翌日、大学内には強い風が吹き荒れていた。乱れる髪の毛を抑えつつ、教室へ向かおうとすると、俺の耳に話し声が聞こえてきた。
「ねえ、見た? ほら、"BLUE MOON"の自称ハルトの彼女候補って言ってる、誰だっけ? ナナだっけ? あの子のアカウント」
「うん、見た見た! なんかハルトにストーカーまがいのことしてる人がいるって話じゃない?」
ひそひそと話しているのだろうが、陽翔の名前に敏感になっている俺には、普通に聞こえてしまった。体が石のように固まる。
「なんでも有名な絵師さんらしいじゃん。この大学の男子学生だって言ってたよ」
「え? 男子? キモっ! やめてほしいよねー、あたしらのハルトにストーカーとか」
「でもさぁ、ナナのハルトとのツーショット写真も合成って噂だし、そのストーカー話も盛ってるだけかもよ?」
「ハハっ! ありえるね」
キャハハと楽しそうに二人で会話しながら過ぎ去っていくのを横目に、俺の背中には冷たいものが流れ落ちていくのを感じた。もしかして、俺のアカウントが晒されたのか……。全身から血の気が引いていく。
――まさか……。そんな……、俺を特定できるものは、あのアカウントには何もアップしていないはず。
自分に大丈夫だと言い聞かせながら教室へ向かっていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには芽衣が血相を変えて俺の元へと走ってきた。
「叶翔、大変っ!」
芽衣は肩を上下させて息を荒くしている。その顔には焦りと怒りが入り混じっていた。その様子を見ると、ただ事じゃないと言うのが窺えた。恐怖が背中を駆け上がる。
「どう……したんだよ。そんなに焦って」
芽衣は荒くなった息を整えて、ゆっくり深呼吸した。彼女の瞳には怒りの炎が灯っていた。
「これ、見て」
芽衣はスマートフォンの画面を俺に向けた。その画面を見た俺は、全身から血の気が引くのを感じた。足が震え始め、立っているのも辛くなる。
SNSのアカウントは"ナナ"のもので、俺が昨日アップロードした陽翔のイラストを引用する形で投稿していた。
『この絵師、キモい! BLUE MOON・ハルトにストーカー行為。実名は"
キャンパス内の学生が俺に目を向けているように感じて冷や汗が止まらない。息が荒くなり、周囲の音がどこか遠くに聞こえる。
「この絵垢の人、同じ学部らしいよ」
「絵師のアイコン、ハルトと似てね?」
"ナナ"の投稿を引用する形でさらに拡散されていく。あちこちから囁き声が聞こえてくるようで、頭がぐらぐらする。
不安になって、俺は自分のスマートフォーンを開いてSNSのアイコンをタップして愕然とした。通知が止まらない。フォロワー数も鰻登りで増えている。画面を見るたび、心臓が痛いほど締め付けられる。
俺が投稿した陽翔のイラストを無断転載され、さらにイラストのコメント欄には「気持ち悪い」「ストーカー」などといった心無い言葉が次々に投げかけられていた。画面から聞こえてくるかのような罵声に、耳を塞ぎたくなる。
「あの時と……、同じだ」
ゲイバレした高校一年の時、実名をさらされ、ネット上で誹謗中傷を受けたあの光景が、鮮明に蘇ってきた。教室で孤立し、SNSで晒され、友達だと思っていた人たちに裏切られた記憶。
「また、みんなに見られて、笑われて、汚いもののように扱われる……」
――俺はまた、同じ場所に戻ったんだ……。全部バレた。終わった……。
呼吸が速くなり、息苦しさを感じる。胸に手を当てて、動悸を抑えようとするが胸の苦しさは少しもおさまらない。手先は冷たくなり、膝はガクガクと震えてその場に立っているのも辛いほどだった。視界がぼやけ始める。
「叶翔……、大丈夫? 顔色悪いけど」
芽衣が背中をさすってくれるが、全く感覚がない。芽衣の声も遠くから聞こえてくるようで、現実感がなかった。
「……芽衣……、俺……」
吐き気がして手で口を覆った。立っていられなくて、その場にしゃがみ込んでしまった。冷たい地面に膝をつく感覚だけが、かろうじて俺を現実に繋ぎとめていた。
「叶翔。あたしがコイツ、絶対、潰してやるから……。今日はもう、帰りなよ」
芽衣の声は、今まで聞いたことないほど低く、怒りが溢れているのが分かった。ギリギリと歯ぎしりをして、瞳は氷のような冷たさをまとっていた。俺は、こんなに親身になって心配してくれる友人がいることをありがたく思った。高校の時には、誰も味方はおらず孤独だったから……。
芽衣の温かい手が肩に触れる感覚が少しだけ心を落ち着かせる。
「……ありがとう……。でも、今日、課題提出があるから……、行く」
俺はよろよろと立ち上がり重い足取りで教室へと向かった。周りの人から、好奇の目で見られているような気がして、誰とも目を合わさないように、俯きながら歩いた。芽衣はそんな俺を支えるようにして、一緒にいてくれた。俺に付き添っていることで、芽衣も変な目で見られるんじゃないかと思うと、気が気じゃなかった。