かのんは席に着き、内心怯えつつもメニューを手に取る。
なぜ、自分はこの店に来てしまったのか。
ここに来てはいけないと思っていたのに。
昨夜、かのんはマスターである京介をここに来る約束をした。けれどそれを守る理由、かのんにはない。
それなのにカフェに来てしまった。かのんの意志に反して、導かれるように。
どうしてこうなってしまったのか。そう思いつつかのんは辺りを見回した。
昨日と一昨日と、同じきゃくの姿はない。小学生くらいの女の子と青年。中年男性と、中学生くらいの女の子。あのブログに書かれていた情報が本当ならば、今いる客の半分は生きていないことになるのだろうか。
そう思うと言いようのない恐怖を感じる。
帰りたい。
そう思うけれど気にもなる。
せっかく来たのだから客に話を聞いてみようか。
その前に注文をしないと。そう思い、かのんはメニューに目を落とした。
カフェインレスが中心のメニュー。その中に、アルコールメニューがあることに気が付いた。
ホットコーヒーにアイリッシュウイスキー、それに生クリームをのせたアイリッシュコーヒー、カルーアミルクにコーヒーをいれたカルーアラテ。コーヒーは全てカフェインレスらしい。それにワインもあるけれど、一番どこの店にもありそうなビールはメニューにない。
メニューとしばらくにらめっこした後、かのんは顔を上げて辺りを見回し、別の客に飲み物を運ぶ京介に声をかけた。
「す、すみません」
「少々お待ちください」
京介はそう微笑み、テーブル席の客に飲み物を置いた後カウンターに入ってかのんの前に立つ。
「お待たせいたしました。ご注文をどうぞ」
「えーと……カルーアラテと、三日月サンドをお願いします」
「かしこまりました」
京介はエプロンのポケットから出した伝票にさらさら、と注文のメニューを書いたあと、顔を上げて言った。
「少々お待ちください」
かのんに背を向けて、京介は奥へと消えていった。
落ち着かない面持ちで、かのんは再び辺りを見回す。
昨日と変わらないのはルカと京介。そしてかのんの存在だ。
それ以外の客の姿は皆、違うように思う。
昨日と一昨日と訪れていたあの老女――松尾さんの姿は見えなかった。
もう、来ることはないのだろうか。それともまた来るのだろうか。もし来るのであれば話を聞きたい。
そう思った時だった。
――カラン
と、ドアにつけられた鐘が鳴り響く。
新しい客だろうか。そう思い客をじっと見つめそして、かのんは思わず大きく目を見開いた。
「いらっしゃいませ」
いつのまにか奥から現れた京介が、カウンターから出てきてその客を出迎える。
真っ白になった髪。深い緑色のコートを着た女性、松尾さんの姿が確かにそこにあった。
「おひとりですか?」
そう京介が声をかけると、彼女は首を横に振る。
「いいえ、連れが、あとから来ます」
そう言った松尾さんの声は震えてはいるものの、力強く何かを期待するような声にも思える。その顔には喜びと不安の表情が浮かんでいるように見えた。
「お好きな席におかけください」
そして京介は彼女に背を向ける。
松尾さんはまるで初めて来た客のようにゆっくりと店内に入り辺りを見回す。
そして、彼女はテーブル席のひとつに腰かけた。昨日、彼女が座っていた席と同じ場所に。
「嘘……」
思わずかのんは呟く。
いったい自分は何を見ているのか、何を経験しているのかわけがわからない。
「嘘って何かあったのかい?」
ルカの声が聞こえ、かのんは彼が座る隅の席を見る。
ルカは肘をついて手を組み、微笑みかのんを見つめていた。
「え、あ……えーと、あの……ルカ、さんはあの、昨日の事覚えています、よね?」
震える声で尋ねると、彼は頷き言った。
「覚えているよ。昨日のことくらい。それで、どうしたの?」
「じゃああのお客さんが昨日も来ていたの、覚えています、よね?」
言いながらかのんはちらり、と松尾さんの方を見る。
彼女はメニューに目を落としてはいるものの、落ち着かない様子で顔をあげては入り口のドアの方を見つめていた。
ルカは松尾さんの方をちらり、と見て、笑って頷く。
「うん、覚えているよ。君が昨日、話しかけていた女性だよね」
そう聞いて、かのんは思わずがたん、と前のめりになりルカに迫る。
「そう、ですよね。松尾さん、昨日もいらしてましたよね」
「うん、あぁ、そういう名前だったね。不思議だな。松尾さんって女性、僕の小説にも登場するんだよね。結婚で名字が変わるけれど」
笑いながら言い、ルカは首を傾げる。
「そんなことより、昨日も来ていたわりにはなんて言うか……様子、おかしいと思いませんか?」
そしてかのんは松尾さんの方を見つめた。
彼女は京介に注文を済ませたらしく、メニューを置いて落ち着かない様子で辺りを見回している。
彼女は昨日も一昨日も来ていたはずだ。なのになぜ、あんな落ち着かない様子でいるのだろうか。
「あぁ、まるで初めて来たような感じだね」
「そうですよね、私、聞いてきます」
そう、力づよく言い、かのんは立ち上がって松尾さんの席へと近づいた。