大学に入学してからの一週間は、あっという間に過ぎ去った。高校までは決められた時間割に沿って受動的に授業を受けていたが、大学では自分で履修登録をして、取りたい講義を選ばなければならない。必修科目を押さえつつ、興味のある選択科目をどう組み込むか――。最初は戸惑ったが、自分で決めるという行為はどこか新鮮で、少しだけわくわくする気持ちもあった。
もっとも、すでにサークルに参加している連中は、先輩たちから「単位の取りやすい授業」や「テストが簡単な講義」について積極的に情報収集をしているらしい。そういう様子を、まるで別世界の出来事みたいに横目で見ながら、俺は自分の興味を基準に履修を組んだ。友人や先輩のアドバイスなど、もとより聞く相手もいないし、そもそも関わりたくなかった。
住む場所だって、あえて寮生活を選ばなかったのは、誰とも日常的に顔を合わせずに済む方法を取りたかったからだ。一人暮らしは初めてだったけれど、最低限の自炊と家事をこなすうちに、それなりに慣れてきた。必要な買い物は夜遅くにコンビニで済ませる。誰かと鉢合わせするリスクを少しでも減らしたかった。
そんな感じで、なるべく周囲と関わらない生活を続けていたのに――。
初めての授業日。最初のコマは、大講義室での講義だった。大勢の学生が集まるらしく、教室に入った瞬間から賑やかな声が耳に飛び込んでくる。演劇場のように段差がついた座席が広がり、前方のホワイトボードの横にはモニターまで備え付けられていた。
その光景だけで、なんだか気圧されそうになる。なるべく人から遠い席を確保したくて、俺は一番後ろの窓際へ急いだ。ここなら視線が集まらないだろう。窓からは明るい春の光が差し込んで机をやわらかく照らしている。けれど俺はそれをありがたく感じるよりも、“誰にも見つからない暗がり”を求めるように、姿勢を小さくしながら座った。
――あぁ、この講義は結構人数が多いんだな。どうか指名されませんように……。
講義が始まるベルが鳴るまでの間、ノートとペンを静かに取り出す。ペンケースのファスナーをゆっくり開き、なるべく音を立てないようにペンを出して準備を整えた。隣の席には誰もいない。俺は心底ホッと胸を撫でおろす。
――これならこの授業、なんとか無事にやり過ごせそう……。
ところが、始業のベルが鳴る寸前、俺の横の席に人の気配が降りた。しかも、たっぷりとした“華やかさ”を伴って。目の隅に映る明るい髪色――まさか、と胸が騒ぐ。
「……えっ?」
そっと顔を向けると、信じたくない事態が目の前に広がっていた。そこに腰を下ろしたのは、あの入学式の日に話しかけてきた、インディーズバンド『BLUE MOON』のボーカル、桐ヶ谷陽翔だった。
金に近い明るい茶髪と、モデルみたいに整った顔立ち。オーラが違う。教室の中でも目立つ存在が、なぜわざわざ俺の隣に……? 驚きと動揺が一気に押し寄せ、俺は反射的に顔を背ける。
――あのときの俺なんか、絶対に覚えていないはず……。
そう念じるように祈っても、“運命の悪戯”みたいに彼は隣でこちらを気にしている気配を見せる。恥ずかしさと恐怖で、ノートに視線を落としてやり過ごそうとする。手に握ったペンが震え、冷や汗がじわりと浮かぶ。
すると案の定、隣から声がかかった。
「やっぱり君……この前の入学式で会ったよね? あの時、俺、逃げられた気がするんだけど……」
――うっ……!
明るくて柔らかなトーンの声。その瞬間、俺は心臓が痛いくらいにドキリと跳ねた。前の席にいる数人が、ちらっとこちらを見ているような気がして、さらに身がすくむ。
「……えっと……」と何か言わねばと思うのに、声にならない。結局、かすかに首を横に振るのが精一杯だった。何を話す余裕もなく、ただノートを見つめ続ける。
陽翔はまだ何か話しかけてきていたが、俺の耳には全く届かなかった。周囲がこちらに注目しているかもしれない――そう思うだけで頭が真っ白になる。
やがて授業終了のベルが鳴ると同時に、俺は迷わずノートとペンを鞄へ突っ込み、逃げるように席を立った。ここから一刻も早く出ていかないと、また声をかけられてしまう。
大講義室を出ると、長い廊下には新入生たちが楽しそうに談笑しながら移動していた。連絡先を交換している光景も当たり前のように広がっている。そんな“陽キャ”たちの波をかいくぐるように、俺はうつむいたまま足早に歩を進める。
――早く次の教室に行こう。もう誰とも話したくない……。
そう思って前を急いでいると、背後から同じような速度でついてくる足音が聞こえてきた。気のせいであってほしいと願うが、その足音はピタリと一定間隔で追いかけてくる。
嫌な予感がして背筋がこわばる。
――あの……桐ヶ谷陽翔、絶対に追いかけてきてる……!
一段と歩幅を広げ、急ぎ足になる。だけど振り切れそうにない。周囲からは「何あの子、バンドの人に追いかけられてる?」なんて囁く声が聞こえたような気がする。被害妄想かもしれないけれど、それだけで胸が苦しくなる。
「おーい! ねぇ、名前くらい教えてよー!」
後ろから明るい声で呼びかけられるが、もちろん振り返れない。まるで耳に蓋をするように、さらに足を速める。
「今度、ご飯でも行こうよー! だめかな?」
知らない人と食事――そんな社交的イベント、俺には到底無理だ。考えるだけで息が詰まる。結局、返事をすることもなく、次の授業が行われる教室へ滑り込み、なんとかその場を逃れた。