夏の始まりを告げる強い日差しが注ぐ六月十二日。俺は鏡の前から動けずにいた。
――前髪、上げるの、恥ずかしい……。
何度か手で前髪をかき上げてみるが、目元が露わになるのが怖い。高校のゲイバレ事件から、人と目を合わせるのが苦手で、自然と前髪で目を隠すようになっていた。それが今では癖になっていて、習慣的に目元を隠している。
でも今日は、陽翔の誕生日。
一度だけ、「前髪を上げた叶翔が見たい」と言われたことを思い出す。あの時は断ってしまったけれど、今日は特別な日。だから、思い切って前髪を上げてセットした。
キャンパス内を一限目の授業へ向かって歩く。目元を隠していないことで視界は広がったが、なぜか恥ずかしさと不安で足取りが早くなる。
教室に着くと、いつもの定位置である一番後ろの窓際に座り、頬杖をついた。窓の外を見ると、木々の緑は一層濃くなり、夏の到来を感じさせた。
「かーなとっ!」
振り返ると、陽翔が駆け寄ってきた。彼の表情が一瞬で驚きに変わる。
「え? 前髪、上げてくれたの? うれしい!」
ギュッと抱きついてキスをしようとする陽翔を、慌てて押し返す。
「ここ、学校だってば!」
「えー、いいじゃん。うれしいんだもん」
しゅんと眉を下げて残念そうにする陽翔を見て、小さくため息をついた。バンドマンで女の子に囲まれる陽翔が、こんな子どもっぽい表情をするなんて。そのギャップに、心がくすぐられる。
――喜んでくれるのはうれしいけど……。
何度注意しても、陽翔のスキンシップに時と場所の区別はない。「これならいいでしょ?」と言いながら、肩を引き寄せられ、耳元で囁かれる。
「叶翔、かっこいい」
その声に、耳まで真っ赤になってしまう。
「もう、そんなこと言うなって!」
そんな言い合いをしていると、後ろから明るい声が降ってきた。
「おやおや、お二人さん。ここ、学校なんですけどー」
振り向くと、芽衣がニヤニヤしながら立っていた。
「まぁ、でも、お二人さんはすっかり学内公認カップルだし、許されるか」
「そんな……」
恥ずかしくて俯く俺の肩を抱き寄せ、陽翔は堂々と宣言する。
「俺、公開告白したからね!」
「だねー。あたしの推しカプだから!」
芽衣も同意して、二人で楽しそうに笑い合う。
――俺も、堂々と陽翔の横を歩かないとな。
陽翔と芽衣の姿を見て、自分を奮い立たせた。
授業が終わり、キャンパス内を手を繋いで並んで歩く。最初は恥ずかしくて仕方なかったが、陽翔の手の温もりが安心感を与えてくれる。もう少し堂々と歩きたい。そう思っても、やはり視線が気になって俯きがちになる。
「おぉ、あの二人が噂の……」
「隠す気ゼロなの、清々しいよね」
キャンパスを歩いていると、ひそひそと話す声が耳に届く。芽衣の言う通り、俺たちはすっかり学内の公認カップルとなっていた。
その時、後ろで大きなため息が聞こえた。
「おい、そこのバカップル!」
振り返ると、晴臣が呆れた表情で立っていた。
「なんだよ、晴臣。バカップルって……」
「ったく。俺の気持ちも知らないで、人前でベタベタするな」
晴臣は細められた目で陽翔を睨む。その言葉に陽翔は反発するように、俺の肩をさらに抱き寄せた。
「いいじゃん。叶翔のこと、大好きなんだから」
口を尖らせて言う陽翔を見ていると、本当にこの人が人気バンドのボーカルなのかと疑いたくなる。そんな二人を見て、晴臣はまたため息をついた。
「それにしても、綾瀬くん。今日はめちゃくちゃかっこいいじゃん! その髪型、似合ってるよ」
親指を立てて褒めてくれる晴臣に、嬉しさと恥ずかしさが入り混じる。
「あ、ありがとうございます……」
「やっぱり綾瀬くんはイケメンだよね。ずっとその髪型にしなよ」
晴臣の言葉に陽翔がすかさず反応する。
「でしょ! 叶翔、絶対髪の毛上げた方が似合ってる!」
一般的に「イケメン」と言われるような二人から褒められると、なんだかその気になってしまう。
「気が向いたら……また、やってみます」
晴臣は満足そうに頷き、「あんまりベタベタしすぎるなよ」と言って去っていった。
こうして陽翔の横を歩き、みんなから「公認カップル」だの「かっこいい」だの言われるのは照れくさい。でも、それも悪くないと思える自分が、確かにここにいた。