その日の夕方。一日の授業が終わり、俺は薄暗くなり始めた街を抜けて、自宅マンションに向かっていた。オレンジ色の街灯が淡く照らす道を歩きながら、今日あった出来事を振り返って、再びため息をつく。
「……なんであんなに何度も声をかけてくるんだろう。朝だってしつこかったのに、昼には結局捕まっちゃったし……」
追いかけられていたときの周囲の視線を思い出すと、未だに胸がざわつく。あの光景は二度と味わいたくない。
だけど、ベンチでの会話――俺が名前を言ったときの、彼の嬉しそうな笑顔――あれを思い出すと、妙に胸が熱くなる。こわばっていたはずの心が、ほんの少し緩んだ気がした瞬間だった。
「……いや、絶対気のせいだ。俺にとっては怖いはずなのに……」
頭を振って否定する。考えれば考えるほど、自分でも訳が分からなくなりそうだ。あんなキラキラした“モテ男”と俺なんかが釣り合うわけがないし、関わるメリットなんて何もない。最初から深く考えずに、距離を取ればいいだけのことなのに……。
「でも……あのまっすぐさって、反則だろ……」
ぼそりと呟いて、開けかけたマンションの扉を押し込む。室内に入ると、狭いワンルームがひんやりとした空気で満ちていて、今日一日の疲れがどっと襲ってきた。鞄を床に置いて、電気をつける。部屋には誰もいない。
――そう、俺は一人でいいんだ。誰にも迷惑をかけず、誰からも変な目で見られずに過ごせるなら、それがいちばん楽なはず……。
そう言い聞かせながら、ベッドに倒れ込む。瞼を閉じても、どうしても陽翔の屈託のない笑顔が浮かんでくる。それは朝日のようにまぶしくて、俺の“当たり前”を容赦なく揺るがそうとしていた。
――明日も彼は同じ教室に来るのだろうか。それともまた昼にあのベンチへ……?
考えるだけで緊張が走るのに、なぜか“怖い”一辺倒とは言い切れない気持ちが胸にこみ上げてくる。だが、そこにある微かな好奇心を、俺は必死に振り払うように目を閉じた。
「……うるさい、もう寝よ……」
上着すら脱がず、ベッドに身を横たえる。脳裏には桐ヶ谷陽翔のまぶしい笑顔が何度もよぎる。そんな相手のことなんて考えたくないのに、思い出すたびに心がざわつく。
――変だ。俺、どうしちゃったんだろう……。
やがて、疲れからか深い眠気が襲ってくる。まぶたが重くなり、意識が溶けていくように遠のく。最後に思い浮かんだのは、名前を教え合ったときのあの瞬間。
――もう目を合わせないと決めているのに。あの目が、なぜだか心に焼きついて離れない……。
胸のうちでざわめくこの感情は、いったい何なのだろう。戸惑いを抱えたまま、俺は春の夜の静寂の中へ落ちていった。