かのんは胸の痛みを感じて、思わず胸に手を当てる。
こんなにも怖い思いをしたのは初めてだ。
なぜ、ルカも京介も松尾さんを覚えていない?
ひとり、かのんが悩んでいるとルカの明るい声が響いた。
「その松尾さんってどういう人なの?」
「え? あの……たぶん七十代くらいの女性で、けっこうおしゃれな感じの人で」
思い出しながら語るものの、どうも自信が持てなかった。
いやでも、かのんは職場で松尾さんを見かけているし、バイトのひとりが彼女を知っていた。ということは松尾さんは確かに存在した。
確認したくてもバイトの連絡先を知らないためどうにもならない。明日、そのバイトが出勤であれば確認できるけれど、それまでかのんのもやもやは消えないだろう。
「おしゃれな年配の女性……松尾さん……ねえ、かのんさん、僕の小説読んだ?」
笑いながら言われ、かのんはぎょっとしてルカを見た。
彼はノートパソコンを指示して笑顔で言った。
「僕の小説に、松尾さんっていう老女が出てくるんだよ。でもその人は結婚して島田、に名字が変わって……」
「見せてください!」
食い気味に言いながらかのんはルカのほうにぐい、と近づく。
すると彼は驚いた顔をした後、戸惑った様子で頷き、
「いいよ」
と言い、パソコンを操作した。
かのんは立ち上がって彼の後ろに立ち、画面を覗き込んだ。
開かれたフォルダーにたくさんのファイル名が表示される。
そこでかのんは妙なことに気が付いた。
ファイル名にはすべて人の名前が書いてあるようだった。
星野と山本、桜井と伊藤、佐藤と菅、そして、松尾と島田。
「あの、これってどういうことなんですか?」
「何が?」
画面から目を離さずルカが答えた。
「このファイル名、全部人の名前ですよね」
するとルカは手を止めて顎に手を当てる。
「あぁ、言われてみればそうだね」
「そうだねって……覚えてないんですか?」
「覚えて……いるけど覚えていないような……」
そう不思議そうに呟いた後、ルカはかのんを振り返って、満面の笑みを浮かべて言った。
「覚えているよ。誰の物語をかいたのかは。でもファイル名とか気にしたことなかったなって」
「そう、なんですか?」
なんだか妙な話だった。
それにしてもファイルが多い。見たところ、何十というファイルがあるみたいだし、フォルダーも他にあるようだ。
一年目、二年目、三年目……いったいこのフォルダー名はどういう意味なんだろうか。
不思議に思いつつも、かのんはルカがファイルを開くのを待つ。
そして表示されたのはワードだった。
縦書きで、タイトルには松尾と島田、と書かれている。
「ちょっと貸してください」
「おっと」
かのんはルカから奪い取るようにノートパソコンをつかみ、画面をスクロールしていった。
主人公は松尾奈々子。間違いなく、あの老女だ。
彼女が島田行弘という男性と知り合い、結婚し子供が生まれたことが書かれている。子供が巣立った後は、夫と共に散歩をし、料理をし、旅をして仲睦まじく過ごしていたそう。けれど五十年連れ添った夫は、今年の夏、ガンで亡くなったと書かれていた。
夫を亡くした松尾さんは、抜け殻のように日々を過ごしていた。
子供たちは心配をするけれど、彼女の心には何も響かない。
「どうして先に逝ってしまったの?」
夫の写真に問いかけても、答えは返ってこない。
なぜひとはひとりで死ぬの? どうして連れて行ってくれなかったの?
そんな想いが募る中、彼女はあるカフェの存在を知る。
想い出に出会えるカフェ「月の隠れ家」を。
想いが強ければ、そのカフェで会いたい人に会える。
松尾さんはそれを信じ、毎夜スマホを片手に店を探す。
捜し始めて二ヶ月。やっと松尾さんはカフェを見つけ、そこで彼に出会う。
若い頃の夫と同じ姿、同じ名前の「島田行弘」と。
松尾さんは彼と会話を楽しみそして、カフェを出る。
けれどカフェをでるとそこでの出来事を忘れてしまった。
そして再び松尾さんはカフェを訪れる。亡き夫と同じ姿の彼に会うために。
それは七日間続いた。
カフェに来て、島田と話をし、カフェを出ると忘れる。その繰り返しを続けて迎えた今日、十一月三十日。
今日も彼女はカフェを訪れていた。
ドアを開き、出迎えたのはマスターではなかった。
黒いコートに身を包んだ、死んだ当時の夫の姿がそこにあった。
「あぁ……」
松尾さんは涙目になり、夫を見つめる。
彼は松尾さんに手を差し伸べて、微笑み言った。
『こんどこそ、一緒に逝こう』
その申し出に松尾さんは頷き答えた。
「えぇ、もちろん。こんどはおいて逝かないでね」
そして松尾さんは夫の手を取りそして、消えた。
そこで小説は終わっている。
読み終えたかのんは呆然とパソコン画面を見つめた。
もし、現実がこの小説とリンクしているのなら、松尾さんは消えたことになる。
それは何を意味するのか?
考えただけで怖くなってしまう。
「かのんさん、大丈夫?」
緊張を打ち破るかのように、ルカのあっけらかん、とした声が聞こえてくる。
「これ、どういうことですか?」
硬い表情でかのんはルカの方を見て問いかけた。
すると彼は不思議そうな顔をして答える。
「どういうって……彼女の望み通りの結末になったんだよ。彼女は夫といたかった。夫と共に逝きたかったってことだよ」
明るい表情で話すルカが少し怖かった。
ルカはあくまで小説の話をしているのだろう。でも、かのんにとってここに書かれていることは現実としか思えない。
そうなると、ひとつ気になることがある。
何度もこのカフェを訪れると、消えてしまう?
「だとしたら私も消えるの?」
震えた声で言うかのんの背中に、誰かが触れた。
優しく、暖かい手が。
驚いて顔を上げると、そこには京介の姿があった。
「大丈夫」
そう、彼は短く言う。
いったい何が大丈夫なのだろうか。
「京介……さん?」
涙声でかのんが言うと、彼は微笑み言った。
「君には会いたい人がいるの?」
「え? あ、い、いいえ」
かのんに会いたい人はいない。心当たりはまったくない。
すると京介はかのんの背中に触れたまま優しい声で言った。
「だから大丈夫だよ。君がここに来る理由は、その小説にある女性とは違うんだから」