春フェスが終わって、ずっとどうするか迷っていた創作アカウントを再び公開することにした。どれだけネガティブなコメントが来るのかと身構えていたのだが、反応は全く逆のものだった。「待ってました!」「くらーじさんのイラスト大好き」というものばかりで驚いた。
「みんな、気持ち悪がると思ってたけど……よかった……」
俺はコメントを読みながら、心が温まるのを感じた。息を吐く度に、胸の奥が少しずつ軽くなっていくような感覚。これが、認められることの喜びなのだろうか。
そもそも、アカウント名をフランス語の「勇気」を表す
休止していた間もずっとイラストは描き綴っていた。陽翔を描いたもの、彼の笑顔、彼の指、彼の横顔――数えきれないほど。だが、それはまだ誰にも見せていない。そのおかげで、アカウントを再開してもコンスタントにイラストを公開することができている。やはり俺にとって絵を描くということは、一番心休まる瞬間なのだ。
筆を走らせる時だけは、全ての恐怖から解放される。色彩と線だけの世界。そこには、逃げなくてもいい自分がいる。
アカウント再開から一ヶ月が経った頃、陽翔からデートに誘われた。毎日大学で会っているのだが、外で会うのはこれが初めてだ。なんとなく恥ずかしさが伴いながらも、初デートにウキウキと心が踊った。新鮮さを感じながら服を選んでいると、スマートフォンが震えた。
『十時に大学近くのカフェに来て』
俺の家に十一時に迎えに来ると言っていたのに、何か予定が変わったのだろうか?
少し不安になったが、すぐに返信した。
『分かった。今から向かうね』
突然どうしたのだろうかと不思議に思ったものの、時間通りに指定のカフェに行った。中に入ると、そこに陽翔の他に、晴臣ともう一人、バンドのベーシストが座っていた。三人は何か話し込んでいるようだった。
「叶翔! 急にごめんね」
俺が入って来たことに気づいた陽翔は立ち上がって、ぱあっと明るい笑顔を俺に向けてきた。夏の日差しのような、まぶしいばかりの笑み。手招きされ、バンドメンバーのいる席に向かった。
「叶翔、ここ、座って!」
陽翔が隣の席をポンポンと叩いて、そこに座るように促す。指定された席に腰掛けると、陽翔がテーブルの下でスッと手を繋いできた。ビクッと肩を揺らしてじろりと陽翔を見やると「何か問題でも?」という表情でにっこりしながら、肩をくっつけてくる。
いつ、どこにいても、彼のスキンシップは予測不能だ。でも、最近はそれが嫌じゃなくなってきている自分がいる。
「急に呼び出してごめんね。俺、BLUE MOONのリーダーで、ベース担当の
拓真は金色の短髪をワックスでツンツンと立たせており、耳にはいくつものピアスをしている。服の上からでも筋肉隆々なのが分かった。一見、強面なのだが、目を細めて笑う様はきっと悪い人じゃないことが分かった。意外と笑った顔は可愛らしい。
「は、初めまして……
俺はぺこっと頭を下げて挨拶をした。横に座っている陽翔が俺の方をにこにこしながらじっと見つめていて、なんとも居心地が悪い。まるで珍しい生き物を見つけて喜んでいる子どもみたいだ。
「叶翔くん、いやー、噂には聞いてたけど、すっごいかっこいいじゃん!」
拓真が前のめりで俺の顔を覗き込んでくる。俺なんて全然かっこよくないのに、なんでそんなふうに言うんだろう……。陽翔の影響で、みんなが俺を過大評価している気がしてならない。
「……え、えぇっと……」
なんと答えていいのか分からずにモジモジしていたら、陽翔がグッと拓真を睨みつける。
「おいやめろ。叶翔は俺の彼氏だからな」
すかさず陽翔が手でグッと拓真の体を後ろに押した。その動作には、柔らかい笑顔とは裏腹に、明確な警告が込められていた。
「あー、はいはい。分かった分かった」
拓真がめんどくさそうに手をひらひらと振って、陽翔をいなしている。それを見た晴臣が、またかと言わんばかりに大きなため息をついた。
こうやってバンドメンバーが一度に集まっているのを見ると、先日、晴臣が「バンドがうまくいかなくなるのが嫌だ」と言ったのが理解できた。ギクシャクしてしまうと、創作活動にも影響を与えるのかもしれない。
微笑ましくてくすくす笑っている俺の方へ、拓真が顔を向けてきた。俺はビクッとして笑うのをやめた。まだ知らない人と接するのは、慣れない。
「ところで、今日、来てもらったのは、叶翔くん、いや、イラストレーター
真剣な顔を向けられ、思わず背筋を伸ばした。
「まだオフレコなんだけど、俺たち、来年にデビューすることが決まったんだ」
「えっ! おめでとうございます!」
俺は思わず大きな声を出してしまい、手で口を覆った。晴臣が「しーっ」と人差し指を口元に持って来ている。
「それで、俺たちのデビュー曲のジャケットを描いてもらえないかと思って……」
拓真、晴臣、陽翔の目が俺に集まった。こんなにじっと見られているといたたまれない。じんわりと身体中に汗が滲んでくるのが分かった。息が詰まりそうになる。けれど、陽翔が机の下で俺の手をギュッと握りしめてくれた。その温もりが、俺を現実に繋ぎとめる。
「前、俺らみんな綾瀬くんのイラストのファンだっていう話、したじゃん? デビュー決まった時にジャケット描いてもらいたいねーって話してたんだよ」
晴臣が優しい笑顔を俺に向けて言った。
「お、俺なんかで……いいんですか?」
そう言いながら、自分でも驚くほど期待に胸が膨らんでいることに気づいた。自分の絵が、多くの人の目に触れる。彼らの音楽を、俺の絵が包む。そんな未来が見えた気がした。
「叶翔くんのイラストがいいんだよ!」
拓真の力強い言葉に、陽翔も晴臣もうんうんと大きく頷いている。
「できれば、ジャケットはテイストを統一していきたいから、専属というか、ずっと描いてもらいたいんだけど……」
どうかな? と拓真に聞かれ、思わず俯いてしまった。
だが俺は、陽翔のことで"逃げない"ということを学んだ。せっかく俺の絵を採用したいと言ってくれているんだ。高校時代の俺なら、こんな機会が訪れても、きっと恐怖に押しつぶされて断っていただろう。でも、今は違う。
俺は顔を上げて、拳を握った。
「分かりました。やらせていただきます!」
その言葉を聞いた陽翔が「やったー!」と叫んで抱きついてきた。そしてついでにキスしようと顔を寄せて来たので、反射的に陽翔の口を手で塞いでやった。
「ここ、外だから」
キスできずに、しゅんとしょげる陽翔は可愛いのだが……。節度は守ってもらわねば。あまりに無邪気すぎて、場の空気が読めない時がある。でも、それも彼の魅力なのかもしれない。
「はいはい。このバカ犬は放っておいて。また詳細が決まったら、契約とかあると思うので、その時はよろしくね」
拓真から右手を差し出されて、俺は両手でその手をぎゅっと握った。
「こちらこそよろしくお願いします」
するとすかさず、陽翔が拓真の手をぱちんと叩いて、俺の手をぎゅっと握った。
「叶翔、他の男の手なんて握らないで」
「あー。はいはい。この色バカ犬! まったく……」
拓真は目を細めて陽翔を睨め付けた。俺はこのやりとりが面白くて肩を揺らしてくすくすといつまでも笑ってしまった。陽翔のこんな一面は、意外だった。嫉妬深いというよりは、所有欲が強いのかもしれない。それが可愛らしくて、少し嬉しかった。