月曜日の九時。
かのんはいつものように目を覚ます。
今日は休みだけれど、起きる時間は変えないようにしているので、かのんはもぞもぞとベッドから起き上がり、せまいキッチンへと向かった。
湯沸しポットでお湯を沸かし、冷蔵庫から食パンを出す。それにバターを塗って、ハムをのせて、トースターに放り込んだ。
その頃にはお湯が沸き、ティーバックのほうじ茶をマグカップにいれて、そこにお湯を注ぎ、別のカップにはスープの粉を入れてそれにもお湯を注ぐ。
それをこたつまで運び、テレビをつけて適当にチャンネルを合わせた。
ちょうどワイドショーがやっている時間で、芸能人の結婚や政治の話などをやっている。
それを聞き流しつつ、かのんは冷蔵庫からカット野菜をだし、それを皿に盛りつけて、焼けたトーストを皿に載せてこたつに運んだ。
座椅子に座り、
「いただきます」
と、手を合わせてパンを掴む。
テレビを流しているものの、内容は何も入ってこなかった。
昨夜と、おとといのことが頭から離れないからだ。
カフェ月の隠れ家。
夜にしか現れない不思議なカフェ。死んだ人に会えるというそのカフェは、一度いったらそのことを忘れてしまうらしいのに、かのんは今でも記憶にある。
けれどカフェで出会った老女、松尾さんはかのんの事を覚えていなかった。
顔を合わせて会話を交わしているのに、だ。
老人だし、ただ忘れっぽいだけなのかもしれない、という可能性は否定できないがいっしょにいた青年はどうだろうか。
たぶんかのんより少し上、三十歳よりは前だろう。昨日の夜の事を覚えていない、なんてこと、あるだろうか。
「ないよねぇ、そんなこと」
そう呟いて、かのんは首を傾げた。
「何なんだろう、あのお店」
それに、マスターである京介の言動と、ルカの言葉も気になる。
京介は確かに、かのんの事を名字で呼んだ。
「大河さん」
と。
かのんは、名前しか名乗っていないはずだ。なのになぜ、彼はかのんの名字を知っていたのか。なぜ、またどうぞ、なんて言ったのか?
ルカが話していたことが本当であれば、あの店を何度も訪れる、ということは基本ないはずではないだろうか。
いいやでも、松尾さんという老女は二度目、あのカフェを訪れていた。
「……訳分からなくなってきた」
そう呟き、かのんはお茶をすする。
何もかもがつじつまが合わなくて、何もかもがおかしい。
昼間に見つからなかったカフェ。けれど夜には行くことができた。
行ったことを忘れるらしいのに、かのんは覚えている。だけど、松尾さんはかのんのことも、前回カフェに来た時の事も覚えていなかった。
何が本当で、何が偽りなのか。もしかしたらすべてが夢なのかもしれない。
けれどかのんの財布の中には、あのカフェのレシートが確かに存在する。
「そんなの超気になるよね」
そう呟いて箸を手にし、ドレッシングをかけたカット野菜に手を付けた。
気になるけれど、さすがに今日も行くわけにはいかない。誰かに相談しようかとも思ったが、正気を疑われそうだし聞いてくれそうな相手も思いつかない。
「また行くのは怖いよねぇ」
誰にともなく呟き、かのんはその言葉に頷く。
カフェのマスターはかのんを知っているようだが、かのんには心当たりがない。
彼の年令はたぶん、かのんよりだいぶ上、三十を過ぎているのではないだろうか。そんな年令の人、職場以外に知らないし、カフェのマスターなんてしてる人物に会ったことなどないはずだ。
京介は何者なのか。あのカフェは何なのか。
気にはなる。だけれど好奇心は猫を殺すという言葉もあるし、あまり近づいてはいけないとも思う。
かのんは眉間にしわを寄せて、
「うーん」
と唸り、首を振った。
気にしないようにしたほうがよさそうだ。でないと、何かよからぬものに飲み込まれてしまいそうな気がする。
かのんは朝食を食べたあと、気分を変えようと思い買い物のために外に出た。
冬服を買いに駅前のショッピングモールに行こう。
そうして家を出たのはお昼前だった。
ロングTシャツにボアのついたパーカーを試着して購入したのはなんとなく覚えている。会計もしたし、その後他の店も見て回った。
たぶん、チェーンのコーヒーショップに入って時間を潰した記憶も薄っすらある。
そして気がついたら辺りは暗くなっていて、かのんは駅からアパートへと向かう道を歩いていた。
「え、あれ?」
今何時だろう。
そう思い、かのんはスマホで時間を確認する。
時刻は六時すぎ。日付は二〇二四年十一月二十五日月曜日。
「え、あ、い、いつの間に……?」
慌ててかのんは自分の持ち物を確認する。
すると、手に駅近くのショッピングモールに入っているファストファッションの店のショッピング袋をぶら下げていた。
どうやら買い物をしていたらしいが、かのんの記憶にない。
いや、あるような気がする。けれどどこかおぼろげではっきりとしなかった。
昼前に買い物に出たはずなのに、いったいどこをさまよっていたのか、見当もつかない。
そしてかのんは目の前にある光景に気がついて、思わず目を見開いた。
近づかないでおこう。そう誓ったはずなのに、あのカフェがすぐ目の前にある。
どうやらかのんは無意識にカフェへと向かっていたらしい。
「何よこれ、どういうこと?」
驚きよりも恐怖のほうが勝り、かのんの身体が震えだす。なのに、足はかってにカフェへと向かっていきそして、かのんの意思に関係なく扉に手をかけた。
――かのん
そんな自分の名前を呼ぶ男の声が、店から聞こえた気がした。
背中を冷たい汗が流れ、頭の中で開けてはいけない、という警告音が鳴り響く。
――カラン
と、ドアにつけられた鐘が鳴り響く。
漂う、コーヒーの香りに流れるオルガンのような音色。シン……と張り詰めたような空気がかのんの肌をなでる。
カウンターには相変わらずルカがひとり、腰掛けてノートパソコンに向かい作業をしているようだった。
まるで、そこだけ時間が止まっているかのように、昨日と同じ服、同じ姿勢で。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
昨日と同じように、彼はカウンターから出てきてかのんにそう声をかけてくる。
「ひ、ひとりです」
帰るつもりだったのに、近づくつもりなど欠片もなかったのに。
かのんの意思に関係なく身体は動きそして、かのんの口は勝手に動いていた。
京介はとても優しい笑みを浮かべて、
「お好きな席にどうぞ」
と言い、カウンターを手で示した。まるでここに座れ、と言わんばかりに。
かのんはふらふらと、京介に指定された席に近付きそして、椅子に腰かける。
ルカの、ひとつあけた隣の席に。