目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第4話 ざまあ――屈辱と決別する花嫁





 深夜の舞踏会が終わり、オデット・ド・ブランシュフォールは自室で浅い眠りについた。そして翌朝、いや、正確には早朝、窓の外から差し込む微かな光に目を覚ます。

 まだ寝台に横になったまま、ぼんやりと天井を眺めていると、昨夜の出来事が次々と頭をよぎった。王太子アルベールが堂々と愛人ミレイユを連れ歩き、あのルイーゼ公爵夫人が嫌味たっぷりに絡んでくる。さらにはグラスへの薬物混入騒ぎ――そして、隣国アルヴェール王国の筆頭秘書官から受け取ったレオポルド王子の書簡。

 (あれは、まるで私の“逃げ道”を示すような手紙だった。だけど、本当に私は……?)

 王太子妃になるのが当たり前とされてきた人生。それを捨てることの大きさを、オデットは改めて痛感する。だが同時に、昨夜のアルベールや宮廷の人々の態度を思い出すと、もうこれ以上彼らに踏みにじられるのは嫌だ――という思いが胸中にふつふつと湧いてくる。

 (いずれ決断のときが来る。もしかしたら、それは意外に早いのかもしれない……)

 そう自覚しつつも、とりあえず今日は自分の身辺を落ち着かせる必要がある。オデットは身を起こし、窓を開け放って冷たい朝の空気を一気に吸い込んだ。夜明けの光が、まだ沈んだ気持ちの自分をどこか洗い清めてくれるような錯覚を覚える。


1.王宮に渦巻く権力争い


 朝食の席は、いつもより閑散としていた。王妃陛下は体調が優れず、部屋で静養しているとのこと。国王陛下も公務のため執務室に籠っているらしい。

 当の王太子アルベールはというと、既に姿を消していた。昨夜はミレイユとともに舞踏会を楽しんだ後、どこかの客室へ移ったのか、あるいは早朝に外へ出かけたのか、詳しい行方を知る者は少ない。

 オデットは、まるで肩透かしを食らった気分だった。舞踏会の総仕上げであれほど動き回ったのに、肝心の主催者たる王太子は、結果の報告すらしようとしない。

 (これが私に対する答え……というわけね。やはり彼にとって、私は最初からどうでもいい存在)

 苦々しい気持ちを抑えながら、オデットは早々に朝食を済ませると、自室に戻って今後の身の振り方を考え始める。

 そこへ、控えめなノック音がした。

 「……失礼いたします。オデット様、ブランシュフォール侯爵様がお越しです」

 侍女の言葉に、オデットは一瞬驚いた。王宮内の自室に父が直接やって来ることなど、そう頻繁にあるわけではない。

 「お父様が……? わかったわ、すぐにお通しして」


 数分後、応接用のソファに腰掛けた父ベルナール・ド・ブランシュフォール侯爵は、深刻そうな面持ちで娘を見つめていた。夜明け前に王宮へ到着したらしく、コートには外の冷気がまだ残っているようだ。

 「オデット……顔色が悪いな。昨夜の舞踏会がよほど大変だったのだろう?」

 そう声をかけられ、オデットは苦笑いする。

 「ええ。想像以上に疲れました。でも、舞踏会はなんとか無事に終わりましたから、そこはご安心ください」

 父はかぶりを振る。

 「お前の体調も心配だが……実は、それどころではない話がある。今、王宮内で“王太子が国王の権限を半ば強引に握りつつある”という噂が加速しているのだ。国王陛下が高齢で体調を崩される日が増えているから、アルベール殿下が宮廷の重要な決定を強引に進めているらしい」

 「それは……私も耳にしました。陛下や王妃陛下を差し置いて、アルベール殿下が好き放題なさっている、と」

 すでにオデットの耳にも入っていた情報だが、父の口から改めて聞かされると、その深刻さが一層際立つ。

 「さらに、悪いことに……アルベール殿下は、ブランシュフォール家をはじめとする“穏健派”を次々と冷遇し、逆に、自分に従順な貴族たちを優遇しているらしい。さしあたって商業利権の配分や王立学院の人事にも介入し始めたそうだ」

 オデットは目を見開き、息を詰まらせる。

 (つまり、アルベールは国王陛下の崩御を待たずして、実質的にこの国のトップになろうとしている。自分を批判する貴族は排除し、手下のように使える者だけを取り込む……なんて傲慢なやり方)

 「お父様、その話はどうなるのでしょうか。国王陛下や王妃陛下が黙っておられるとは思えないのですが」

 「陛下はとても気に病んでおられる。しかし、もう余力がない。王妃陛下も体調が安定せず、充分に動けない。……悲しいかな、今の宮廷にはアルベール殿下を抑えるだけの力が残っていないということだ」

 父の言葉に、オデットは唇を噛む。もしアルベールがこのまま王位を継いだら、彼の“愛人同伴の傲慢政治”がまかり通ってしまう。

 そしてブランシュフォール家は、彼に従属しない限り、排斥の対象とされる恐れが高い。その筆頭が、婚約者であるはずのオデットなのだ――何とも皮肉な話だった。

 「……お前の気持ちはどうなのだ? まだ王太子妃として、この国に残りたいと思うか」

 父が問いかける。彼の眼差しは厳かでありながら、どこか娘の心を案じる温かさを宿していた。

 オデットは、ほんの少しの沈黙のあと、首を横に振る。

 「正直、わかりません。王太子妃になるために、私は人生の大半を費やしてきた。でも、あの人と共に歩む未来を、もう想像できないんです」

 「……そうか。実はな、私も伯母たちと相談し、お前がこのまま王太子妃として無理をする必要はないのではないか、という結論に傾きつつある。もちろん、破談すればブランシュフォール家には大きなダメージが及ぶかもしれない。だが、それ以上にお前をこの国の狂気の渦に巻き込みたくない……という思いがある」

 オデットはその言葉に胸が熱くなる。父はこれまで、王家に忠誠を誓い、娘を王太子妃にするために尽力してきた人物である。その父が“お前が壊れてしまうくらいならば、破談でも構わない”と言っているのだ。

 「お父様……ありがとう。私も、もしアルベール殿下との結婚が、このまま白い結婚という名の冷遇のまま進むなら、もう耐えられないと思います。きっと、まともな夫婦になれないでしょうし、さらに彼が国政を牛耳るようになったら……私にはただの操り人形の役割しか残らない」

 そう口にした瞬間、オデットの中で何かが決定的に崩れ去った。かつて憧れ続けた“王太子妃”という夢は、既に形骸化していたのだ。

 「ならば、今すぐにも“婚約破棄”を求めるか? ――いや、そう簡単にはいかないかもしれない。アルベール殿下がどのような報復手段に出るか分からないからな」

 父の声は重い。確かに、王太子の怒りを買えば、ブランシュフォール家にとっても致命的なダメージとなる。

 オデットは深く息をつき、あの書簡のことを少し迷った末に告げることにした。

 「お父様……実は、隣国アルヴェール王国の第一王子、レオポルド殿下から手紙をいただいています。私が本当に望むなら、アルヴェールへ来てほしいと……」

 父の瞳が揺れた。だが、それは驚きと同時に、どこか納得も含んでいるようだった。

 「レオポルド殿下……国境付近の外交式典でお前と邂逅したとかいう噂は聞いていたが。まさか、それほど熱心にアプローチしているとは……」

 オデットは書簡の内容をかいつまんで説明する。ブランシュフォール家もろとも受け入れる用意があること、資金面や身分保障なども検討すると明言されていること。

 「当然、すぐに飛びつくわけにはいきません。アルベール殿下や宮廷の動き次第では、最悪の事態になるかもしれないけれど……せめて、私が逃げざるを得ない状況になったときに備えて、ひとつの選択肢として考えておきたいんです」

 そう語るオデットの言葉を聞き、父はやや考え込むように眉を寄せた。

 「わかった。お前の気持ちを尊重しよう。今すぐ国境を越えるなど荒療治だが……もし事態が悪化し、どうにもならなくなったときには、私たちも動く覚悟をしておく」

 「ありがとう、お父様」

 娘を救いたいという父の思いと、王家の権勢に立ち向かうリスク。その間で揺れながらも、ブランシュフォール家がオデットを見捨てない意志を示してくれたことが、何よりも心強かった。


2.王太子の暴走、そして冷酷な宣告


 しかし、その翌日。オデットは再びアルベールの冷酷さをまざまざと見せつけられる事件に直面する。

 昼下がり、王宮の中庭で穏やかに本を読んでいたオデットは、侍女を通して「王太子殿下がお呼びです」と告げられた。

 (ようやく呼び出しが……。何の用かしら)

 思い当たるのは、舞踏会の報告やあの薬物混入騒ぎの後始末だが、アルベールが今さらそこに興味を持つとも思えない。それとも、王太子妃としての公務を再び押し付けるつもりなのか。

 オデットは警戒心を抱きつつ、侍女に案内されてアルベールの待つ小さな書斎へ向かった。


 書斎の扉を開けると、そこにはアルベールと、彼の取り巻きの貴族たち数名が待機していた。愛人のミレイユは見当たらないが、ルイーゼ公爵夫人の姿はある。

 アルベールは傲岸な笑みを浮かべ、椅子にふんぞり返ってオデットを見下ろす。その周囲に立つ取り巻き貴族たちも、含み笑いを浮かべたり、嘲るような視線を送ってきたりと、不穏な雰囲気を醸し出している。

 (何を企んでいるの?)

 オデットは嫌な予感を覚え、静かに一礼する。

 「王太子殿下、お呼びだと伺いましたが……」

 アルベールは薄く笑い、机上に置かれた書類の束を指先で軽く叩く。

 「オデット、さっそくだが、お前に“仕事”を与える。近々、大規模な王宮改修を行うことになった。その費用の管理や各部署との調整、お前が取り仕切れ」

 周囲の貴族たちがクスクスと笑う。オデットは意味がわからず、ただ怪訝な表情で聞き返す。

 「王宮改修……ですか? 確かに何箇所か老朽化が進んでいる区画があると伺っていますが、それを私に一任するとは……」

 するとルイーゼ公爵夫人が横合いから口を挟む。

 「あら、驚いてるの? 殿下はあなたを信頼しているのよ。なにせ舞踏会の運営を“立派に”こなしたじゃない? だから今度は、もっと大きな仕事を一任したいっていうお気持ちなの」

 表面上は褒めているようで、その実「大変な負担」を押しつけていることは明白だ。

 アルベールは机の上から分厚い書類を取り上げ、オデットの目の前に放り出す。ページがばさばさと乱れて散らばった。

 「期限はそうだな……二ヶ月ほどと考えている。大まかな設計案と予算、使用人や技師の人選も全部お前が決めろ。俺は忙しいし、愛人との時間を削ってまでこんな雑務をやるつもりはないからな。――ああ、もちろん失敗したらブランシュフォール家の責任だ。覚えておけ」

 あまりの言い草に、オデットは言葉を失った。明らかに過剰な責任だけを押し付け、失敗すれば一族ごと処罰しようという魂胆が見え隠れしている。

 (これほど露骨に“罠”を張ってくるなんて……!)

 舞踏会での手腕を目の当たりにし、オデットをさらにこき使おうとしているのか、あるいはわざと過酷な仕事を与えて失敗させ、ブランシュフォール家を潰す算段か――いずれにせよ、まともな依頼ではない。

 「……無茶ですわ、殿下。このような大改修は、専門家や建築司、それに財務局との連携が不可欠です。それを私一人に任せるのは……」

 アルベールは面倒くさそうに手を振り、オデットの言葉を遮る。

 「うるさい。お前は王太子妃になるんだろう? ならば、これくらいできて当然だ。俺の国を支える自信がないなら、さっさと婚約破棄でも申し出たらどうだ?」

 挑発的な瞳がオデットを射抜く。周囲の貴族たちも含み笑いを漏らし、ルイーゼ公爵夫人に至っては「さあ、どうするのかしら」と言わんばかりにほくそ笑んでいる。

 ――ここで「拒否します」「無理です」と言ったら、ブランシュフォール家は王太子に逆らったとして粛清される危険がある。かといって、引き受ければ引き受けたで、膨大な作業量に追われ、途中で足を引っ張られるような仕掛けをされれば失敗は目に見えている。どちらにしてもブランシュフォール家の破滅を狙う罠だ。

 アルベールはオデットの動揺を楽しむように笑みを深める。

 「どうした? 返事は?」

 オデットは拳を握りしめ、こらえきれない怒りと悲しみを噛み殺す。舞踏会の夜からたった一日で、ここまで追いつめられるとは。

 (もういい。これ以上、この人の機嫌を取って生きていくなんて、まっぴらごめんだわ。私には、もう“別の道”があるんだから)

 心の中でそう叫ぶと、不思議と冷静さが戻ってくる。彼女はまっすぐアルベールを見据え、言葉を絞り出した。

 「……承知しました。私にできる限り、最善を尽くしましょう」

 その言葉に、取り巻きたちが「ほう」と揶揄するような声を上げる。彼らはどうせ“失敗するに決まっている”と思っているのだろう。アルベールも興味なさそうにそっぽを向き、

 「じゃあ、書類は持っていけ。時間をかけていいが、二ヶ月後には俺がチェックする。ああ、もちろん予算は抑えろよ? 無駄に金を使ったら、それもお前の責任だ」

 オデットは黙って散らばった書類を拾い集め、無言のまま深々と一礼して部屋を出た。背後でクスクスと笑う声が聞こえてくるが、振り返ることはしない。


3.決断――王宮を捨てるとき


 書斎からの帰り道、オデットの足取りは驚くほど軽かった。もちろん心は鉛のように重い。これから押し付けられた無理難題について考えれば、暗澹たる気持ちになる。しかし、どこかで「これが限界だ」という思いがはっきりと形になったことで、吹っ切れた部分もあるのだ。

 (あの人は、私を道具か何かだと思っている。――いいわ、もう十分。ブランシュフォール家への影響も覚悟したうえで、私はこの国を出る準備を進めよう)

 あの書簡は、レオポルド王子からの誠意に満ちていた。ブランシュフォール家が希望すれば、一緒に移住する支援をするとも書かれている。

 ただ、現実問題として父や一族すべてが“隣国へ”というわけにはいかないかもしれない。父は侯爵としての責務があるし、急激な動きは王太子の疑念を招くだろう。

 (でも、もし私一人だけでも先に逃れられれば、アルベールからの圧力を回避できる。それに、いずれ父も安全を確保したうえで動けるようになるかもしれない。そう考えるしかないわ)

 オデットは自室に戻るなり、机に向かって急ぎ手紙を書き始めた。宛先はアルヴェール王国のレオポルド王子。――この国を出る意思があること、ただ時期は慎重に選ばねばならないこと、そしてもし可能ならば“ひそかに入国できるルート”を用意してほしいという内容を、丁寧な言葉で綴る。

 (本当にこれが正しい決断かどうか、わからない。でも、私はこのまま王太子妃として生きる道が正解とは思えない)

 震える手を必死に抑えながら書簡を仕上げ、厳重に封をした。王宮の一般の郵便ルートは使えない。誰に見られるかわからないからだ。

 そこで、オデットが頼りにしたのは、自分の侍女の一人――実家から帯同している、信頼できる娘だった。彼女はブランシュフォール家の屋敷とも内通があり、秘密裏に使者をやり取りすることができる。

 「これを、絶対に誰にも見られないように、ブランシュフォール邸へ持ち帰って。父に頼んで、信頼できる商人経由で隣国へ送ってもらいたいの。……私があなたを巻き込むのは心苦しいけど、お願いできますか」

 オデットの必死の訴えに、侍女は少し怯えたような表情を見せたが、すぐにかぶりを振って答えた。

 「わかりました、オデット様。私はあなたのためなら、どんな危険を冒しても構いません。ずっとお仕えしていて、あなたがどれほど苦しんでいるか見てきたから……何とか力になりたいんです」

 その言葉に、オデットは胸が締めつけられそうになる。

 「ありがとう。……あなたの忠誠心と優しさに感謝します。気をつけて、絶対に怪しまれないようにしてちょうだい」

 侍女は深く頭を下げ、書簡をそっと懐に忍ばせて部屋を出ていった。

 (どうか無事に届きますように。そして、レオポルド殿下が力を貸してくださるように……)


4.ざまあ――王太子からの最後の仕打ち、そして国境越え


 それから数日間、オデットは表向きは王宮改修の準備に追われるふりをしながら、内心では“いつでも逃げられる”よう少しずつ荷物をまとめたり、必要な資金や宝飾品を取り分けたりと、極秘裏に動き続けた。

 (ブランシュフォール家には多大な迷惑をかけるわ。でも、父はきっと私を理解してくれる。いずれ、落ち着いたころに迎え入れる段取りにしてもらえるよう願うしかない)

 その間、アルベールは相変わらず愛人ミレイユと遊興にふけり、王宮の行政的な仕事はすべて“他人任せ”のまま。噂によれば、彼は既に「自分こそが実質的な王だ」と公言し始めているらしく、面従腹背の貴族たちから恨みを買っているという話も聞こえてきた。

 (早くこの狂った宮廷から抜け出さないと、私自身が巻き込まれて潰れてしまう)

 そう思いながら準備を進めていたある夜、とうとう王太子から“最後の仕打ち”とも言うべき一報が入る。

 「オデット様、大変です。今、王太子殿下の侍従がいらして……“今夜、オデットを部屋に呼びつける”と仰っています」

 侍女の報告に、オデットは手にしていた羽ペンを落としそうになった。今夜、王太子の部屋へ行け、という命令――それはつまり、形式的に“夫婦になる”予行演習を強いるようなものか、それとも屈辱的な「夜伽」でも無理やり押し付けるつもりなのか。

 (白い結婚だと言っていたくせに、今さら何を……?)

 嫌悪感で吐き気が込み上げそうになる。

 しかし、こうした呼び出しに応じなければ、ブランシュフォール家への制裁が待っているだけ。オデットは仕方なくドレスを着替え、最低限の身だしなみを整えて、王太子の私室へ向かった。


 部屋の扉を開けると、そこにはアルベールとミレイユがいた。

 「……え?」

 思わず声が漏れる。王太子が愛人と一緒にいる部屋に、自分が呼ばれたという異常さに、オデットは戦慄を覚えた。

 アルベールは椅子に座り、足を組んでオデットを一瞥する。ミレイユはソファの片隅に腰掛け、妖艶な笑みを浮かべている。

 「やっと来たか。用件は簡単だ。お前に“正式な花嫁”の役割を演じてもらいたくてな」

 アルベールの口から放たれる言葉に、オデットは背筋が凍る。

 「花嫁……とは、どういうことでしょう」

 するとミレイユがクスクスと笑いながら口を開く。

 「殿下がおっしゃりたいのはね、近々予定される“結婚式”のリハーサルを今のうちに済ませておけ、ってことよ。私がそばで見ていてあげる。だって私、あなたの立場に憐れみを感じているもの」

 あまりの侮辱に、オデットは膝が震えるのを感じた。

 (リハーサル? ……つまり、結婚式の日取りも正式に決めぬまま、夜の相手をするよう強要するというの?)

 アルベールは嘲笑を浮かべ、ミレイユの肩を抱くようにして続ける。

 「俺としては、お前には形だけの“王太子妃”をやってもらえればいい。だが、公には夫婦の証拠が必要だ。俺が“お前に手をつけた”という既成事実さえ作っておけば、あとはどうにでもなるからな。まったく面倒だが……」

 その言葉に、オデットの視界が暗転しそうになる。もしここで抵抗すれば、家が滅ぼされる危険もあるし、アルベールが望む「事実」がつくられてしまえば、オデットは一生逃げられない。それが彼の狙いなのだ。

 (……どこまで、私を踏みにじれば気が済むの?)

 怒りと恐怖が入り混じった感情が胸を締め付ける。けれど、今ここで屈してしまえば、最悪の形で人生を支配されてしまう。

 そのとき、オデットの脳裏に稲妻のような閃きが走った。

 ――今ここで王太子に逆らって逃げるしかない。

 覚悟はもう決まっていたはずだ。あとは、どのタイミングで実行するか。それが今だとしたら……?

 オデットはすうっと息を吸い込み、そっと瞳を閉じる。そして、次に目を開けたときには、決意に満ちた表情を浮かべていた。

 「……殿下、本当に私を“王太子妃”にするおつもりなのですね。これまで散々愛人を連れ回し、私を蔑ろにしてきたくせに、今さらあなたの都合で“既成事実”を押し付けるなんて……」

 アルベールは不快そうに顔をしかめる。

 「黙れ。俺の命令だ。お前は王太子妃になるために生まれてきたんだろう? なら今さら口答えするな」

 ミレイユも高笑いをあげる。

 「そうよ、王太子妃様。あなたにはきっと、殿下の子を産む義務が待っているんだから。……白い結婚だっていうのも、殿下の気まぐれ次第で終わるかもね」

 嘲弄の言葉に、オデットは唇を震わせる。しかし、もう涙は出ない。彼女はゆっくりと頭を下げるような仕草をしながら、かすかに微笑んだ。

 「……わかりました、殿下。では私は、ここで“花嫁”の務めを果たしましょう」

 思わぬ素直な返事に、アルベールとミレイユが互いに目を見合わせる。だが次の瞬間、オデットは勢いよく身を翻した。

 ――そして、ドアの方へ猛然と駆け出す。

 「おい、待て!」

 アルベールの怒声が聞こえるが、オデットは振り返らない。ドレスの裾をたくし上げ、無我夢中で廊下を走り抜ける。

 (今しかない! 侍女に預けた書簡は既に隣国へ向かっている。もしレオポルド殿下が手を回してくれているなら、きっと……)

 後ろから追っ手が来るのは間違いない。ここは王宮の中だ。一人で逃げきれる保証はない。

 それでも、オデットは絶対に捕まるわけにはいかなかった。ここで捕まれば、自分の人生はアルベールのものになってしまう。

 廊下を曲がり、階段を駆け下り、出入口に待機している衛兵たちをやり過ごして、中庭へと飛び出す。夜の闇が広がり、庭園の街灯が幻想的に揺らめいている。

 「どこへ行く? 捕えろ!」

 後方から衛兵の声が響く。あっという間に数人の兵士が追いすがってきた。

 (まっすぐ正門へ向かうのは危険……)

 咄嗟に思い立ち、オデットは庭園の東側――使用人や物資の搬入口がある裏門の方へ向かった。普段から改修の下見などで確認していたが、警備の目がやや手薄であることを知っている。

 ドレスを引き裂きそうな勢いで走りながら、さらに周囲を見回す。すると、そこに小柄な人影が立っていた。

 「オデット様! こちらへ!」

 見覚えのある声――あの侍女だ。彼女もまた、逃走を想定して待機していてくれたのかもしれない。

 侍女は裏門の扉を開け、ひそかに用意していた馬車らしきものを示した。

 「ここです! 早く乗ってください! 馬車の御者は、ブランシュフォール邸に仕える者です。国境近くまで連れて行ってくれるよう手配済みです!」

 「ありがとう……!」

 オデットは感謝の声を上げながら、馬車へ飛び乗る。侍女も同行しようとしたが、衛兵がすぐそこまで迫っている。

 「私も行きたいところですが……申し訳ありません、ここで時間を稼ぎます!」

 そう言い残し、侍女は馬車の荷台を閉め、扉の前に立ちはだかるように構える。衛兵たちが口々に「邪魔だ、どけ!」と怒号を上げる。

 (あなた……どうか無事でいて!)

 オデットの心は千々に乱れるが、今は馬車を動かすしかない。御者が鞭を振ると、馬が嘶いて急発進し、狭い裏門をすり抜ける。

 そのまま王宮の外周路を疾走し、城壁の暗がりを縫うように進む。どこかの門が閉じられるより前に、城下へ出なければ逃げ道は断たれてしまう。

 運命を賭けた逃走は、息が詰まるほどに孤独で、恐怖に満ちていた。だがオデットは、これまでにない解放感をうっすらと感じてもいた。

 (もう、あの王太子に支配されることはない。白い結婚など、まっぴらごめんよ……!)


 馬車は城下に出たあと、闇夜の街を縫うようにひたすら走った。事前に示された合図通り、支持者たちが道を確保してくれているらしく、しばしの間は追っ手が見当たらない。

 やがて明け方を迎えるころ、馬車は国境近くの小さな村へ到達した。そこに待っていたのは――アルヴェール王国からの密使たちだった。

 ローブ姿の男たちが馬車を取り囲むように迎え、オデットを丁寧に手助けする。

 「ブランシュフォール侯爵令嬢、オデット・ド・ブランシュフォール様でいらっしゃいますね? 私どもはアルヴェール王国第一王子、レオポルド殿下の密命により、お迎えに参りました」

 その言葉を聞いた瞬間、オデットは安堵から思わず膝が崩れそうになった。

 (レオポルド殿下……本当に手を差し伸べてくださったのね)

 礼を述べるオデットを、密使たちは温かく受け止める。彼らが用意した別の馬車に乗り替え、国境線へ向かう山道を進んでいく。

 (さようなら、私の故国……。だけど、きっとまた、何らかの形で戻ってくることがあるかもしれない。そのときには、もう私は“王太子妃”ではない)

 寂しさと清々しさが入り混じった思いの中、オデットはあの屈辱と決別したのだ。


5.隣国で迎える新たな人生と“ざまあ”の結末


 隣国アルヴェール王国との国境を越えるとき、オデットは急に涙がこぼれそうになった。自分の国を捨てたという現実。それはどこか後ろめたさもあるが、同時に“自由”を得た達成感もあった。

 そのまま何日かかけて王都へ移動し、ある離宮に落ち着いた頃、オデットはレオポルド王子と再会を果たした。

 「よく来てくださいましたね、オデット。……あなたが必死に逃げてきたことは聞きました。危険な目に遭いながらも、ここまで来てくれてありがとうございます」

 レオポルド王子は深く頭を下げ、オデットの手をそっと握る。その眼差しには、本当に彼女を大切に思っている誠意が込められていた。

 オデットは胸が熱くなりながら、微笑み返す。

 「殿下のおかげです。私にはもう、あの国で生き続ける道が見つからなくて……。ですから、どうかしばらくの間、ここで私を匿っていただけないでしょうか」

 レオポルド王子は頷き、オデットを抱きしめるようにして囁く。

 「もちろんです。……あなたが望むなら、私はあなたを迎える準備ができています。あなたが私の隣に立ってくれるなら、これほど嬉しいことはありません」

 オデットの頬に涙が伝う。愛とは、こんなにも優しく温かいのだと、今初めて実感する。


 やがて数日後、オデットのもとに父ベルナール侯爵からの書状が届いた。そこには意外な報告が記されていた。

 ――アルベールは、オデットが失踪したことで激怒し、ブランシュフォール家に“お前たちがオデットを逃がしたのだろう”と詰め寄ったが、確たる証拠を掴めず処罰に踏み切れないでいる。

 ――愛人ミレイユは、自分こそが王妃になれると高をくくっていたが、周囲の貴族から正式な地位を一切認められず、王太子派閥の足元も揺らぎ始めている。

 ――さらに、舞踏会の薬物混入騒ぎや最近のアルベールの強引な政治介入に反発する貴族たちが密かに同盟を組み、国王陛下や王妃陛下の保護のもと、アルベールに反対する動きを強めている。

 (つまり、私が逃げ出したことで、あの国の歯車も大きく狂い始めたのかもしれない。アルベールの傲慢さが一気に表面化して、周囲が反発を強めているのだろう)

 オデットは書状を読んで、思わず苦笑する。

 ――あれだけ高慢にふるまい、「お前との結婚はただの形式」と言い放ったアルベールが、今になって“花嫁に逃げられた王太子”という笑い者になっているのだ。

 ざまあ、と言うにはあまりにも軽い言葉だが、オデットは心の底でそうつぶやいていた。

 (きっと、もう二度とあの国へ戻ることはないだろう。私も新しい人生を歩む。あれほど恐れていた“破談”も、こうなればむしろ清々しいわ)


 それから半年ほど経った頃、オデットはアルヴェール王国の宮廷に正式に招かれ、レオポルド王子のもとで“外交顧問”のような役割を担い始める。

 彼女の知性や教養、社交のマナーは、アルヴェール王国の貴族たちからも高く評価され、やがて国王や王妃にも引き合わされることとなる。その際にレオポルド王子が示したのは、「彼女を妻として迎えたい」という正式な申し出だった。

 「オデット、あなたが私の提案を受け入れてくれるかどうかは、あなたの自由です。ですが、私は心から願っています。あなたがどんな過去を背負っていても、私はそれを受け入れ、共に幸せを築きたいのです」

 その真摯な言葉に、オデットはもう迷わなかった。かつて王太子アルベールに望んでいたはずの“共に未来を築く”という関係――それがここにあるのなら、自分が取るべき道は一つ。

 「ありがとうございます、殿下。私でよろしければ……どうか、よろしくお願いいたします」


 こうして、オデットは隣国で新たな人生を歩み始めることとなる。

 一方、アルベールはどうなったのか。

 ――オデット脱走の一件で、国王陛下や反対貴族の怒りを買い、また愛人ミレイユの身勝手さにも手を焼き、宮廷で孤立を深めつつあるという噂が飛び交っていた。国王陛下が健在のうちに、あまりにも傲慢な態度を取りすぎたアルベールは、王位継承権を争う他の王族の排斥にも遭い、事実上の“虜囚状態”に陥ったとも。

 どちらの真相も定かではないが、少なくとも“ブランシュフォール侯爵令嬢オデット”が失踪したのは、アルベールにとって大きな痛手になったことだけは確かだ。

 ――自分が捨てたと思っていた女に、自分の未来を大きく狂わされてしまうとは。どれほど後悔しても、オデットはもう戻ってこない。


6.エピローグ:白い結婚を超えて


 アルヴェール王国で迎えた朝。オデットは王宮の一角にある美しい庭を散策していた。季節の花が咲き乱れ、噴水の水音が耳に心地よい。

 その背後から柔らかな足音が近づき、彼女の手をそっと包んだ。レオポルド王子だ。

 「おはようございます、オデット。今日も美しいですね。……国の政務が忙しく、なかなかあなたと二人の時間を作れなくて申し訳ない」

 オデットは微笑み、そっと首を振る。

 「いえ、こちらこそ。私のほうがいろいろと助けていただいているのですから。殿下の健やかなご活躍が、私の何よりの喜びです」

 そう言って顔を上げると、レオポルド王子の穏やかな微笑みが目に映る。先ほどまで思い出していた“地獄のような王太子との日々”がまるで遠い昔のことのようだった。

 (私はもう、あの国には戻らないかもしれない。でも、もしもいつか国が変わって、父や家族も安全に暮らせるようになったら……会いに行きたいと思う日が来るかもしれない)

 そう心の中でつぶやきながら、オデットはレオポルドの腕を取り、ゆっくりと庭を歩き出す。

 今の自分は、王太子アルベールに捨てられたただの“人形”ではない。自分の意志で幸せをつかみ取り、尊厳を取り戻した女性なのだ。

 やがて花の香りに包まれた道を抜け、朝日が差すテラスに足を進める。そこからは、アルヴェール王国の広大な景色が見渡せた。遠く伸びる山脈の向こうに、かつてオデットが生まれ育った国がある。

 (ありがとう、そしてさようなら。屈辱の“白い結婚”――もう二度と振り返ることはないわ)

 瞳に映る朝焼けが、オデットの青い瞳をさらに澄んだ色に染めていく。後悔など一つもない。たとえ王太子や愛人たちがざまあみろと悲鳴を上げようが、オデットは自分の人生を自分で選んだのだ。

 遠く離れた王宮のどこかで、アルベールが取り返しのつかない後悔に苛まれていると知っても、オデットはもはや何の感慨もない。今の彼女には、隣国で掴んだ真の自由と、未来へ続く希望があるからだった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?