三限目の授業がない俺は、そのまま中庭で時間を潰すことにした。ほとんどの学生が教室へ移動した後の中庭は、さっきまでのにぎわいが嘘のように静まり返っている。木々の間から春の木漏れ日が落ち、ベンチやテーブルに柔らかな影を作っていた。
適当なベンチに腰を下ろし、スケッチブックを取り出す。ペラペラとページをめくって空いたスペースにイラストでも描こうとした、そのとき。
「ねぇねぇ、さっきの授業で桐ヶ谷陽翔先輩に声かけられてたでしょ? すごくない? あんな神イベント滅多にないよ?」
弾むような、明るい女性の声が聞こえてくる。驚いて顔を上げると、黒髪のショートヘアでスリムなパンツを穿いた女性がニコニコしながら立っていた。少しキツめの目元だが、その瞳は柔らかく、人懐っこい光を帯びている。
「ごめん、いきなり話しかけて。あたし、さっき同じ教室にいたんだけど、陽翔先輩に声かけられてるから気になっちゃって。あたし、一年の
そう言って、芽衣は右手を差し出す。慣れない動作に戸惑いつつも、拒否するわけにもいかず、俺もおずおずと握手を交わした。
「い、一年の……
目を合わせないまま名乗ると、芽衣は軽く俺の前髪を指でかき上げて、顔を覗き込んでくる。
「うわ、イケメンじゃん! 顔隠してるの、もったいないねー」
めったに言われない言葉に戸惑いを覚えつつ、また俯きがちになる。人によっては馴れ馴れしさを感じてしまいそうだが、芽衣には不思議と警戒心が薄れる空気があった。陽翔とはまた違うタイプの明るさと言えばいいだろうか。
「実はあたし、BLUE MOONの大ファンで、特に陽翔さん推しなの。ライブも何度か行ってて、SNSも全部フォローしてるんだよね。だから、この大学に入ったってのもあるんだ」
そう言いながら、芽衣はスマートフォンの画面をちらりと見せてくる。そこには陽翔たちが出演するライブ情報や、ファンアカウントらしい投稿がぎっしり並んでいた。
「……そう、なんだ。知らなかった。そんな人気バンドがあるなんて……」
正直、俺は音楽シーンに疎いし、そもそも高校時代にあまり情報収集する余裕がなかった。
「ねえ、叶翔くんは普段何してるの?」
何気ない質問のつもりだろうが、俺はとっさにスケッチブックを握りしめ、隠すように閉じた。そんな様子を見て、芽衣の視線が一瞬鋭くなる。
「……あれ? さっき見えたイラスト、どこかで見たことある気が……。ねえ、ひょっとして創作アカウントとか持ってない?」
心臓が大きく跳ねる。バレたらどうしよう――という恐怖が頭をよぎり、慌ててスケッチブックを鞄に詰め込んだ。
「ち、ちが……。気のせい、だよ……」
震える声を抑えながら立ち上がり、そそくさと逃げるようにその場を離れた。芽衣は「またねー!」と明るく手を振ってくれたが、俺の胸はざわつきでいっぱいだった。