもくれないか?」


「あぁ、わかった」


 そう答えた京介は奥に消えたかと思うとすぐにお皿にのったケーキを持って来て、それをルカの前に置いた。


「ありがとう京介」


 そしてルカもフォークを手にしてケーキを食べ始めた。

 その間に、客がひとり、ひとりと帰っていく。

 店の壁にある青い時計を見ると、時刻は十時半を過ぎていた。


「このお店、何時までやってるんですか?」


 カウンターの向こうにいる京介に声をかけると、彼は淡々と答えた。


「十二時までです」


「遅くまでやってるんですね」


「えぇ、十二時になると、魔法が解けますからね」


「まるでシンデレラだね」


 京介の答えに、ルカが笑いながら言う。

 確かにそうだ。ということは冗談なのだろうな。

 ケーキを食べ終えて、かのんは会計をしようと視線を巡らせた。

 昨日は置かれた伝票。でも今日は見当たらない。

 席から立ち上がり、かのんはカウンターの中にいる京介に尋ねた。


「あの、お会計をしたいのですが伝票は……」


「あぁ、今日はいらないですよ」


 何でもないように言われ、かのんは戸惑い目を丸くする。

 ここはカフェだ。食事をしたのにお代はいらない、というのはどういう意味だろうか。そもそも奢られる理由もない。


「え、あの……」


「今日は、大丈夫です。お気をつけてお帰りください」


「京介、ずいぶんと景気がいいねぇ。僕も奢り……」


「お前は駄目」


 容赦なくそう答える京介に、ルカは頬杖をついて、口を尖らせ、


「ざんねーん」


 と、ふざけた声で言った。


「その代り、大河さん」


「はい、なんでしょう?」


 京介はじっと、かのんの顔を見つめ、とても真剣な表情を浮かべて言った。


「覚えていたらまた、いらしてください」


 不思議な申し出だ。

 そう思うものの断る理由も思いつかず、かのんは頷き答えた。


「はぁ……まあいいですけど」


 すると京介はほっとした様な表情を一瞬見せた後、すぐに真面目な顔になり、頭を下げた。


「ありがとうございました」


「あ、えーと、ごちそうさまでした。また来ます」


 かのんも頭を下げて、店を出る。

 帰路につき、アパートに向かう途中、ふと足を止めてかのんは店の方を振り返る。


「私、名字、名乗ったっけ?」



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