図書館の窓際の席は、午後の光がやわらかく差し込んで、春のくすんだ日差しに包まれていた。昼下がりの陽の光が床に長い四角形の明るさを作り出している。誰にも見つからずにそっと過ごせるこの場所が、俺のお気に入りの場所だ。
スケッチブックを広げて鉛筆を走らせる。無意識に書いていたのは、あの横顔。鉛筆の先が紙の上をなぞるたび、その線はどんどん彼の輪郭に近づいていく。
目鼻立ちがはっきりした、まるでモデルのような顔立ち。そこに描かれた笑顔はこの上なく眩しいほどだった。自分でも、誰を書いているのかは、言うまでもなかった。
「すごい、うまいね。絵を描くのが好きなんだ」
不意に背後から声をかけられ、体が跳ねた。思わず両手でスケッチブックを覆う。ゆっくり振り向くと、そこにはインディーズバンド"BLUE MOON"のメンバー、
黒い春用のニットに白いシャツを合わせた出立ちは、どこか洗練されている。整った顔立ちは誰もが目を引くほどの美形なのに、そこに張り付いている笑顔が、なぜか "作りもの"のように見えた。
「……藤堂さん……?」
絵を描いているところを見られたことに驚き、返事が少し遅れた。
晴臣はゆっくり隣の席に腰をかけると、机に肘をついて俺の方を向いた。
「ごめんね。覗くつもりはなかったんだけど、すごい真剣に描いていたからしばらく後ろから見させてもらってたんだ」
晴臣の声は低く落ち着いたものだった。陽翔のように明るく眩しい感じとは正反対に、なんとなく棘のあるような、冷たい風に包まれたようだ。その声質は魅力的なはずなのに、どこか警戒感を抱かせる。
「その絵さぁ、陽翔だよね? どうなの、最近。陽翔と……」
思わぬ名前を聞かされて、肩がビクッと震えた。頬が熱くなるのを感じる。
「どう……って。別に……何も」
晴臣は俺から何かを見透かそうと、じっと見つめてくる。表面上は穏やかな表情だが、その瞳の奥には何か冷たいものが潜んでいるように感じた。俺はすぐに目を逸らしたが、軽く握った手が小刻みに震えていた。
「ふーん。ちょっと気になるだけ。アイツ、最近、誰かさんのことを話す時だけ、表情が明るくなるからさ」
さらりとそう言って、晴臣はずいっと俺の方に顔を寄せた。
その顔は笑っているが、目はどこか冷たい水の底のような冷徹さを湛えていた。わずかに漂う香水の香りが、さらに彼の存在感を際立たせる。
「……そう……なんですか……」
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。誰かってもしかして、俺のことだろうか……。背筋に冷たいものを感じた。
「でもね、綾瀬くん。前も言ったと思うけど、アイツさ、熱しやすく冷めやすいんだよね。昔からそうでさ。自分が『好きだ』って思ったら一直線だし。でも、その熱が持続するかどうかは別なんだよ」
「……はい」
晴臣は俺から目線を外して、窓の外に向けた。窓の外からは学生の楽しげな話し声が聞こえている。春の陽気に、みんな心浮き立っているようだった。
「期待しない方がいいって言ったのは嘘じゃない。でも、アイツに振り回されるのは、結構疲れるよ」
「そう……ですか」
その言葉は嘘ではないと感じた。俺自身も先日の陽翔からの告白で気持ちがぐちゃぐちゃだからだ。しかし、それは陽翔のせいではない。俺自身の心が弱いからであって、誰のせいでもないのだ。
それでも、陽翔から直接聞いた言葉と晴臣の言っていることは食い違っている。晴臣は陽翔のことをきちんと理解していないように感じでしまう自分がいた。それは、陽翔自身から直接「自分から本気で好きになったことはない」という言葉を聞いたからだ。晴臣の言葉は俺を陽翔から遠ざけようとしているようにも聞こえた。
「君みたいな子には……陽翔は、アイツの気持ちは、きっと重いと思うよ」
そう告げた晴臣の横顔は少し寂しそうに見えた。言葉とは裏腹に、何か本音が隠されているようだった。
二人の間に、重い空気が流れた。それを打ち破ったのは芽衣だった。
「うわっ! なんなのよ、この重たい空気。二人の後ろに黒いモヤが見えるの、気のせい?」
静寂を打ち破る明るい声に、俺と晴臣は同時にそちらに目を向けた。芽衣はいつの間にか図書館に入ってきて、肩に掛けたカバンを揺らしながら近づいてきた。
「あれ? 芽衣ちゃんじゃん。久しぶり」
「やっほー、晴臣さん、久しぶりー。なになに? また
芽衣は俺の向かいの席に座わるなり、手にしていたペットボトルのミネラルウォーターを机の上にトンと置いた。その音が図書館の静けさの中で妙に響く。
一見、軽口を言っているように見えるが、芽衣の目は笑っておらず、本気だった。その視線には明確な警戒心が宿っている。
晴臣は肩をすくめて言った。
「営業じゃないよ。ちょっと綾瀬くんと話してただけ」
「へぇー。珍しいね。晴臣さんが陽翔さん以外と話をするのって。そもそも、いつ、叶翔と知り合ったの?」
芽衣の顔は笑っているが、目は全く笑っていない。俺の目には晴臣を牽制しているように見えた。芽衣の指先がペットボトルを軽く叩く音が、緊張感を際立たせる。
「陽翔が綾瀬くんのことをよく話していたからね。だから、ちょっと興味あって話しかけてみたんだよ」
「で、陽翔さんの話をしてたわけ?」
芽衣は冷たい笑顔を晴臣に向けていた。それを難なく交わし、晴臣が言った。
「……俺が、アイツの話したらダメ?」
「いえいえ、興味深いなって思っただけで。だって晴臣さんいつも『アイツは子供っぽくて面倒』って言ってたじゃん」
晴臣が声を抑えながら、喉をククッと鳴らして笑った。その笑いには、どこか冷ややかなものが混じっていた。
「確かに俺、そんなこと言ったね。今も、そう思ってるけど」
淡々と答える晴臣に対し、芽衣は肩を揺らして笑った。ただ、その笑顔には鋭さが隠されていた。
「やっぱ、陽翔さんって、ちょっとバカなんですよ。あー、もう、顔はイケメン王子様なのに、中身はバカ犬。感情だけで突き進むタイプ」
「……バカ犬って……」
思わず口からこぼれた俺の言葉に、芽衣は俺の方を振り返ってニヤリと笑った。確かに、陽翔は一直線に向かってくる犬のようだ。好きな人の前で尻尾を振るような無邪気さもある。俺もふふっと笑ってしまった。
「でもね、そのバカ犬が、叶翔のこと好きすぎて、尻尾がちぎれんばかりに振ってるの、わかってる?」
「そんな……」
「綾瀬くん!」
俺が芽衣に口を開いたのと同時に、晴臣が俺の言葉に被せるように割り込んできた。
静かなトーンだが、その言葉は冷たさと同時に重さも加わっていた。晴臣の表情が一瞬引き締まるのが見えた。
「正直、陽翔のこと、どう思ってるの?」
「……っ! 俺はっ……!」
晴臣は目を細めて俺を見つめた。その眼差しはまるで氷のように冷たかった。まるで俺の心の奥底まで見透かされているような気がして、言葉が詰まった。
「いや、答えなくていいから。でも、考えてみて。もしかしたら、陽翔の『好き』は君が思っているよりも、軽いかもしれないし。逆に重いかもしれない。それにさっき言った『熱しやすく冷めやすい』ことも本当だから」
芽衣はそれを聞いて眉を寄せた。目を細めて晴臣に向けて言った。
「晴臣さん、それ、脅し?」
「ははっ。違うよ。『忠告』かな」
「ふーん」
芽衣はペットボトルの蓋を開けてゴクリと一口水を飲み、くるりと席を立った。彼女の動きには決意が感じられた。
「それって、晴臣さんがそう思っているだけじゃないの? でも、あたしは知ってるけどね。陽翔さんが誰にでもそうじゃないって。それに、陽翔さんの本心は、陽翔さんしか知らないと思うよ」
芽衣はそう言い残して、スタスタと図書館の出口へと歩いて行った。その背中には強い意志が感じられた。
そう言えばこの前、芽衣は陽翔と何やら話していたのを思い出す。その時に、俺のことを話したのだろうか?
芽衣の靴音がやけに耳に残った。その音は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
残された俺は、視線を落としたまま、何も言えなかった。スケッチブックの上で指先が小刻みに震えている。
芽衣の言葉も、晴臣の声も、心の中でまるで温度の違う水のようにぐるぐると渦を巻いている。温かいものと冷たいものが混ざり合い、判断を鈍らせる。
陽翔の俺に向けた"好き"という言葉は――。
初めて人を好きになったと言った。本当に熱しやすく冷めやすいのなら、このまま距離を置いた方がいいのか?
だが俺の中で陽翔の存在は日に日に大きくなっていく。思い出すたびに胸が熱くなる。彼の笑顔、声、仕草……全てが鮮明に思い浮かぶ。
答えが分からなくて、胸の奥がひどく苦しかった。