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第3話 舞踏会の夜、揺れる王太子妃の座

 豪奢なシャンデリアがきらめく大広間に、上流貴族たちの笑い声と華やかな音楽が混じり合い、熱気を帯び始めていた。

 オデットは扉近くの位置で、来場者への挨拶をしつつ、ちらりとホール内の様子を窺う。

 フロア中央では既にダンスが始まっている。初めは貴族の若い男女が、次々と華やかなステップを披露していたが、やがて中高年の貴婦人や紳士たちも加わり、曲の調べに合わせて優雅に舞っていた。

 横目に見える愛人ミレイユの真紅のドレスが、まるで血のように鮮やかに視界を染める。王太子アルベールは彼女の腰に手を回しながら、満足そうに笑っている。

 (公然と愛人を連れて現れるなんて……。それでも、これがいまの宮廷の“現実”)

 オデットは自分の胸に小さく言い聞かせるように、深い息を吐いた。

 ちらちらと周囲から向けられる視線には、同情や嘲笑、そして“オデットは本当に大丈夫なのか”という好奇が入り混じっている。それでも、オデットは毅然とした態度を崩さない。

 ――今宵、彼女が主役として挨拶をする場面がいずれ訪れる。そこがこの舞踏会の一つの山場であり、オデットにとっての試金石だ。

 成功に導けば、「アルベールの愛人がいようとも、自分は王太子妃としての品格を備えている」と周囲に知らしめることができる。一方、もし失敗すれば、“愛されぬ形だけの妃”として、さらなる嘲笑の的になるだろう。


 ふと、視界の端に初老の男性――宮廷司礼官が近づいてくるのが見えた。彼は少し緊張した面持ちでオデットに耳打ちする。

 「オデット様、そろそろ次の曲が終わりましたら、王太子殿下のご意向により、開会の挨拶と乾杯の音頭をお願いしたく存じます」

 「かしこまりました。では、あちらの準備が整いましたら合図を……」

 オデットが静かに答えると、司礼官は安堵の表情を浮かべて去っていく。今宵の舞踏会は、表向きには「王太子殿下が主催」だが、実質的な采配はほぼ全てオデットの手に委ねられている。

 アルベールも、こうした場では本来ならホスト役として来客を迎えねばならないはずだが、彼はとっくにミレイユとの逢瀬を楽しむ方を優先しているようだ。

 (あれでよく“次期国王”としてやっていけるわね……)

 口にこそ出さないものの、オデットの中には呆れと苛立ちが滲む。もちろん、今はそれを表に出してはいけない。王太子妃候補としての役割を全うするしかないのだ。


 大広間の中央では、貴族たちが曲の終わりとともに一斉にポーズを決め、拍手が沸き起こっている。これを合図に、オデットはそっと司礼官に目配せをした。

 すかさず司礼官が壇上の端へ進み出て、貴族たちの注意を引くように声を張り上げる。

 「レディス・アンド・ジェントルメン! 今宵の舞踏会を主催なさっている、王太子殿下に代わりまして、王太子妃候補であるオデット・ド・ブランシュフォール様よりご挨拶をいただきます!」

 その一声で、ざわざわとしていた大広間がピタリと静まる。人々の視線がオデットへ向けられた。

 (やるしかない……)

 オデットは一度瞳を閉じ、鼓動の高鳴りを抑えながら壇上へと進む。

 高く掲げられた燭台の光が彼女の金髪を照らし、白金のように輝かせる。深い青のドレスは夜空を思わせ、白い肌をよりいっそう際立たせていた。

 「あら……なんて美しいのかしら」

 「やはりブランシュフォール侯爵家の令嬢は、一味違いますわね」

 列席者の中から思わず漏れる小さな声が聞こえる。しかし、それを気にする様子もなく、オデットは落ち着いた足取りで中央へと進み、壇上の備え付けの台にグラスを置いた。

 すると、ホールの片隅にいたアルベールが、ようやくミレイユの腕を離してゆっくりとオデットの方へ顔を向ける。彼の表情には余裕の笑みと、どこか人を試すような眼差しが浮かんでいた。

 (どうせ「失敗してみろ」とでも思っているのでしょうけれど)

 オデットは唇を引き結ぶ。それから、深々と礼をして、はっきりと通る声で挨拶を始めた。


 「本日は、お忙しい中お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。王太子殿下のご意向により、今回の舞踏会の準備に私も携わらせていただきました。至らぬ点も多々あるかと存じますが、皆さまに楽しんでいただくべく、心を尽くしたつもりです。どうぞ今宵は、この華やかな場で思う存分、音楽と舞踏をお楽しみくださいませ」

 隅々まで響くように通ったその声に、会場のあちこちで「ほう」「さすが」「威厳があるわ」という小声が漏れる。オデットの佇まいには、確かに“次期王妃”と呼ぶに相応しい気品が感じられた。

 「それでは、グラスをお持ちの方は……」

 オデットが一呼吸おいて合図をすると、給仕の者たちが一斉に列席者へ飲み物を配って回る。ここまでは、事前に打ち合わせた通りの段取りだ。

 何十人、何百人もの貴族たちが各々色とりどりのワイングラスやシャンパンフルートを手にしたのを確認し、オデットは自分のグラスを掲げる。

 「皆さまの健康と、我が国の繁栄、そして王太子殿下の益々のご活躍を祈りまして――乾杯!」

 その言葉とともに、一斉に高らかなグラスの触れ合う音が響き渡る。澄んだ音が幾重にも重なり、やがて拍手の渦へと変わっていった。

 オデットは微笑みを湛えたまま、息を吐く。視線を横にやると、アルベールが軽くグラスを持ち上げている。まるで「よくやった」とでも言わんばかりに目を細めていたが、真意はわからない。

 ともあれ、今のところ大きな失敗もなく舞踏会は進行している。これで少しは、オデットという存在が王宮の中でも“無能な飾り”ではないと認識されるだろうか。

 (……でも、これで終わりじゃない。問題は、この先にある)


 * * *


 乾杯の挨拶が終わったあと、オデットは何人かの貴族と言葉を交わしながら、ホールの中を回っていた。音楽が変わり、陽気な舞曲が流れ始め、踊り手たちも増えてきている。

 まだ踊っていない者たちは、テーブル近くで談笑しつつワインや料理に舌鼓を打っていた。アルベールとミレイユは、ずっと中央付近で踊り続けているらしい。

 (……見たくないけれど、目を背けてばかりもいられないわ)

 意を決して、ホールの中心部へ足を向ける。そこでは、アルベールがミレイユの手を取り、曲に合わせて華麗にステップを踏んでいた。赤と黒を基調とした衣装に身を包む二人は、外見的にはとても絵になる組み合わせだ。

 ただ、周囲の貴族たちも気づいているのだろう。彼らの視線には少なからぬ“複雑な感情”が滲んでいる。

 ――王太子殿下の正式な婚約者がすぐ近くにいるにもかかわらず、愛人を連れて堂々と踊る。その非常識さは、この国のしきたりにおいても決して褒められたものではない。

 けれど、アルベールはそれを気にも留めていない。むしろ周囲の視線を楽しんでいるようにさえ見える。そんな彼の態度は、オデットに対してのみならず、王宮の規律そのものを嘲笑っているかのようだった。

 (何という傲慢さ……)

 オデットは心の中で思わず毒づく。だが、ここで激昂すれば、まさにルイーゼ公爵夫人やミレイユが望んでいたような展開になりかねない。

 (絶対に、彼らの思う壺にはならないわ)

 そう決意して背筋を伸ばし、踊り終えた貴族たちに優しく声をかけ、労いの言葉を送る。笑顔で場を取り持ちながら、一方で自分はまだ踊っていない。

 実を言えば、王太子妃候補であるオデットに「一曲踊りを」と誘いかけてくる貴族は何人かいた。だが、彼女はあえてそれらをやんわりと断っていたのだ。

 それは「王太子殿下との公式な踊りが先であるべき」という宮廷の慣習に従っていたから……と公には説明しているが、実際にはアルベールと踊る気などさらさらなかった。

 しかし、そうやって自分を律していると、周囲の視線がさらに自分に集まってくるのを感じる。

 「オデット様はまだ踊られないの?」

 「もしかして、殿下を待っていらっしゃるのかしら?」

 「まあ、白い結婚なんですってね。踊るどころか、夫婦になる意味が……」

 ひそひそと囁かれる言葉が耳に刺さるたび、オデットは自分の鼓動が速まるのを感じた。だが、心を無にしてやり過ごすしかない。

 そこへ、見計らったように一人の人物が近づいてくる。それはオデットが数日前に応接間で相対した、あのルイーゼ・フロレンティーヌ公爵夫人だった。

 「まあまあ、オデット様。素敵な舞踏会ですことね。あなたがすべてを取り仕切られたと伺って、わたくしとても感心しておりますのよ」

 公爵夫人は表向きは微笑んでいるが、その瞳には嫌味な光が宿っている。

 「お褒めいただきありがとうございます、フロレンティーヌ公爵夫人。至らぬ点もあるかと存じますが、皆さまが楽しんでくださっているなら幸いですわ」

 柔らかな口調で返答するオデット。そのまま立ち去ろうとするが、ルイーゼは意地悪く笑いながら近づいてくる。

 「ねえ、オデット様。殿下がミレイユ様と踊っていらっしゃるの、ご覧になった? とても素晴らしい相性でしたわねえ。さすが今いちばん愛されているお相手だという噂は本当のようね」

 それをわざわざ本人に伝えるあたり、まさに悪意の塊だ。オデットは内心で舌打ちをこらえながらも、微かに微笑む。

 「……殿下はどなたと踊られても、お上手ですわ。幼い頃からダンスの稽古を積んでこられたのですもの。ミレイユ様も大変踊りがお得意なのでしょうね」

 あえて肯定的に返すことで、相手の挑発をかわす。ルイーゼはつまらなそうに口をゆがめた。

 「まあ、そうですわよね。……ところで、オデット様。あなたは今夜、殿下と踊るご予定は?」

 「あいにく、伺っておりませんわ」

 オデットがきっぱりと言い切ると、ルイーゼは大げさに肩をすくめて笑う。

 「それはまた……お気の毒に。まあ、無理をなさらなくても、殿下にはもう正式なお相手がいるのですものねえ?」

 公爵夫人が言う「正式なお相手」とは、すなわち愛人ミレイユのことだろう。とんでもない嫌味である。

 (この女、本当に性格が悪いわ……)

 オデットは自分の唇が震えるのを感じたが、どうにか踏みとどまる。今この場で感情を爆発させたら、全てが思う壺だ。

 「ご心配には及びません。殿下の楽しみを奪うつもりはございませんので。――舞踏会は夜更けまで続きます。公爵夫人も、どうぞ存分にお楽しみくださいませ」

 そう言って、にこりと笑ってみせる。これ以上相手をする必要はないという態度を示して、オデットは踵を返す。ルイーゼは唇を曲げたまま、何か言いたげだったが、オデットが振り向くことはなかった。


 * * *


 ホールの壁際へと移動したオデットは、テーブルに用意されている水を一口だけ飲み、息を整える。

 (……いつまで我慢すればいいの? こんな夜がずっと続くのは、あまりにも苦痛だわ)

 周囲の視線、陰口、愛人を連れ添う王太子。すべてが苛立たしく、悲しい。

 けれど、ここで逃げ出したら、何もかもが終わりだ。王太子の“白い結婚”宣言を受け入れるままの哀れな女として、完膚なきまでに笑われるだろう。ブランシュフォール家の名誉に傷がつくだけでなく、オデット自身の誇りも粉々に砕け散ってしまう。

 (私は、私の意志で次の道を選びたい。……少なくとも、今夜は最後まで王太子妃の役目を果たす。それが今の私にできる唯一の抵抗だわ)

 心の中でそう固く誓ったとき、突然彼女の耳に、別の会話が聞こえてきた。壁際で小声で話しているのは、二人の上級貴族らしき男性。オデットの存在には気づいていないらしい。

 「……噂を聞いたか? 王太子殿下は、いずれ国王陛下の寝室も完全に取り仕切ろうとしているらしいぞ。もう陛下もご高齢だから……」

 「おいおい、そんな不敬な話はやめろ。ここは王宮だぞ」

 ひそひそ声だが、オデットは聞き逃さない。どうやらアルベールが水面下で“さらなる権力”を掌握しようと動いているという噂のようだ。

 (……このままでは、彼は本当に好き放題にこの国を操りはじめるかもしれない)

 そんな懸念が頭をかすめる。アルベールが王に即位する前から、既にこれほどまで独善的ならば、即位後はもっとひどくなるのではないか。

 王太子妃として、その傲慢さを止められる術が自分にあるのか――オデットは、グラスを握る指先がかすかに震えるのを感じた。


 しかしそのとき、オデットの視界の先、ホールの入り口付近が再びざわめき始めた。

 (今度は一体……?)

 来客はほぼ揃っているはずだったが、そこへまた新たな一行が到着したのだろうか。周囲が少しそちらの方に目を向けている。

 オデットも視線をやると、そこには一団の外国人らしき姿が見えた。隣国アルヴェール王国の紋章が入ったコートをまとい、国王に対する礼儀からか、きちんと国章を示すバッジを胸につけている。

 彼らはアルヴェール王国の外交使節団のようだ。事前の招待リストにも名前があったはずだが、少し遅れて到着したらしい。

 (アルヴェール……そういえば、あのレオポルド王子もアルヴェールの第一王子。まさか、彼が?)

 オデットは思わず胸が高鳴る。しかし、来賓団の中を見渡しても、王子らしい人物の姿は見当たらない。どうやらレオポルド本人は来ていないようだ。

 代わりに、使節団の先頭にいるのは、年配の男性。アルヴェール王国の宮廷筆頭秘書官と紹介されている。彼が他の国賓や貴族たちと挨拶を交わす様子を、オデットは少し離れた場所で見守った。

 (王太子の舞踏会に、アルヴェール王国の使節も顔を出すなんて。よほど丁重に招待したのかしら。それとも、何か別の思惑が……)

 さまざまな考えが頭を巡る中、その筆頭秘書官がまっすぐにこちらを見つめ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 「……オデット・ド・ブランシュフォール様でいらっしゃいますね」

 柔和な笑みを浮かべる彼に、オデットは会釈を返す。

 「はい。ようこそお越しくださいました。私は本日の舞踏会の準備を任されております。ご不便な点がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」

 やや緊張しながら言葉を選ぶと、筆頭秘書官はふっと目を細めた。

 「これはありがたい。……実は、私の主君であるレオポルド王子殿下が、あなたに宜しくと申しておりました。もし今宵お会いできるなら、よろしくお伝えいただきたいと」

 その言葉に、オデットの心臓がドキリと高鳴る。やはりレオポルド王子は、この舞踏会に興味を持っていたのだ。

 (あの手紙……やはり、本気で私に声をかけてくださっているのね)

 だが、表面は平静を装い、僅かに微笑んで答える。

 「レオポルド殿下には、以前の外交式典で少しご挨拶を交わさせていただいたことがございます。お心に留めていただいているのでしたら、私からもどうぞよろしくお伝えくださいませ」

 秘書官は頷く。そしてさらに小声で続けた。

 「殿下は……あなたのことを深く案じておられます。この舞踏会へのご招待状も、殿下がお書きになった一節が含まれておりました。ですが、どうやら殿下ご自身は公務の都合で来られなかった。それゆえ、私が代わりに様子を見に来た次第です」

 まるで含みのある言い方だ。オデットは瞬時に察する。この秘書官は、レオポルド王子から“オデットを探れ”という密命を受けているのかもしれない。

 「……わざわざご足労くださり、恐縮です。私は大丈夫ですわ。――もし殿下がお尋ねになることがございましたら、どうぞ『私は元気にしております』とお伝えいただければ」

 そう返すと、秘書官は微笑みつつ一礼する。彼の背後に控えている随員たちも、穏やかな表情で会釈をしてくれた。

 やがて、一行は場内のほうへと進んで行き、ほかの貴族たちと挨拶を交わし始める。オデットはその背中を見送りながら、静かに自問する。

 (……私、本当に“元気”と言えるのかしら?)

 王太子アルベールの冷遇、“白い結婚”の宣言、そして愛人が我が物顔で闊歩するこの宮廷。そんなところで苦しみ、屈辱に耐える日々のどこに「元気」などあるのか。

 とはいえ、今はまだ決断の時ではない。オデットは改めてそう胸中で繰り返した。自分がこの国を捨てるのか、あるいはもう一度、王太子と対峙してでも「王妃としての道」を歩むのか――それを最終的に決めるのは、今宵ではない。

 (でも、あの秘書官が来ているということは、レオポルド殿下は私を“諦めていない”ということ。もしもの時、私が逃げ込める先があると思うと、少しだけ気が楽になるわ……)


 * * *


 舞踏会はさらに盛り上がりを見せ、夜も更けていく。

 音楽隊が休憩を取り、しばし場内は歓談の時間となった。貴族たちはシャンパンやワインを片手にテーブルを囲み、お互いの近況や馬や宝石の話題、政局の噂話などで盛り上がっている。

 オデットはといえば、数人の伯爵夫人や子爵令嬢たちに話しかけられ、軽く世間話を交わしていたが、その本心はまったく楽しめていない。そもそも、この舞踏会そのものがアルベールの“見せ物”に近いものだ。愛人を堂々と連れ歩き、「今の王宮で最も力を握っているのは自分だ」ということを誇示したいのだろう。

 それでも、オデットの毅然とした態度と、滞りなく進んでいる進行を見てか、最初の頃は嘲笑するような雰囲気だった貴族たちの中にも、オデットを再評価し始める者が出てきている。

 「思ったよりも“できる女”じゃないか」

 「ええ、あの落ち着きぶりは見事だわ。愛人をあれほど見せつけられても、全く動じないなんて……私なら耐えられないわ」

 そうした囁きを耳にするたび、オデットは皮肉な笑みを浮かべたくなる。「動じていない」わけでは決してない。胸の奥では、悔しさと悲しさが煮え滾っている。

 だが、そうした本音をむき出しにしないことが、今の“王太子妃候補”オデットとしての精一杯の戦い方なのだ。


 と、そのとき。

 会場の片隅、給仕の者たちが控えているテーブルのあたりで、何やら小さなトラブルが起きているようだった。視線をやると、若い給仕が青ざめた顔で立ち尽くしており、その周囲に何人かの貴族が集まっている。

 オデットは何か胸騒ぎを覚え、急ぎそちらへ向かう。

 「どうなさいました? 何か問題でもありましたか?」

 そう声をかけると、中央にいた貴族の一人が嫌な顔つきで振り返った。

 「オデット様、こちらの若い給仕が、私のグラスにとんでもないものを混入させたと言い張るのですよ。信じられます?」

 「混入……?」

 オデットが目を見開くと、給仕の青年は必死の形相で頭を下げる。

 「違うんです! そんなこと、僕は絶対にやってません! ただ、料理を運んでいたら、貴族の方から『グラスが変な匂いがする』と言われて……それで……」

 オデットは青年の震える手から問題のグラスを受け取り、鼻を近づけてみる。

 (何だろう、このかすかな苦味というか……)

 香辛料とは違う嫌な刺激臭を感じる。それは、まるで何かの薬品のようにも思えた。

 (もしや毒……? だとしたら、誰が、何の目的で?)

 胸に嫌な汗が滲むが、表情には出さず、オデットは給仕に優しく話しかける。

 「落ち着いて。あなたがやっていないのなら、きちんと調べればいいわ。ほかのグラスやワインボトルはどうなっているの? 似た匂いのするものはある?」

 青年が慌てて周囲のグラスやボトルを確認し始める。その間、オデットは同席している貴族たちに向き直る。

 「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。一刻も早く原因を突き止めますので、どうか少しお待ちを。……念のため、他の方々もグラスの中身を交換していただいたほうがよろしいかもしれませんね」

 驚く貴族たちを促しながら、オデットはこっそり司礼官に目で合図する。司礼官はすぐに状況を察し、ホールの一角で待機している衛兵に指示を出してくれた。

 (もしかすると、これを利用して“舞踏会中止”を誘導し、私を失脚させようとする陰謀かもしれない。あるいは、アルベール殿下や王太子妃候補を狙う何者かの犯罪……?)

 頭の中で嫌な可能性が次々と浮かぶが、ここで冷静さを失えば、すべてが混乱に陥る。オデットは強く自分を叱咤し、毅然と周囲に指示を飛ばした。

 「皆さま、誠に恐れ入りますが、ご自身のグラスをもう一度確認してください。変な匂いがしたり、見た目がおかしいものは絶対に口にしないで! 給仕長、急いで新たな飲み物をご用意して差し上げて。こちらのグラスは衛兵が回収し、原因を調べます」

 会場が一気にざわつく中、オデットの冷静な声が響く。初めは面食らっていた貴族たちも、彼女の落ち着いた態度につられて、次第に混乱を鎮めはじめる。

 (私の方で騒ぎを食い止められれば、舞踏会自体の大事にはならないはず……)

 そう考えつつ、オデットは動揺している給仕を引き取り、事情を細かく確認しようとした。その瞬間――


 「ちょっと待ちなさい!」

 ホールの奥から甲高い声が響いた。ルイーゼ公爵夫人だ。彼女は不快そうに顔を歪めながら、何やら書状のようなものを手にしている。

 「大勢の前で言うのは心苦しいのだけれど……今、あなたが“毒”という言葉を口にしたわね。実は、私も先ほど不審な情報を耳にしたのよ。この舞踏会で“事件”を起こそうとしている者がいる、と」

 ルイーゼはそう言い放ち、じろりとオデットを睨む。その目には、あからさまな敵意が宿っていた。

 「そして今、このグラス騒ぎ。オデット様、あなた何か知っているんじゃないの? もしかして、あなたが自作自演でこんな騒ぎを起こし、舞踏会を混乱させようとしているのではなくて?」

 無茶苦茶な難癖に、場内は一瞬息を呑む。

 「えっ……!? 私がそんなことをするわけ……」

 オデットは言葉を失う。だが、ルイーゼは構わず言葉を続ける。

 「この舞踏会の主催者は王太子殿下だけれど、実質的な運営はあなたが仕切っていたのでしょう? ならば、毒を混入することもやろうと思えば出来る立場よね。……もしや、これは“王太子殿下に恥をかかせるため”の策略ではなくて?」

 あり得ない主張だ。周囲からは「さすがにこじつけが過ぎる」という声も聞こえるが、一部の貴族は不安そうにオデットを見つめる。

 (なんて卑劣な……。証拠もないのに私を犯人扱いする気!?)

 だが、こういう“印象操作”は怖い。何しろ、ルイーゼは王太子派閥の有力者として知られている。それを背景に、少しでもオデットを貶めようと画策しているのだろう。

 (ここで取り乱すわけにはいかない。冷静に対処しなければ……)

 オデットは、必死に感情を抑えてルイーゼを見据える。

 「公爵夫人、そんな馬鹿げた疑いをかける前に、まずは衛兵が調べるのをお待ちになってくださいませ。混乱をこれ以上広げるのは得策ではありませんわ」

 あくまで穏やかに、それでいて断固とした口調で言う。だが、ルイーゼは鼻で笑う。

 「まあ、いいでしょう。私も決めつけるつもりはないけれど……。でも、もし本当に何らかの意図があってこんな事件を起こしたなら、あなたは王太子妃どころか、ブランシュフォール家もろとも責任を追及されるわよ」

 そう言い放ち、ルイーゼは場内をぐるりと見渡す。人々は息を詰めて、その場の成り行きを見守っていた。

 オデットは内心で激しい怒りを感じつつ、そこにいる全員に聞こえるようはっきりと口を開く。

 「誓って私は、そんな卑劣な真似はしておりません。第一、もし私が王太子殿下に恥をかかせようと企んでいるのであれば、こんなに手間暇かけて舞踏会を準備などしませんわ」

 毅然と言い切ったその姿に、周囲の貴族の中には納得げに頷く者もいる。

 ルイーゼはつまらなさそうに肩をすくめ、「まあ、そうでしょうとも」と皮肉を吐いてから、一歩下がった。

 (ここで私を犯人扱いしても、説得力に欠けると判断したのかしら。それとも、ただ私を脅したかっただけ?)

 いずれにせよ、この場の混乱をどう収束させるかが重要だ。オデットは衛兵たちに目を向ける。彼らは既に怪しいグラスやワインを回収し、調査を進めているようだ。

 と、そこへ王太子アルベールが姿を現した。ミレイユを伴っていたが、彼女は少し離れた場所で腕を組んでいる。何やら苛立った表情にも見えるが、とりあえずは黙って成り行きを見守るつもりらしい。

 アルベールはオデットとルイーゼを交互に見やり、やや不快そうに眉をひそめた。

 「なんだ? 俺が少し席を外しているうちに、どうしてこんな騒ぎになっている。オデット、説明しろ」

 その言い草には、あからさまな責任転嫁の意図が見え隠れする。オデットは一瞬むっとしながらも、落ち着いた声で経緯を伝えた。

 「――というわけで、現在衛兵がグラスとワインを調べています。この舞踏会の進行には関係ありませんので、ご安心くださいませ。今しばらくお待ちいただければ、はっきりとした結論が出るでしょう」

 アルベールは顎に手をやり、ふん、と鼻を鳴らす。

 「くだらんことで大騒ぎするな。毒かどうかは知らんが、客人を怯えさせることはやめろ」

 なんとも身勝手な言い分だ。オデットはなんとか感情を抑えながら答える。

 「仰るとおりです。ですから、今は一刻も早く原因を究明し、場を収める必要があるかと……」

 すると、アルベールは嘲笑うような声で返した。

 「お前が中心で準備をしてきたんだろう? ならば、ちゃんと責任をもってやれ。まさか“わかりませんでした”では済まないぞ」

 そう言い残し、アルベールはミレイユとともに踵を返す。どうやら自分が楽しむことが最優先で、この問題に関しては丸投げするつもりのようだ。

 (……呆れた。私に責任だけ押し付けて、あなたは知らんぷり?)

 怒りと虚しさが込み上げるが、オデットに選択の余地はない。何とかしてこの混乱を収めるしかないのだ。


 * * *


 その後、衛兵の迅速な調査によって、グラスに入っていたのは“ごく微量の怪しい薬品”であることが判明した。だが、その量は致死量には程遠く、飲んでも“わずかに体調が悪くなる”程度だろうとのことだった。

 しかし、誰が何の目的で混ぜたのかは、結局わからなかった。使用人や給仕を改めて問いただしても、皆口を揃えて否定するばかりで、不審な人影も目撃されていない。

 オデットはひとまず当該テーブル付近の飲み物をすべて破棄させ、新しいグラスとワインを用意させた。幸いにも被害者が出なかったため、大事には至らずに済んだが、会場には微妙な空気が漂っている。

 (もしかすると、私やアルベール、あるいは誰か上位貴族を狙った犯行だったのかもしれない。でも、動機は? ……まさか、本当に私を陥れるための“狂言”だったり?)

 ルイーゼやミレイユが仕組んだ可能性だって否定できないし、あるいはアルベールの周辺の誰かが仕組んだのかもしれない。

 いずれにしても、舞踏会は今も続いている。オデットは気を緩めることなく、今度は使用人たちに厳重警戒を指示した。給仕の動線を確認し、会場内の出入り口を見張り、怪しい人物を見かけたら即報告させるよう念を押す。

 そんな忙しさに追われるうち、気づけば時計の針は深夜に差し掛かっていた。音楽隊も既に何度か休憩を挟んでおり、踊る者の数も減ってきた。そろそろ舞踏会の終盤と言っていいだろう。

 (あと少し……あと少しで終わる)

 オデットは薄くなった唇を噛みしめながら、会場を見渡す。

 アルベールは相変わらずミレイユに付き添い、今は二人して椅子に腰を下ろしてワインを飲んでいるようだった。疲れたのか、さすがにダンスはやめたらしい。

 オデットは一瞬目が合うかと思ったが、アルベールは興味なさげに視線を逸らす。あたかも「お前などどうでもいい」と言わんばかりだ。

 (……もういいわ。私は、私の義務を果たす)

 突き放されるのにも慣れてしまった自分に、オデットは少しだけ悲しくなる。

 そんな彼女の背後に、足音を忍ばせるように現れた人影があった。さっと振り向くと、そこにいたのはアルヴェール王国の筆頭秘書官である。

 「びっくりしました……。申し訳ありません、少し気が立っているようです」

 オデットが小さく苦笑すると、秘書官は穏やかに首を横に振った。

 「先ほどの騒ぎ、大変でしたね。ですが、あなたの見事な対応ぶりに感服いたしましたよ。迅速に状況を把握し、貴族たちを落ち着かせた。並の方にはできないことです」

 その褒め言葉に、オデットはかすかに目を伏せる。

 「……ありがとうございます。でも、何とか大事に至らなかっただけで、原因も動機もわからずじまいです。まだ安心はできませんわ」

 すると秘書官は意味深に微笑み、スッと懐から一通の封書を取り出してオデットに差し出した。

 「これは、レオポルド殿下からの書簡です。……もし今のあなたが“少しでも殿下に伝えたいことがある”のなら、どうかここに目を通していただきたい」

 ドキリと胸が鳴る。何か嫌な予感もするし、同時に不思議な安堵感もある。

 「わかりました。……必ず拝見いたします」

 そう告げて封書を受け取ると、秘書官は「今宵は本当にご苦労さまでした」とだけ言って去っていった。

 (今は中身を確認している暇はないけれど、必ず読むわ)

 オデットは意識的に表情を整え、封書をドレスの内ポケットにしっかりと仕舞い込んだ。


 * * *


 こうして、波乱の舞踏会は夜明け前にようやく幕を下ろした。

 アルベールとミレイユは途中で先に退席し、貴族たちも順次帰宅していく。朝方になり、宴の名残だけが廊下に漂っていた。

 使用人たちがホールの片付けに追われている中、オデットは残務処理に奔走する。各部屋の鍵の管理、大広間の什器の点検、そして衛兵隊への報告事項など、やるべきことは多い。

 それでも、最終的に大きな混乱なく舞踏会を終えられたのは、オデット自身の力量によるところが大きい――と、司礼官や侍従長は大いに感謝の意を示してくれた。

 「オデット様がいなければ、もっと大きな騒ぎになっていたでしょう。王太子殿下は何とお礼を申し上げるのか……」

 彼らはそう口を揃えるが、肝心のアルベールがオデットに感謝するどころか、最後まで手伝うことすらなかった。舞踏会が終わった後も、ミレイユとどこかへ消えてしまっている。

 (さすがに疲れたわ……)

 全ての仕事を終え、オデットは自室へ戻ってきた。窓の外が白み始めているところを見ると、もうすぐ朝になるだろう。

 ドアを閉めると、思わず壁にもたれかかって深く息を吐く。足も腰もガクガクだが、やっと一人きりになれた安堵感で、体の力が一気に抜けていく。

 (……だけど、私は今日もまた、愛人を連れまわす王太子に振り回されながら生きていかなくちゃならないのかしら)

 眠気と疲労で頭がぼんやりし始めているが、わずかに残った気力でドレスを脱ぎ、部屋着へと着替える。

 そのとき、ふと胸元の内ポケットに触れた拍子に、あの封書の存在を思い出した。

 (レオポルド殿下からの書簡……何が書いてあるのかしら)

 好奇心と一抹の恐れが胸を掠める。もし、これ以上“甘い誘い”が書いてあったらどうしよう。自分は今、疲労と失望から、冷静な判断を下せる自信がないのだ。

 しかし、読まないままでいるのも落ち着かない。オデットは意を決して、椅子に腰を下ろし、部屋のランプを手元に引き寄せて封を切った。


 そこには、丁寧な筆致で長文の手紙がしたためられていた。まず最初の挨拶や近況が述べられ、続いて――オデットの窮状を案じる言葉が綴られている。

 「……“殿下(レオポルド)は、あなたが苦しみの中でも決して諦めない強さを持っていると確信している”……」

 文字を追うにつれ、オデットの胸にじんわりと熱いものが込み上げてくる。どんな境遇でも屈せず、自分の道を見出すだろう、とレオポルドは信じているのだという。

 そして手紙の後半には、もしオデットが“この国を出る”という決断をしたとき、アルヴェール王国としてどのように受け入れるつもりか、具体的な手段まで示唆されていた。

 たとえば、オデットが一人で逃げてきても保護を約束すること。ブランシュフォール侯爵家の事情を考慮し、もし家族も望むのであれば移住を斡旋すること。さらには、渡航の際に必要な資金面の援助や、宮廷内での身分保障など……。

 (そこまで用意してくださるなんて……。レオポルド殿下は、どれだけ私に……)

 まるで、未来への道がいくつも開けているかのような温かな提案に、思わず涙が滲む。自分がこの国で味わっている屈辱や虚無感とはあまりにも対照的で、心が揺さぶられる。

 手紙の末尾には、こうあった。

 > 「あなたが自らの意志で立ち上がるとき、私は躊躇なく手を差し伸べるでしょう。どうか、あなたが本当の意味で笑顔になれる日が来るよう、心より願っています」


 オデットは、手紙をそっと胸に抱くようにして、椅子にうなだれる。今の彼女にとって、この言葉はどれほど救いになるだろう。

 疲れきった心と身体に、柔らかな水が染み込むような感覚があった。一方で、アルベールに対する怒りや失望が再び沸き起こる。

 (私は一体、何を守りたいの? 何のために、王太子妃であり続けようとしているの?)

 国のため? 家のため? それとも、自分の誇りのため?

 いや、もはやそれらすべてが、オデットの中で形を失いつつあった。ただ一つ確かなのは――もうこれ以上、王太子アルベールから侮辱され続ける人生には耐えられない、ということだ。

 「……いずれ、決断をしなければならない」

 オデットは小さく呟く。

 もし、王太子が今後も変わらず愛人を連れ回し、宮廷を牛耳り、彼女に“白い結婚”という名の屈辱を押し付けるのであれば、ここに留まる意味などないのではないか。

 もちろん、逃げ出すという行為に伴う困難は多い。ブランシュフォール侯爵家がどうなるのか、国王陛下や王妃陛下が何を言うのか、想像するだけで頭が痛くなる。

 (それでも……もう、限界かもしれない)

 オデットは意識が遠のくのを感じながら、そっと目を閉じる。

 舞踏会の夜が明けた王宮は、いつもと同じ冷たい朝を迎えるだろう。だが、オデットの心はもう既に、こことは別の場所を求め始めているのだ。


 王太子殿下がさらに傲慢さを増すならば、私は本当にここを出て行くかもしれない。

 王宮の外で風が吹き抜ける音が微かに聞こえる中、オデットはいつしか浅い眠りの中へと沈んでいった。手には、あの書簡をしっかりと握りしめたまま。




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