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第17話 消えてしまったんだ

 十二月一日日曜日。

 かのんは落ち着かない気持ちで出勤した。

 松尾さんの事はたしかに存在していた。そして、かのんの職場のバイトは彼女を知っているはずだ。

 シフト表を見たら、そのバイトは今日、朝から出勤しているはずだった。ならば確認しないと気が済まない。

 かのんは出勤早々、レジでそのバイトを見つけて話しかける。


「あ、お疲れ様です」


「お疲れ様です。あの、ひとつ聞きたいことがあるんですけど」


「なんですか?」


 微笑むバイトにかのんは神妙な面持ちで尋ねた。


「この間、ま……島田さん、っていうお客さんと話してましたよね? お婆さんで、近所に住んでるって言ってて……」


 するとバイトは怪訝そうな顔になり首を傾げた。


「島田さん……?」


 この反応はもう、答えは見えている。

 かのんは心臓を鷲掴みされるような感覚を覚え、思わずぶるり、と震えた。


「ちょっと記憶にないですけど……その人がどうかしたんですか?」


「う、ううん、なんでもない」


 誤魔化すようにかのんは笑い、その場を離れる。

 本当に松尾さんは消えてしまったらしい。その事実が、かのんの心に重くのしかかった。

 午後九時過ぎ。

 仕事を終えたかのんは、とぼとぼと職場を後にする。

 人影の少ない駅。

 ふと辺りを見回し、この中にあのカフェを探す人はいるのかと考えてしまう。

 松尾さん……いや、島田さんは消えてしまった。完全に。家の場所までは知らないから調べには行けないが、近所に住んでいると言っていたバイトの記憶からも消えている、ということは何も痕跡が残っていないのだろう。

 なんでそんなことが起きるのか。

 あのカフェは現実と切り離される場所、ということだろうか。パソコンに日付はなかった。けれど時計はちゃんと動いているから時間は経過しているのだろう。

 ルカの小説のデータは、彼があの場所で五年を過ごしている、と教えてくれた。

 そして彼はずっと、カフェを訪れる人々の小説を書いてきているのだろう。

 実際島田さんの物語があったし、その最期の時まで書かれていたから。

 かのんだけが、松尾、と名乗った老女を覚えている。その事に寂しさや悲しさを感じてしまう。

 それでいいのだろうか。

 生きていた痕跡を全て失ってでも、彼女は死んだ夫と共にいきたかったのだろうか。

 かのんには理解できない想いだった。

 そもそも、そこまで強い想いを抱いくような相手がいない。

 恋人もいなければ、そんなに親しい友人もいないから。

 乗客の少ない電車に乗り、すぐに最寄駅に着く。

 そしてとぼとぼと歩き、暗い住宅街の一画にあるはずのないカフェを発見した。


「あぁ、今夜も見えるんだ、カフェ」


 諦めたかのように、かのんは呟く。

 辺りには不自然なほど人影がない。まるで、人払いでもされているかのように。

 あのカフェは異質だ。

 時間も空間も捻じ曲げている。それに人がひとり消えてしまった。そう思うと足は重く感じ、あのカフェに近づいてはいけないと強く思う。

 けれど。

 京介とルカの事を思い出すと心がざわついた。


「あのふたりはなんでカフェにいるんだろう」


 かのんと京介たちが関係あるのなら、いったいどんな関係だったんだろう。

 でも、京介たちが会いたい相手がかのんなら、彼らの世界ではかのんは死んでいる、ということになる。

 そう思うとかのんは思わずぶるり、と震えてしまった。

 京介が言っていた十二月十二日と関係があるのだろうか?


「まさか事故で私が死ぬとか?」


 そう呟いたものの、わかるわけがない。だから不安が胸の中で膨らんでいく。

 かのんはひとり佇み、カフェのオレンジ色の灯りを見つめる。


『かのん……』


「あ……」


 誰かがかのんを呼んでいる。

 その声を聞き、かのんは誘われるようにカフェへと足を向ける。

 行ってはいけない、と思うのに。けれど行かなくちゃ、とも思ってしまう。

 きっと、京介が言っていた十二日までどうすることもできないのだろう。

 ならば、とことんまで付き合ってやる。

 あのカフェの秘密がわかるまで。

 かのんは首を横に振り、自分の意志でカフェへと向かう。重かった足取りはいつしか軽くなっていた。


「想い出に出会えるカフェ」


 そう書かれた看板が目に入る。

 京介とルカにとって、かのんはどんな想い出なのだろう。

 そう思いつつかのんはカフェの扉をゆっくりと開いた。

 カラン……

 と響く、鐘の音。

 今日も変わらずカウンターに座るルカ。そして、エプロンをつけた京介がこちらを見て微笑む。


「いらっしゃい」


「こんばんは。今日も来ました」


「どうぞ、お好きな席に」


 言われるまでもなく、かのんはもはや指定席となったルカの、隣の隣の席に腰かける。

 店内には二組の客がいた。

 そのなかに小学生くらいの子供の姿があり、心が痛む。


「かのんさん、こんばんは。いい夜だね」


 ルカが頬杖ついてそう声をかけてくる。


「そうですね。ルカさんは今夜も小説を書いているんですか?」


「それが僕の役割だからね」


 そして彼は、深い青のマグカップを手にした。


「役割?」


「そうだよ」


 それ以上なにも言わないってことは答える気がないって事だろうか。


「かのん、さん」


 カウンターから声がかかり、かのんは顔を上げる。


「注文はどうする?」


「あ……えーと、ボロネーゼとカフェインレスのカフェオレで」


「かしこまりました」


 そして京介は奥へと消えていく。


「ルカさんって、五年もここにいるんですよね」


「あはは、そうみたいだねえ」


「五年も毎日?」


「そうだね。毎日僕はここにいるよ」


 と言い、彼は笑う。

 その笑顔になんの迷いも暗さも感じない。

 でもかのんはさすがに気が付いている。

 ルカは毎日同じ服を着ている、ということに。

 そう思うと心が痛くなってくる。


「ルカさんは何でここにいるの?」


「京介の願いだから。それを僕は受け入れて付き合ってるんだよ」


 京介の願い。

 彼の願いとこのカフェの秘密は何か関係があるのだろうか。

 もしかしたらこのカフェ自体が京介の願いと深い関係にあるのかもしれない。

 だって彼はこのカフェのマスターなのだから。


「ルカさんはずっとここにいるの?」


「そんなことはないよ。物語には始まりがあって終わりがあるんだからね」


 その終わりとはいったい何なんだろうか。



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