朝一の“逃走劇”がひとまず終わり、そこから二限目はどうにか穏便にやり過ごす。特に目立ったことはなく、授業も問題なく終わった。ホッと息をついて廊下に出ると、学生たちは昼休みということで揃って食堂へ向かっていく。
――人混みの食堂なんて、絶対無理……。
そう思い、中庭へ向かう。大学の中庭には木々が並び、ベンチやテーブルが点在していて、少し落ち着ける空間になっている。意外と知っている人が少ないのか、人気がほとんどなく、俺のお気に入りの“隠れスポット”だ。
日当たりのよい場所を避けるように、一番奥の木陰にあるベンチへ。そこは淡い木漏れ日が差し込み、春の心地よい日差しを適度に遮ってくれる。カバンから今日の昼飯――コンビニで買ってきた菓子パン――を取り出して、そっと息を吐いた。
――今日は朝から散々だ……。あんなキラキラした人に追いかけ回されるなんて……。
半ば呆然としながらパンの袋を開け、かじろうとした、そのとき。
すとん。
不意に、誰かがベンチの隣へ腰を下ろした気配がした。俺の隣に他の人が座るなんて滅多にない。しかも、空いてるベンチは他に掃いて捨てるほどあるのに。驚いて横目をやると――。
――また……あの人だ。
朝、教室で声をかけてきた桐ヶ谷陽翔が、何食わぬ顔で弁当箱を広げている。こんな“穴場”をどうして知っているんだろう……。俺の心は嫌な予感と混乱でいっぱいになる。
彼が持ってきている弁当は、色とりどりの野菜や卵焼き、肉料理がバランスよく詰まっていて、やたらと美味しそうに見えた。誰かが作ってくれたものなのだろうか。けれど彼の周囲に他の友人らしき人はいない。
「いただきまーす!」
陽翔はにこやかにそう言ってから食べ始める。大きく頬張る姿は飾り気がなく、むしろ子どもっぽいとも言える。だけど、そんな無防備な表情も様になってしまうのが、彼の持つカリスマ性なのかもしれない。
――何で俺の隣にわざわざ座ってんだ……。
パンを持った手が震え、食欲が失せてしまう。少し背を丸めて気配を殺そうとするが、すぐに陽翔は俺の方へ顔を向け、嬉しそうに声をかけてきた。
「ねえ、君って、もしかして同じ学部だったりする? さっきも大講義室にいたでしょ」
耳に心地よいトーンで問いかけられると、なぜか拒否しきれず胸がざわつく。とっさに言葉が出てこなくて、ただ俯くしかない。
「入学式のときさ、声かけたら思いっきり逃げられちゃって、結構ショックだったんだよ。今日も教室で逃げられたし……」
明るく続いていた言葉が、急にしんと静まる。彼は一瞬、言いづらそうに唇を閉じ、目を伏せているようだった。
「……ううん、なんでもない」
小さく息を吐いてから、照れ隠しするように弁当のフタを指でなぞる。
――覚えてたのか、やっぱり。変な意味で印象に残っちゃったんだろうか……。
俺の胸の奥がぎゅっと締まる。こんな目立たない地味な陰キャを、よりによってあの人気バンドのボーカルが気にかけているなんて、周りから見たらギャグにしかならない。
だというのに、彼の声色はやたらと優しげで、悪意や悪戯心は感じられない。不思議な空気に呑まれそうになるのを必死で耐える。息苦しいはずなのに、さっきみたいな圧迫感とは少し違う――そんな錯覚を覚えてしまう自分が、余計に怖い。
「そうだ、名前、教えてくれる? 俺は桐ヶ谷陽翔。“陽気の陽”に“翔ぶ”って書くんだ。君の名前も知りたいな」
人懐っこい笑顔と、まっすぐな瞳。無意識のうちに俺の心が萎縮して、けれど逆に逃げ出せない。ほんの少しの沈黙の末、諦めたように唇を動かす。
「……綾瀬……叶翔……、です……」
蚊の鳴くような声だったのに、彼はしっかりと聞き取ってくれたらしい。顔をぱぁっと輝かせる。
「綾瀬叶翔くん、か! “叶える”に“翔ぶ”だよね? いい名前じゃん! 俺も“陽翔”で同じ“翔ぶ”だし、何か親近感わくなー!」
まるで“運命”でも見つけたみたいに、満面の笑顔で喜んでいる。陽の光に照らされた彼の姿は眩しくて、俺は思わず視線をそらした。
――なんなんだ、この人……。普通、こんなにフレンドリーに踏み込んでくるか……?
心臓はまだバクバクしているけれど、朝のような“ひたすら逃げなくちゃ”という一方的な恐怖は、どこかへ薄れていた。不思議と、彼の存在を極端に疎ましく感じていない自分に戸惑う。