「今日はもう、帰ろう……」
いつもなら、創作活動のために、イラストを描く場所を探してキャンパスをうろうろするのだが、さすがにそんな元気は、今日は、もう、ない。体の中に入れた食べ物も、喉を通らず、心も身体も疲れ果てていた。
今日一日、長かった。特に、創作アカウントについて誰からも直接、声をかけられることはなかったが、キャンパスのあちこちで「ハルトのストーカー」の噂話が聞こえてきた。聞こえないふりをしても、その言葉だけが耳に残る。
実名が晒されたことで、近いうちに俺がそのアカウントの持ち主だと言うことが陽翔にもバレるだろう。大学内でもそのことが広まったら、また、あの誹謗中傷が俺を襲ってくる。そう考えただけで膝がガクガクと震えた。喉が渇き、息が浅くなる。
授業が終わった時、芽衣が「何かあったらいつでも連絡して!」と念を押してきた。高校の時のゲイバレ事件についても芽衣には話しているからか、心配してくれているのだろう。彼女の目には心からの友情が見えて、少しだけ救われた気がした。
その時、隣を歩いているグループから話し声が聞こえてきた。
「ねぇ、見た? あのハルトのイラスト」
その声を聞いて俺はまた背中が冷たくなるのを感じた。またキモいとか言われるんじゃないかと思うと、これ以上話を聞きたくないと思ったが、それでも耳に彼女たちの声は届いた。
「すごいうまいよねー! しかもさぁ、あのイラストの表情、めっちゃ良くない?」
「わかるー! なんか愛しさが伝わるっていうか、愛が溢れているよね!」
思いがけない優しい言葉を聞いて、全員が俺のことを悪く言っているわけじゃないんだと思ったら、目頭が熱くなった。うっかり瞬きをすると、涙がこぼれ落ちそうになる。
「きっとさ、あの絵師さん、ハルトのこと本気で好きなんだよ。だからあんな素敵な絵が描けるんじゃないかな……」
うふふと頬を赤らめて言っているその人の声に、俺は心が温かくなった。だが、みんながみんな、こんな反応ではないはずだ。そう考えると、気が滅入った。胸に小さな明かりが灯ったと思ったのに、すぐに闇に呑まれていく感覚。
重い足取りでキャンパス内を歩いていたら、誰かが走っている足音が聞こえた。鼓動が跳ね上がる。
「やっと見つけた!」
振り返るとそこには息を切らした陽翔が立っていた。彼の髪は風で乱れ、瞳には真剣な光が宿っていた。
「叶翔くん、やっと見つけた……」
安堵したのか、くしゃっとした笑顔を俺に向けた。その顔には心からの安心感が広がっていて、見つめる目に嘘がないことが痛いほど伝わってくる。
「ねぇ、何があったの? なんか、BLUE MOONのタグでエゴサしてたら、すごいヒットして……。叶翔くんの名前もSNSで流れてきて……。お願い、話して……」
陽翔が真剣な表情で手を伸ばしてきた。その手は少し震えていて、俺を心配しているのが伝わってきた。ずっと避けていたのに、なんで――。
「……もう、俺に、関わらないで……」
俯いて小さく呟くと、陽翔がひゅっと息を吸ったのが分かった。心が引き裂かれるような痛みを感じる。言いたくなかった言葉なのに、恐怖が俺の口からそれを吐き出させた。
「なんで? 俺、何かした? 違うなら、ちゃんと教えて!」
陽翔の声には焦りと、どこか傷ついたような色が混じっていた。俺は何も言うことができず、ただ頭を振ることしかできなかった。喉が閉ざされたように声が出ない。
「俺ができること、なんでもやるから! もしかしてあの"ナナ"のアカウントのこと? だったら俺がなんとかするから」
彼の声には力強さがあって、まるで俺を守ると誓っているかのようだった。そんな陽翔の姿を見て、胸が苦しくなる。俺は俯いたまま拳を握って言った。
「……そんなことしたら、陽翔さん、困るんじゃ……」
有名バンドのボーカルが、男のストーカーとの噂に関わったら、きっと大変なことになる。今後、メジャーデビューも視野に入れているバンドなのだ。そんな迷惑はかけられない。言葉にならない思いが、喉の奥で詰まる。
「何言ってるの? 好きな子、守れないなんて、俺、絶対、嫌だからっ!」
陽翔の叫び声があたりに響き渡った。その声には哀れみなどは一切なく、真剣さが伝わってくる。そして――「好きな子」という言葉が、俺の心に刺さった。
――それでも、陽翔さんからキモいとか、思われたくない……。
「……陽翔さんにまで、俺のこと、キモいって見られたら……、もう、俺、壊れちゃうから……」
目から涙が溢れ出て涙声になる。陽翔が伸ばしていた手に背を向けて、俺はその場から立ち去った。振り返らなかったけれど、陽翔の気配が、ずっと背中に残っていた。