大学に進学した今でも、その傷跡は決して消え去ったわけではない。いつものように、始業の十分前に教室へ入り、一番後ろの窓際の席を確保する。もうすっかり、これが“定位置”になってしまった。
窓から差し込む春の日差しは穏やかで、外の木々には若々しい新緑がきらきらと揺れている。陽射しを浴びて暖まる教室の空気の中で、ふと息をつく。
――今日は、陽翔さんと同じ授業はなかったよな……。
そう思うと、ほっとするような、なぜか寂しいような、不思議な感情が湧き上がる。自分でもその落差に戸惑い、首を振って打ち消す。
--……俺はあんな人を信じられるわけない。怖くないかもしれないけれど、信用しすぎるなんて絶対にだめだ……。
胸の奥をざわつかせる思いを閉じ込め、ノートの端にラフスケッチを描き始める。この時間こそが俺にとっての逃避であり、心の拠り所だ。ペン先が滑り始めると、周囲の雑音から切り離されたような集中力が得られる。
しかし、その平穏は突然、明るい声で破られた。
「やっほー、叶翔くん! おはよー!」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、そこには
俺は慌ててペンを止め、かろうじて小さな声で返事をする。
「……お、おはよう……」
芽衣は笑顔のまま隣の席を当たり前のように確保すると、ちらりと俺のノートを覗き込む。
「昨日も思ったんだけど、ほんとにイラスト上手だね。すっごく引き込まれちゃう」
ぎくっ……と胸が強張る。もしこの絵を芽衣が特定してしまったら――あの嫌な思い出がふと脳裏をかすめる。
しかし、芽衣は怪訝そうな目で見つめるわけでもなく、ただ純粋に興味を持っているように見えた。それでも俺は、スケッチブックをそっと閉じ、身を縮こまらせるようにノートの上に手を置く。
「み、宮下さん……」
「もう、芽衣でいいよ。あたしも“叶翔”って呼びたいし、呼び捨てで気軽に話そ」
彼女はまったく悪意を感じさせない瞳で、言葉を続ける。彼女はサバサバした性格だが押しつけがましくなく、人と関わるのが本当に上手いのだろう。下手に自分を大きく見せようともせず、かと言って妙な距離を取ろうともしない。俺のような陰キャだって構わず会話してくれるのはありがたいが、警戒心が残るのも事実だった。
「……じゃ、じゃあ……芽衣、って呼ぶ……」
正直、女の子を名前で呼ぶなんて、生まれて初めての経験かもしれない。俺がそう答えると、芽衣は大げさに顔を輝かせ、声を弾ませた。
「わーい! やっぱ名前で呼ばれるのって嬉しいよね。よろしくね、叶翔!」
そのあまりの人懐っこさに、思わずくすぐったいような気持ちになる。大学生になったばかりだというのに、こんなふうに新しい“友達”ができるなんて、想像もしていなかった。ほんの数日前までは、大学では誰とも関わらずに過ごすつもりだったのに……。
芽衣は少しだけ目線を落とし、何か含むように口を開く。
「そういえばさ……陽翔さんのこと、どう思ってる?」
「……え?」
予想外の直球に息が詰まる。まさか、こちらから切り出されるより先に、相手の方からその話題を振られるとは。
芽衣は真剣な表情で、俺の目を覗き込むようにして続けた。
「実はね、あたし、昨日からずっと見てたんだけど……やっぱり陽翔さん、叶翔にだけ特別な感じがするんだよね。目の色が違うっていうかさ」
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
――本当に、俺を特別扱いしている? そんなのあり得ない……。
あの日、陽翔が「一緒にランチしよう」と言ってきたときの笑顔を思い出す。確かにあの笑顔は“無差別”とは思えないほど真っ直ぐで、俺に向けられているという実感があった。だけどそれを認めてしまうのが、どこか怖い。
「一途なイケメンって、案外レアだよ? だからちょっと応援したいんだよねー、あたし。……まあ、これはあくまで推測だけどさ」
「……そんなの、やめて……」
思わず強い口調で遮ってしまう。芽衣は驚いたように目を瞬いた。
「……ごめん……。ただ、俺は……人から好かれるとか、そういうの……向いてない。期待なんかしたくない……」
言葉を吐き出しながら、胸がきしりと痛む。彼女に悪気はないとわかっているのに、感情が暴れそうになる。
過去の苦い記憶がフラッシュバックし、喉の奥が塞がるような感覚に襲われる。
「……期待するのが……いちばん怖いんだ……」
声が少し震えてしまったのを自分でも感じる。芽衣は一瞬困惑したように黙り込み、けれど目をそらさず、まっすぐ俺を見ていた。彼女の瞳には複雑な思いが混じり合っているように見える。
だが、まだ出会って二日目の相手に、これ以上の深い事情を話すわけにもいかない。それに、どんなに優しい言葉をかけられても、俺にはどうにもできない“過去”がある。
「……友達とか、恋人とか……俺には、無理なんだ……」
そう呟いた最後の方は声にならないほど弱々しくなっていたが、芽衣は黙って聞いてくれた。結局、何も言わないまま講義が始まり、その日の会話は自然と途切れてしまった。