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第2話 偽りの王妃と宮廷の嘲笑 

 暁の空がほのかに白み始める頃、王宮の一角にある豪奢な来客用の部屋で、オデットは一人目を覚ました。寝台に広がる絹のシーツの感触が肌に触れる。夜明け前の王宮は静かで、遠く聞こえる衛兵たちの足音がかすかに響く程度だ。

 ここは本来、王太子妃となる者が泊まるための特別な部屋であり、壁の装飾から家具の一つひとつに至るまで、格式と富の象徴とも言えるほどの高級品で揃えられている。通常なら、婚約者として迎え入れられた令嬢が、これほど広い空間を独占していることに胸をときめかせても不思議ではない。

 しかし、オデットにとっては、この部屋の豪華さもどこか空虚に感じられた。なぜなら、ここには「王太子の正当な花嫁」を象徴する華やかさがあっても、当の王太子アルベールからの歓迎の思いは微塵も込められていないからである。


 正式には、オデットの「王宮への滞在」が始まったのは昨日のことだ。いずれ近い将来に結婚式が執り行われる──形式的にはそうなるだろうが、実際には「白い結婚」だと宣言されたまま。その屈辱的な取り決めは、王太子の御前で口頭で言い渡されたきり、正式文書としては残されていない。

 「形ばかりの妃の役目を演じてくれ。それで十分だ」

 アルベールはあの日、淡々とそう言った。それからというもの、彼はオデットと目を合わせることすら少ない。

 それでも、王宮における行事や晩餐会の多くには「王太子妃候補」として同席する必要がある。あるいは、国王陛下や王妃陛下の前では、婚約者らしく振る舞わなければならない。形式だけは取り繕わねばならないのだ。

 オデットは、まるで操り人形のように扱われるこの状況を、表面的には受け入れていた。だが、心の奥には決して拭えない抵抗感と、ある種の“炎”が燃えている。


 ベッドの上で上体を起こし、ゆるく編んでいた金髪をほどく。細く柔らかな髪が肩にさらりと流れ落ちた。そのまま鏡台の前に腰掛けて、自分の青い瞳を見つめる。

 「……これが、私の選んだ道だったのかしら」

 そう呟いてみても、鏡に映る自身の表情に答えはない。もはや、「自分が王妃になること」を疑わなかった幼少期の自分は、どこにもいないのだ。

 ふと、一通の手紙を思い出す。隣国アルヴェール王国の第一王子レオポルドから届いた誘いの書状。まだ返事はしていない。それどころか、どう保管するかにさえ神経をとがらせねばならない。

 ──もしあの手紙の内容を王宮の誰かに見られたら。

 考えるだけで背筋が冷たくなる。しかし、それと同時に、このまま何も動かずにいるのも同じくらい危険だという思いもあった。

 「今はまだ、その時ではない」

 オデットはそう自分に言い聞かせるように、息を吐く。レオポルド王子の提案は、あまりに大きな決断を必要とするからだ。ブランシュフォール家という名門の立場をも捨ててしまうかもしれない。

 けれども、もしアルベールの“真意”がさらに明確になり、そして自分にできることがなくなったとき……そのときこそ、レオポルド王子の誘いが最後の砦になるかもしれない。今はまだ、探りを入れる段階だ。


 オデットがそんな風に思考を巡らせていると、扉をノックする音がした。

 「失礼いたします。オデット様、朝食の準備が整っておりますが、いかがなさいますか?」

 王宮付きの女官の一人だ。

 オデットは小さく肯き、「すぐに伺います」と答える。ドレスに着替えるため、薄い寝間着を脱ぎ捨てて、自ら水色のベルラインのドレスを選び出した。胸元は高すぎず低すぎず、きめ細やかなレースがあしらわれており、朝の場にふさわしい柔和な雰囲気を漂わせている。

 鏡の前で身支度を整えながら、オデットは静かに瞼を閉じる。今日も、王太子妃の“候補”として、人前で完璧に振る舞わなければならない。

 心を無にして、ただこの場をしのぐか。それとも、自分の意志を示すのか。まだ決めきれないまま、オデットはゆっくりと部屋を出た。


 * * *


 朝食の席は、王宮の一角にある小さなサロンだった。丸いテーブルを囲む形で、王妃陛下、王太子アルベール、そしてオデットが顔を合わせる。国王陛下は公務のため既に執務室に向かったとのことだ。

 王妃陛下は病弱でありながらも、礼儀を重んじる気品ある女性だ。だが、この国の実権は既にアルベールに移りつつあり、王妃陛下にはそれを制御するだけの力は残されていない。そのことを、オデットはよく知っていた。

 「オデット、体調はいかが? 王宮に移ってから慣れないことも多いでしょう」

 そう優しく声をかけてくれたのは王妃陛下。彼女は儚げな微笑みを浮かべながら、オデットの顔を覗き込む。

 「ご心配をありがとうございます。私は大丈夫です。王宮はとても快適で、侍女の皆様にもよくしていただいております」

 そう返事をしたオデットの横で、アルベールは興味なさげにカップを傾けている。彼は王太子としての威厳こそあるが、オデットには見向きもしない。

 「母上、朝食が終わったら、例の件について相談したいのですが……」

 アルベールは王妃陛下を“母上”と呼びながら、ちらりとオデットを一瞥した。オデットが何の話だろうと思っていると、アルベールの口から飛び出したのは、今後の王宮での“行事分担”についてだった。

 「オデットには、これから王宮の行事を一手に引き受けてもらうことにします。舞踏会の準備、宮廷行事の運営、あとは……母上の体調が優れないときには、国賓への対応も任せたいと考えています」

 彼の言葉に、オデットは一瞬目を見張った。

 「……それは光栄なことですが、私に任せてもよろしいのですか?」

 王太子妃となる立場であれば、そうした公務を手伝うことは珍しくない。むしろ当然とも言える。だが、これまでアルベールはオデットに関心を示さず、王宮の行事ごとにも積極的に参加させようとはしなかった。

 どうして急に、と思わず戸惑いが顔に出てしまう。しかし、アルベールはまるで無機質な調子で言葉を続ける。

 「母上の負担を減らしたいだけだ。正式に式を挙げるまで、表向きは“王太子妃候補”としての振る舞いをしてくれればいい。もっとも……」

 そう言いかけて、彼は唇の端をわずかに吊り上げた。

 「夫婦になるといっても、形式上のことだ。まあ、今はその話はいいだろう」

 オデットがうつむくのを感じたのか、王妃陛下が気まずそうに声をかける。

 「アルベール。オデットはまだ若いのですから、あまり負担をかけるのは良くありませんよ」

 しかし、アルベールは聞く耳を持たず、さらりと話題を変える。まるで「形だけ仕事を押し付ければいい」とでも言わんばかりの態度だ。

 結局、朝食の席は重苦しい空気のまま終わった。王妃陛下も口数少なく、オデットも何を話してよいのか分からない。アルベールだけがやけに落ち着いた様子で、最後にこう告げてその場を去ったのだった。

 「今日のうちに、舞踏会のリストを渡す。これは母上のためでもあるから、しっかり頼むぞ」


 * * *


 王太子が去った後、王妃陛下はオデットの手をそっと取った。その手は細く冷たい。オデットは思わず目を伏せる。

 「オデット……辛い立場にしてしまってごめんなさいね。アルベールのあの態度、私も見ていて胸が痛むわ」

 王妃陛下の瞳には申し訳なさと同時に、どこか諦めの色が滲んでいた。自分が息子を止めることはできない、という自覚があるのだろう。

 「いいえ、陛下が謝られることではありません」

 オデットはかぶりを振る。むしろ、王太子の勝手な振る舞いに、王妃陛下すら振り回されている。

 「私は、ブランシュフォール家の令嬢として、そして将来王太子妃となる身として、この国のために尽くしたいと思っています。ですから、どうぞお気になさらず」

 そう述べながらも、オデットの胸には小さな刺のような痛みがあった。ここで「私は愛されていません。こんな結婚は嫌です」と叫び出したい気持ちがないわけではない。

 だが、それを言ったところで何になる? 王妃陛下がアルベールを説得できるとも思えないし、それどころか余計に波風を立てるだけだ。

 王妃陛下は悲しげに頷き、「ありがとう、オデット」と小さく呟いてから、その場を後にする。部屋を出ていく後ろ姿は、まるで今にも倒れてしまいそうなほど儚く見えた。


 「……私が、王妃陛下を支えなければならないのかもしれないわね」

 オデットは小さく自嘲する。自分だって支えが欲しいのに、守られるどころか、王妃陛下の体調管理から王宮行事の仕切りまで任されるなど、まるで“働き手”としか見られていない現実。

 それでも、何もしないで嘆いているだけでは前に進めない。オデットは心を決めるように大きく息を吸い込み、腹を括った。

 「やるべきことをやりながら、チャンスを見極めるしかない……」


 * * *


 その日の午後、オデットが自室で舞踏会の準備資料を確認していると、侍女がドアをノックしてきた。

 「失礼いたします。オデット様、貴女様をお尋ねになっている方がおりますが……」

 差し出された名刺を見て、オデットはわずかに目を見開く。そこには「ルイーゼ・フロレンティーヌ公爵夫人」と記されていた。

 フロレンティーヌ公爵夫人──ルイーゼは、とりわけ宮廷内で権力を握る“貴婦人サークル”の中心にいる人物だ。しかもアルベールの愛人ミレイユを支援している派閥の一員とも噂される。

 「彼女が私に何の用かしら……?」

 何か不穏な予感が胸をよぎるが、ここで会わずに追い返すわけにもいかない。オデットは侍女に「案内してちょうだい」と伝えて、応接間へ向かった。


 応接間の扉を開けると、ルイーゼは既にソファに腰掛けていた。豪奢な金の刺繍が施されたドレスをまとい、髪には宝石がちりばめられ、威圧感さえ覚える派手な装いだ。年齢は四十代半ばほどか。けれども、浮かべる笑みは若作りで、白粉の匂いが鼻を刺激する。

 「まあ、オデット様。お会いできて嬉しゅうございますわ」

 そう言って優雅に立ち上がり、オデットの両手を取る。その仕草こそ丁寧だが、どこか上から目線の態度は隠せない。

 「フロレンティーヌ公爵夫人、本日はわざわざお越しいただきありがとうございます。わたくしにご用件とは、いかがいたしましたか?」

 オデットも微笑みをたたえながら応じる。だが、ルイーゼの口元には、見え透いた敵意というか、挑発的なものが見え隠れしているように感じた。


 ルイーゼはソファに再び腰を下ろし、テーブルの上に置かれたティーカップを手に取った。

 「実は、今度の舞踏会のことについてご相談があって参りましたの。王太子殿下主催で、宮廷の内外を問わず多くの貴族が出席される大きな催しになるそうですわね。オデット様が準備の中心を担われるとお聞きしまして……」

 言いながら、目を細めてオデットを観察する。

 「王太子妃になる方が直接ご準備されるなんて、わたくし、心から感心しておりますの。とても大変そうですものねえ?」

 オデットは笑みを崩さず、「ありがとうございます。やりがいを感じておりますわ」と答える。

 すると、ルイーゼはわざとらしくため息をつく。

 「とはいえ、何もかもオデット様お一人でお引き受けになるのは、荷が重すぎやしません? まだ若いお嬢様ですもの。もし万が一、ご準備に不手際があったら、王太子妃候補としての面目丸つぶれ、なんてことになるかもしれませんわよ」

 その物言いは、明らかにオデットを脅すかのような響きがある。

 「ええ。ですから、当日は皆様のお力添えをいただきたく思っておりますわ。慣れない立場ゆえ、助けていただくこともあるかと」

 オデットが柔らかな声で返すと、ルイーゼは面白くなさそうに鼻を鳴らす。どうやらもっと動揺させたかったらしい。

 「まあまあ、オデット様はお優しいのね。……ところで、殿下のお相手でいらっしゃるミレイユ様の件、ご存じかしら?」

 唐突にミレイユの名前が出た。その意図を問いただす前に、ルイーゼは続ける。

 「殿下は、ミレイユ様も舞踏会に同席させるおつもりのようですわ。さすがに表立って“愛人”として紹介するわけにはいかないでしょうけれど、私たちの間ではもう彼女の存在は周知の事実。……オデット様、もし殿下とミレイユ様が仲睦まじくしていても、どうか大目に見て差し上げてね」

 あまりに図々しい物言いに、オデットの胸は静かに煮え立つ。だが、それを顔には出さない。

 「そうですか。私には関わりのないことですわ。殿下の行動に口出しできる立場ではございませんし」

 そう言いつつも、オデットは内心で叫び出したい気分だった。まさか、この公爵夫人は、わざわざオデットをおとしめるためにやってきたのだろうか。

 「まあ、そう仰らずに。オデット様は、これから王太子妃になられる方。もう少し“王太子殿下を手綱で操る”くらいの気概があってもよろしいのではなくて? ……といっても、実際にはそうもいかないのでしょうけれど」

 ルイーゼは意味深に微笑みながら、ティーをすすった。まるで王太子から何かを聞いているかのような口ぶりだ。

 「……もしや、公爵夫人は殿下から何か特別なお話を伺っていらっしゃるのですか?」

 オデットが静かに問い返すと、ルイーゼはわざと大げさに首を振る。

 「あらあら、恐ろしいわ。そんなことありませんわよ。ただ、周りを見ればわかるじゃありませんか。王太子殿下とミレイユ様が、公の場でも隠そうともせずにご一緒にいらっしゃる。その姿を見れば、たとえ形式的に結婚されようと、オデット様はあまりにお可哀想だわ、と思うだけですの」

 いったい何が「お可哀想だわ」だろう。ルイーゼの言葉は表面上は同情を装いながら、その実、オデットをさらに苦しめようとしているのは明白だ。

 (――けれど、ここで取り乱したところで何も得られない)

 オデットは自分に言い聞かせる。相手が望む反応は、きっと動揺や怒りをむき出しにする姿だろう。だが、それを見せた瞬間に、自分の立場はさらに悪くなる可能性が高い。

 だからこそ、オデットは笑みを崩さず、涼やかな口調でこう返した。

 「お気遣いありがとうございますわ。でも、あなた様の憶測にお答えするほど、わたくしは暇ではございませんの。もし何か具体的なご用件がおありでしたら、改めて書状でお知らせくださいませ。――舞踏会のご案内状は、もちろん夫人にもお送りいたしますからね」

 淡々としたその言い回しに、ルイーゼは目を見開き、そしてふっと唇を歪めた。

 「……まあ、失礼いたしました。お忙しいオデット様に、つい余計なことを申し上げてしまったようですわね」

 言葉とは裏腹に、その表情は「舌打ち」を隠しきれない。どうやら、オデットが感情的に崩れるのを狙っていたのだろうが、思惑が外れたと見える。

 ルイーゼはそそくさと腰を上げ、今度は皮肉交じりの微笑みを浮かべて会釈した。

 「では、これで失礼いたしますわ。舞踏会では、楽しみにしておりますわね。オデット様の“腕前”を」

 最後の一言を残し、ドアを開けて悠然と出て行く。その背中を見送りながら、オデットは唇を噛みしめた。

 (……なんて無遠慮な方。だけど、これが今の王宮の現実)


 相手がどれほど侮辱的な態度をとっても、オデットは現状「王太子の意向」でここに置かれている身。下手をすれば、彼女たち“王太子派閥”を敵に回すことになる。

 王太子アルベールの後ろ盾を得た彼女たちは、事実上、宮廷の権力を大きく握っている。逆らえば自分だけでなく、ブランシュフォール侯爵家がどんな仕打ちを受けるか分かったものではない。

 オデットは机の上に置かれた書類へ視線を戻す。そこには舞踏会の招待客リストや、当日のプログラムの下案などが並んでいた。

 (この舞踏会……王太子とミレイユが公然と近づく絶好の場になるのかしら)

 しかし、それは同時にオデットにとって“自分の存在を示す”チャンスでもある。公の場で、王太子妃としての立場をしっかり示せば、少なくとも「あの娘は王太子から捨てられている」と馬鹿にされることを一時的には防げるだろう。

 そう思い至ったオデットは、小さく息を整え、立ち上がる。

 「……いいわ。やるだけやってみましょう」

 もし失敗すれば、今まで以上に笑い者になるかもしれない。それでも、何もしないまま周囲の嘲笑と同情を浴び続けるよりはマシだ。

 オデットは再び舞踏会の準備に意識を集中し始める。父ベルナールが言っていた「自分の幸せを掴んでほしい」という言葉が、頭の中でふとよぎった。

 (父は、王太子妃としての私を望んでいるわけではない。私がどう動くか、見守ってくれている。でも、今すぐ飛び出すにはリスクが大きすぎる。ならば、ここで一度“真っ向から戦ってみる”のも悪くない)

 もっとも、この“戦い”とは剣を交えるわけでも、暴力に訴えるわけでもない。オデットが使える武器は、王太子妃候補という肩書と、これまで培ってきた教養とマナー、そして何より自分の誇りだ。

 「そう……私はブランシュフォール侯爵家の令嬢、オデット・ド・ブランシュフォール。誰に何を言われても、簡単に折れるわけにはいかない」


 * * *


 そして、数日後。

 オデットは朝から王宮の使用人や女官たちを指揮し、近づく舞踏会の最終準備に奔走していた。会場となる大広間の装飾から、テーブルの配置、花や燭台の並べ方、音楽隊の手配など、やるべきことは山ほどある。

 もともとこうした大規模な行事の采配は、実質的には宮廷司礼官や侍従長の領分に当たる仕事だ。だが、今回は王太子の特命で「王太子妃(候補)が中心となって企画・運営を行う」ことになっているらしい。

 もちろん、口出しをする貴族夫人たちも多ければ、自分の力を誇示したい下級貴族たちも少なくない。オデットが指示を飛ばしても、「そんなやり方でいいのかしら」と揶揄されることもしょっちゅうだ。

 しかし、オデットはそうした横槍を受け流し、冷静かつ的確に状況を把握しては指示を出す。何年にもわたる王妃教育を受けてきた彼女にとって、こうした運営の基礎知識は十分に身についているし、当初は皮肉めいた態度を取っていた侍従長や司礼官たちも、彼女の真面目さと有能さを目の当たりにするうちに、敬意を持ち始めた。

 「……なるほど。ここは、もっと照明を増やしてくださる? 天井のシャンデリアだけでは舞踏スペースが暗くなるわ。脚立を用意して、キャンドルスタンドを増設しましょう。危険のないように配置をお願いします」

 「音楽隊の控室は廊下の突き当たりでしたね。もう少し人通りの少ない場所を用意できるかしら……? 賓客がお通りになる場所から、音合わせが丸聞こえになってしまうと興ざめでしょう」

 オデットは分厚いスケジュール表をめくりながら、次々と指示を出していく。仕事に没頭しているときは、王太子の愛人の存在など忘れられるから不思議だ。

 周囲の使用人たちも、最初は「形だけの王太子妃」扱いだったが、オデットの努力と物腰の柔らかさに触れるうちに、次第に笑顔を向けるようになってくる。

 「オデット様、本当にお疲れさまです。私たちも全力でお手伝いいたしますわ!」

 「これほどきめ細かい指示を下さる方は、久しぶりですよ。王太子殿下の周りは……おっと、これは失礼。何でもありません」

 ちらりと聞こえてきた言葉から推測するに、王太子アルベールは普段から大まかな命令しか出さないらしく、現場は混乱することも多いらしい。逆に言えば、この舞踏会に関しては、オデットという“責任者”がいるおかげでスムーズに進んでいるのだ。

 だが、忘れてはならない。これは決して「オデットが信頼され始めた」というだけの話ではない。あくまで「行事が成功すれば、王太子殿下と王宮の面目が保たれる」からこそ、多くの人々が協力しているに過ぎない。

 「成功して当然。失敗すれば、すべてオデット様の責任――そんなふうに思っている者もいるでしょうね」

 夜、部屋に戻ったオデットは鏡の前で自嘲気味に呟く。ここが戦場だとするなら、王太子やその取り巻きたちは自分を“囮”として前線に立たせているのかもしれない。

 (でも、だからこそ、この場を乗り越えてみせなければ。私がただの飾り人形じゃないってことを、証明してみせるんだわ)


 * * *


 舞踏会の前日。王宮はいつになく慌ただしさに包まれていた。

 高位貴族や国外の要人が続々と到着し、客室や応接室はどこも満杯。使用人たちは挨拶回りに忙殺されている。オデットも朝早くからドレスや装飾品の最終チェックを行い、大広間の飾りつけを確認し、必要があれば調整を指示し続けていた。

 そんな中、意外な人物がオデットを訪ねてきた。――ミレイユである。

 彼女は、ここのところ公の場に姿を現していなかったのだが、舞踏会前日になって突然王宮に姿を見せた。まるで「私も殿下の特別な女性よ」と誇示するかのようなタイミングで、オデットに面会を求めてきたのだ。

 その報せを受けたとき、オデットは一瞬迷った。会わずに断ることもできなくはないが、ここで逃げてしまえば「王太子殿下の愛人にも怯える臆病な姫」と思われるかもしれない。

 (会いましょう。大丈夫。私はもう、逃げない)

 そう腹を括り、オデットは控室の一室でミレイユを待った。


 やがてドアが開き、現れたのは、オデットが晩餐会で見かけたときと同じように、露出度の高いドレスを纏った黒髪の美女。整った顔立ちに官能的な雰囲気をまとい、挑戦的な眼差しを向けてくる。

 「ごきげんよう、オデット様。突然お邪魔してごめんなさい。私、どうしてもお話ししたいことがあって……」

 その口調は猫なで声のように甘く、しかしどこか底意地の悪さを含んでいるようにも聞こえる。

 「構いませんわ。お忙しい中お越しいただき、ありがとうございます。……何かご用件が?」

 オデットは穏やかに微笑みながら、ミレイユをソファへ促す。しかし、ミレイユは腰を下ろすこともなく、オデットの目の前で立ち止まった。

 「実は、明日の舞踏会で私も参加させていただこうと思っているの。アルベール様にも承諾をいただいているわ。……あなたは何かご存じかしら?」

 そう言い放つミレイユ。その唇には、挑発的な微笑みが浮かんでいる。どうやら、これも事前に仕組まれていたことらしい。

 「あら、そうでしたの。殿下からは特に何も聞かされていませんでしたけれど。……もちろん、殿下が許可されたのなら、私が止める権利はございませんわ」

 オデットの返答を聞いて、ミレイユはつまらなそうに眉をひそめる。もっと驚いたり動揺したりする姿が見たかったのだろう。

 「そう。思ったよりおおらかなのね。王太子妃の立場なのに、愛人と同じ舞踏会に出て、私とアルベール様が踊るところを見るのも平気? 噂になったって構わないの?」

 ミレイユの言葉には悪意がにじみ出ている。彼女は、自分がどれほどアルベールに寵愛されているか、オデットに見せつけたいのだ。

 しかし、オデットは小さく微笑み、首を振る。

 「構うかどうかは分かりませんわ。あなたと殿下がどう振る舞われるか、私は見届けるだけです。でも、お忘れにならないで。舞踏会の主催者は、あくまで王太子殿下。そして私は、殿下から舞踏会の運営を任された立場。……どうか、他の貴族の皆様にご迷惑をかける行為だけはなさらないでくださいませね」

 柔らかい言葉だが、そこにはオデットの“毅然とした態度”が含まれていた。

 ミレイユは一瞬、口をつぐむ。想定外の返事だったのかもしれない。しかし、すぐに妖艶な笑みを浮かべて肩をすくめる。

 「ご心配なく。私もそこまで愚かではないわ。……それにしても、あなたって退屈な人。もっと嘆いたり、憤慨したりすると思ったのに」

 その言葉に、オデットは淡い嘲笑を浮かべた。

 「私も、そこまで愚かな女ではありませんの。あなたが私に何を望んでいようと、私の生き方を変える気はないわ」

 ミレイユの瞳がわずかに鋭くなるが、オデットはそれを受け流すように微笑むだけだ。

 「……ふん。まあいいわ。明日、私たち二人がどんな顔をして舞踏会に登場するのか、それは当日のお楽しみね」

 そう言い残し、ミレイユは踵を返す。しなやかな腰つきでドアのほうへ歩きながら、その髪をかき上げた。

 「アルベール様も、あなたがこういう態度を取るのを望んでいるのかしら。……さあ、どうかしらね。明日が待ち遠しいわ、オデット様」

 そして、ぱたりと扉が閉まる。薄暗い室内には、嫌な香水の匂いだけが漂っていた。

 オデットはしばらくその匂いに顔をしかめながら、ふう、と大きな息を吐く。

 (……なんて人。だけど、あの態度こそが“愛人”のプライドなのかしら)

 アルベールがミレイユをここまで甘やかす理由は分からない。そもそも、どうして王太子自らがここまで公に愛人を連れ回そうとするのか、それも謎ではあるが……。

 ひとまず、オデットは明日の舞踏会に集中するしかない。自分が崩れなければ、きっと何とかなる。自分が王太子妃としての立ち居振る舞いを完璧にこなし、成功に導けば、周囲の見方も少しは変わるかもしれない。

 「頑張るしかないわ。……もし、それでも何の価値も認められないのなら――」

 その先の言葉は、声には出さなかった。だが、オデットの脳裏には、静かに例の手紙の一節が蘇る。

 “もし君がこの国を捨てるなら、私と共に新しい未来を歩もう”

 レオポルド王子の書状――隣国に行けば、こんな屈辱から解放されるだろうか。

 まだ確信は持てないが、選択肢として頭のどこかに残っていることは確かだ。

 (まずは明日。明日の舞踏会で、私に何ができるのか、はっきりさせよう)


 * * *


 そして舞踏会当日。

 夜の帳が降り始める頃、王宮の大広間は幻想的な光に包まれていた。無数の燭台に火が灯され、天井の巨大なシャンデリアが金色の輝きを放つ。白や金を基調とした装飾が、まるで昼間の喧騒を忘れさせるように静かにきらめいている。

 やがて、貴族たちが続々と到着し、男性は豪奢なタキシードや軍服風の礼装、女性はきらびやかなドレスに身を包んで次々と入場していく。場内には華やかな音楽が流れ、ワインやシャンパンの香りが漂っていた。

 オデットは、入口近くで来賓の挨拶を受け、にこやかに対応していく。本来なら王太子や国王がやるべき役目だが、アルベールはいつものように気まぐれで、まだ姿を見せていない。国王も公式の席ではあるが、体調を考慮して短時間しか出られないらしい。

 周囲からの視線が一身に集まる中、オデットは慈悲深い微笑みを湛えて、招かれた貴族たちを歓迎する。

 「ようこそいらっしゃいました。今宵はごゆっくりお楽しみくださいませ」

 ブランシュフォール侯爵家の娘として培った堂々たる立ち居振る舞い。その姿に、訪れた人々の多くは感嘆のため息を漏らす。

 「噂では冷遇されていると聞いたけど……いや、実物はなんと気高く美しい令嬢だろうか」

 「王太子殿下よりも、このオデット様の方がよほど頼りになりそうだ」

 陰ながらそんな声が聞こえてくるが、オデットは動じない。今はただ、舞踏会を成功させることに集中するしかないのだ。

 大広間がほどよく人で埋まり始めた頃、扉の外が再びざわめきだした。どうやらアルベールが到着したらしい。

 ……そして、オデットは目の端で、隣にいるはずの人影に気づく。案の定、腕を組んでいるのはミレイユだ。派手な真紅のドレスを纏い、胸元を大胆に開け、アルベールの腕に絡みついている。その姿は、まるで「あたしこそが今宵の主役」とでも言わんばかりにきらびやかだ。

 (出たわね……。でも、私は慌てない。王太子殿下の正妃候補として、相応の対応をするだけ)

 オデットは気を取り直し、入口の位置に身を移す。その瞬間、ミレイユが嘲笑うように口元を歪めたのを見逃さなかったが、あえて目を合わせず、アルベールに優雅に一礼する。

 「殿下、お越しをお待ちしておりました。今宵の舞踏会は、殿下にお楽しみいただくために準備を進めてまいりました。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」

 オデットの言葉に、アルベールはわずかに苦笑する。ミレイユを伴っている己の行為が、どれだけオデットを踏みにじっているか、彼は十分承知しているのだろう。

 「ご苦労だったな、オデット。……まあ、お前の仕事ぶりに期待しているよ。俺は少し、ミレイユと会場を回ってくる」

 そう言って、アルベールはオデットには見向きもしないまま、ミレイユの腰に手を回して大広間へと進んでいく。

 後に残されるオデットの周囲には、同情や好奇の色混じりの視線が集まる。

 「まさか公然と愛人を伴うなんて……殿下も大胆すぎるわね」

 「オデット様は、こんな屈辱に耐えられるのかしら」

 その場に漂う小声は、オデットの胸を突き刺す。しかし、彼女は頭を下げるどころか、涼やかな表情を保ち続ける。

 (屈辱なのは分かっている。でも、私は私の役割を果たすだけ。絶対に恥などかかせないわ)


 こうして、オデットにとっての大一番、運命をかけた舞踏会の夜が始まった。

 果たして、彼女はこの夜をどう乗り越えるのか。そして、王太子アルベールとミレイユは、どのようにオデットを追い詰めようとしているのか。

 オデットが強く拳を握りしめたとき、遠くからホールを揺らすように管弦楽が鳴り響き始める。これが、偽りの王妃とその愛人、そして宮廷の嘲笑が入り乱れる壮大な夜の幕開けだった。



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