目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第5話 報いの時 ―ザマアは静かに微笑んで―

第1節:王宮を揺るがす報せ


 春の風が冷え込みを残したまま、王都へと吹き抜けていた。だが、冷たいのは風ばかりではない。王太子付きの執務室では、異様な緊張と不穏な空気が漂っていた。


「……本当に、隣国アルヴェールのレオポルド殿下と婚約したのか?」


 王太子アルベールの声には、かすかに焦りと怒りが混ざっていた。手にしているのは、公式の使節団が届けた報告文。その上質な紙には、金箔で刻まれたアルヴェール王国の紋章。そして紛れもない、オデット・ド・ブランシュフォールの名前。


 彼がかつて「愛情はない」「形式的な結婚だ」と切って捨てた侯爵令嬢が、今や隣国の王太子妃候補として公に祝福されている――それが、王宮中に衝撃を走らせていた。


「ありえないわ……! あの女が、そんな大それた立場に?」


 アルベールの傍にいたミレイユが、歯ぎしりするように呟いた。彼女の顔は青ざめ、手元の扇子を強く握りしめていた。愛人として堂々と王宮を歩いていた彼女だったが、最近は貴族夫人たちの冷たい視線を痛感していた。なぜなら、オデットを追い出したはずの彼女が、今や「正統な妃」として他国に迎えられたからだ。


「――あの時、私を馬鹿にしていた連中まで、今さら掌返し?」


 王宮内では早くも、ざわざわとした噂が広がっていた。


「オデット様はやはり、王妃として相応しかったのでは……?」


「まさか本当に、愛人が王妃になれると思っていたのかしらね……」


「このままでは、外交の信用問題に関わるぞ」


 かつてはオデットを見下し、ミレイユを甘やかしていた貴族たちが、手のひらを返すように態度を変え始めていた。特に外交官僚の間では、アルヴェールとの条約交渉において、婚約の件が大きく影響を与えると考えられていた。


「なんとかしろ、父上に掛け合ってもらえ。……いや、オデットを呼び戻せ!」


 アルベールは焦燥に駆られて命じたが、それを聞いた王宮書記官が困った顔で答えた。


「すでに使節団より、オデット様を返還する意思がないことが伝えられております。正式な王族の婚約者として、アルヴェール王家の保護下にあるとのことです」


 この一言で、アルベールの表情は歪んだ。


「そんなバカな……あいつは、俺の、妻だぞ……!」


 形式だけとはいえ、王太子妃として籍を入れていたオデット。その事実を利用して、強引に取り戻そうと考えていた矢先に、外交的な“盾”を得られたことは予想外だった。


 一方で、ミレイユは声を上げて笑った。


「何よ、笑っちゃうわ。オデット様ってば、ようやく“女”になったわけ? あの無表情で高慢な令嬢が、他国でちやほやされてるなんて……冗談みたい!」


 だが、彼女の声はどこか空虚だった。ミレイユ自身も、オデットの不在が想像以上に大きな余波を生んでいることを痛感していた。


 王太子妃としての公務、社交界の調整、各貴族家との折衝――それらすべてを完璧にこなしていたのは、紛れもなくオデットだった。彼女がいなくなった今、代わりに何もできないミレイユに対する視線は冷たさを増していた。


「このままでは、本当に危ういのでは……?」


 王宮の老臣がぽつりと呟いたその声は、やがて貴族たちの間で現実味を帯び始めた。


「……王太子殿下の資質を、再考すべきではないか」


 そのささやきは、やがて一つの提案へと育っていく。


“王太子廃嫡案”――それは、これまで誰も口にできなかった禁忌の言葉だった。



第2節:王太子、崩壊の序章


 オデットが去って一月――王宮内の秩序は、目に見えて崩れ始めていた。


 社交界の宴席は滞り、外交行事は不手際が相次ぎ、王家の権威は見る影もない。これまで完璧に“裏方”を担っていたのが、かのオデット・ド・ブランシュフォール侯爵令嬢だったことを、誰もがようやく理解し始めていた。


 王太子アルベールはというと、疲れの色を浮かべながら玉座の間にいた。だがその姿は、もはやかつての威厳とはほど遠い。


「また、晩餐会の開催が延期だと?」


「は……招待された公爵家より、“正式な王妃不在では礼を欠く”との返答がございました」


 報告を受けた執事の声に、アルベールはこめかみに青筋を浮かべた。


「誰が王妃にふさわしいかなんて、俺が決めることだ!」


 だが、その言葉に反応した者は誰もいなかった。かつてならその一言で空気が張り詰め、誰もが従っただろう。しかし今では、ただの駄々にしか聞こえない。力を失った獅子の咆哮に、誰も恐れを抱かなくなっていた。


「……ああ、オデットがいれば」


 ふと、そんな弱音が漏れる。だがそれは、今さらどうにもならない後悔でしかなかった。


 一方、ミレイユは王妃の座を夢見ながらも、ますます孤立していた。


「どうして……誰も私に挨拶ひとつしないのよ。オデットがいた頃は、皆笑ってたじゃない」


 彼女が振る舞う紅茶会は閑散とし、参加者はあくまで“王太子のお気に入り”という義理で出席しているに過ぎなかった。しかも、女官たちは裏で囁く。


「やっぱり王妃になる器じゃなかったのね」


「ただの愛人でしょ? 婚姻記録にも名がないもの」


 ミレイユはその噂を聞くたび、内心で何度も叫びを上げた。自分が選ばれたのだと信じたかったのに、何ひとつ思い通りにいかない。王妃としての地位はなく、政務の経験もゼロ。しかも、オデットの評価が上がるたびに、自分が「王宮の恥」として比較される。


 ある日、彼女はアルベールに詰め寄った。


「お願い、正式に妃として認めて。そうすれば皆も、私を――」


「黙れ!」


 その一喝に、ミレイユは口を噤んだ。アルベールの顔には怒りと焦燥、そして何より“迷い”が見えた。


「俺は……もう、何をすればいいのか、分からない」


 その呟きに、ミレイユは初めて、王太子が本当に崩れていく姿を見た。


 数日後――ついに、王宮内にある議題が正式に上がる。


「王太子殿下のご廃嫡について」


 それは、王家にとって最大の禁忌ともいえる提案だった。だが、王国貴族の中でも保守派と呼ばれる長老たちまでもが、慎重に議論を始めた。


「現在の王太子は、政治的にも外交的にも不適格です」


「愛人を正妃に据えるなど、国際的信用に関わります」


「すでに隣国アルヴェールとの関係が冷え込み始めている以上、早急な処置が必要では?」


 議場に響くその言葉の一つひとつが、アルベールの立場を否定していく。


 その報せは、ついに国王陛下の耳にも届いた。


「……馬鹿な。あのアルベールが廃嫡? そんなこと、あってたまるか!」


 だが、国王とて無視できなかった。民衆の不満、貴族の離反、そして外交の悪化――すべてが“王太子の資質”という一点に集約されていた。


「もう少し……様子を見る必要があるな」


 それは、事実上の“保留”であり、“見捨てる準備”でもあった。


 そして、王太子アルベールはついに自室にて、玉座の幻影にすがるように呟く。


「なぜ……オデットを、失ったのだろう」


 彼はまだ知らなかった。これは終わりではなく、静かに始まる報いのほんの“序章”でしかないことを。


第3節:冷ややかな使節団と父の決断


 王宮の正門に、緋色の軍装を纏った騎士団が到着したのは、午前の鐘が四度鳴った直後のことだった。

 その旗印は、銀の鷹――隣国アルヴェール王国の象徴である。


「アルヴェール王国王太子付き、公式使節団にございます。国王陛下、および王太子殿下への表敬と、条約履行の進捗確認のため、参上つかまつりました」


 騎士団長が高らかに宣言すると、王宮内の空気は一瞬で凍りついた。

 彼らが単なる形式的な来訪ではないことは、誰の目にも明らかだった。


 玉座の間に通された使節団は、沈黙のまま王と王太子を見据えていた。先頭に立つ壮年の騎士は、レオポルド殿下の側近、ギルベール将軍である。


「本日は我が国の王太子レオポルド殿下よりの親書をお届けに参りました。内容は、オデット・ド・ブランシュフォール令嬢との婚約成立および、それに関連する貴国の対応への懸念でございます」


「……なに?」


 王太子アルベールが椅子から立ち上がる。だがギルベール将軍は、一切の表情を崩さず続けた。


「我が国は正式に、令嬢オデットを“レオポルド殿下の婚約者”と認定し、その身柄は王家の保護下にあります。いかなる要求、または返還の要請も、これを拒絶いたします」


 静かな声だが、王宮中に強く響いた。

 まるで“返還要求など無礼である”と牽制しているようでもあった。


 アルベールが唇を噛みしめる一方、国王は険しい表情を浮かべた。


「……それはつまり、我が王太子が形式的とはいえ婚姻を交わした令嬢を、一方的に奪い取るというのか?」


「ご婚姻の記録については、オデット様より“当時の結婚は無効である”と申し出を受けております。貴国の記録上、明確な婚姻証明が存在しないことも確認済みです。よって、我が国ではその件を“解消された婚約”と見なしております」


 ギルベールの発言は、冷静でありながら容赦がなかった。

 そして彼は、さらに一枚の書簡を取り出し、国王へと差し出した。


「こちらは、ブランシュフォール侯爵よりの書簡にございます。令嬢の行動を全面的に支持し、またこのたびの一連の扱いに関する遺憾の意を示すものでございます」


「父上が……?」


 アルベールが息を呑んだ。


 ブランシュフォール侯爵――オデットの父は、確かに忠臣であり、これまで王家のために尽くしてきたはずだ。その彼が、オデットの“逃亡”を正当化し、しかも自らも王家に不信を表明するとは。


「書簡の中で侯爵はこう記しております。

“娘をあのような扱いに晒しながら、口を閉ざし続けた我が家もまた罪を負う。

だが、彼女を誇り高き娘として認めてくれた隣国に感謝する。

もはやこの国に、娘を帰す理由はない”――と」


 玉座の間に、重く長い沈黙が落ちた。


 国王は、やや苦しげに椅子へもたれかかった。


「……あの男が、そこまで言うとはな」


 年老いた王の声には、かすかに敗北の響きが混じっていた。


 ブランシュフォール侯爵は、この国で最も古い名門家のひとつであり、彼の一言は王権にも無視できぬ重みを持つ。ましてや、それが“王太子の過ち”を間接的に批判するものであるならば――


「……この件は、慎重に協議を重ねる必要がある」


 そう絞り出す国王に対し、ギルベールは静かに一礼した。


「ご英断に、敬意を表します」


 使節団が退場すると、王宮内はまるで嵐が過ぎ去ったあとのような沈黙に包まれた。


 だが、ひとりの若い従者が、恐る恐る口を開いた。


「陛下……これでもなお、王太子殿下を擁立し続けるおつもりですか?」


 その問いに、国王は目を伏せ、ゆっくりと答えた。


「……答えを出す時が来たのかもしれぬな。あの者が“王の器”か否かを、今一度、我が手で見極めよう」


 その夜、国王は枕元に置いたオデットの昔の肖像画を取り出し、ひとり言のように呟いた。


「お前が嫁いでいれば、この国も、違う未来があったのかもしれぬな……」



第4節:去る者と残されし者の結末


 王国の議場にて、重く、冷たい宣言が下されたのは、春を告げる花が開き始めたある日のことだった。


「王太子アルベール殿下は、その資質並びに近年の言動に鑑み、王太子位を正式に剥奪するものとする」


 その言葉が読み上げられた瞬間、玉座の間にいた高官たちは誰も声を発しなかった。

 誰一人として抗議する者はおらず、むしろ、安堵の吐息がそこかしこで漏れるほどだった。


 王太子アルベール。

 かつては“聡明”と称され、未来の王とまで期待された男が、今は国の重石として扱われていた。


「……ふざけるな……!」


 その決定を聞かされた直後、アルベールは書類を叩きつけ、机の上の文具をなぎ倒した。


「どうしてだ! 俺は王家の血を引く唯一の継承者だぞ! 誰が、こんな決定を……!」


「陛下の御決断です」


 静かに答えたのは、彼の長年の侍従であった老臣だった。

 その声音には、情も憐れみもなかった。


「もはや、貴殿の立場を守ろうとする者はおりませぬ。ミレイユ様の行いも……数々の証言と文書が集まりました。政敵を誹謗し、女官に圧力をかけ、私的に国費を流用した疑いまで浮上しております」


 アルベールの顔から血の気が引いた。


「……そんな……。俺たちは……ただ、愛し合っていただけなのに……」


 その哀れな呟きに、侍従は微かに目を伏せた。


「愛を盾に、正妃を傷つけ、国政を乱し、民心を失ったのです。もはや言い訳の余地はございません」


 そして、その日のうちに、王太子アルベールとその“愛人”ミレイユは、王宮の離宮へと移送された。

 表向きは“静養のため”という名目であったが、実質的な幽閉であり、二度と政務に関わることはなかった。


 ミレイユは移送の馬車の中で泣き叫んだ。


「私は……私は、王妃になるために全てを捨てたのよ! どうして、こんな仕打ちを受けなきゃいけないのよ!」


「……俺だって、オデットを失うなんて……思ってなかった」


 アルベールの呟きに、ミレイユは爛々と目を光らせた。


「オデット、オデットって……! 今さら後悔したって遅いのよ! あなたが選んだのは私でしょ!? あなたが“愛してる”って言ったから、私は……!」


 だが、その叫びはただ虚空へと吸い込まれていった。


 ──そのころ、隣国アルヴェール。


 柔らかな陽光が降り注ぐ宮殿の庭園で、オデットは静かに紅茶を口に運んでいた。

 隣には、レオポルド殿下の姿がある。


「……王太子廃嫡の報せが入ったよ。君の父上からも、詳細が届いている」


「……そうですか」


 オデットは微笑みながら頷いたが、その表情に喜びの色はなかった。


「私は、もうあの国に何の未練もありません。ただ……」


「ただ?」


「誰かが正しいと信じた道を踏みにじることが、どれほど重い結果を招くのか――それを知る者が、ひとりでも増えたなら」


 それでいい、と彼女は目を細めた。


「君は強いな。恨みの言葉を口にすることなく、相手を裁かずに“自分の道”を歩こうとする。……誇らしいよ」


 レオポルドは彼女の手にそっと触れた。

 その温もりが、かつての冷え切った日々を、まるで夢のように感じさせた。


「この国では、誰も君を“飾り”だなんて思わない。

君がここにいるだけで、皆が背筋を伸ばすんだ」


「……うふふ、それはちょっと、プレッシャーですね」


 オデットが笑うと、風が彼女の髪をやさしく揺らした。


 あの王宮では得られなかったもの。

 尊重され、愛され、信頼されること――それを今、ようやく手に入れた。


 そして、去った者たちは、閉ざされた離宮の中で、誰にも知られず、誰にも語られず、静かに朽ちていくのだった。


 それが、静かなる「ざまぁ」の結末。

 裁きの言葉など要らない。

 真実という光の下では、嘘も虚栄も、すべてが崩れていくのだから――。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?