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第13話 祝福の雨

 「ルナに手を出すなら、あたしが相手になるわ!」

と声を張った澪に、モンドは

「ならば居場所を教えろ!」

と返す。

「アリスの居場所はアタシも知ってる、でもアンタなんかに教える気は無い」

と、今度は詩応が言う。

「今度はアタシを粛清する気かい?禁断の聖女を匿う反乱分子として」

英語の挑発に、モンドは末端信者としての無知を嘆く。

「俺はやがて、教団を率いる身だ。お前らのような単なる信者とは違う」

詩応は呆れるだけだった。同時に、この一家の思惑を潰す、その意志を更に固める。

 「詩応さん……」

と言った澪は、ボーイッシュな少女を護れるようにと銃を軽く上に向け、全方位の音に意識を向ける。

「流雫……来るわよ……」

と言った澪は、指に冷たさを感じた。

 上空から落ちてくる雨粒は大きく、地表に在る全てに叩き付けられていく。そして、雷鳴が無機質な世界を揺らす。

 視界が煙る中、ヤジ馬と化していた集団は一瞬で散り散りになり、雨音のノイズだけが耳を支配する。

 「物騒なことだ、嘆かわしい」

と男の声が響く。黒い折り畳み傘を差した人が近寄るのが見える。

「オギ……!」

と先に反応したのはモンドだった。その隣に並び、

「ヴァイスヴォルフは使い物にならん。最初からお前と手を組んでいればよかった」

とドイツ語で言った小城に、モンドは

「そうだろう」

と不敵に笑う。

「モンジュは未熟だった。しかし一連の騒動の汚名を全て被ることになるから、最後に役立った」

と言い、投げ捨てた傘の代わりに銃を手にした小城に向ける澪の眼差しに、詩応は身震いする。

 屈服を知らない意志を露わにする刑事の娘、その目は戦女神を宿しているかのようだ。

 「そのために聖女アリスを殺そうとしたの!?」

雨音に掻き消されない澪の声が、無機質な建物に囲まれた渋谷に響く。それと同時に

「禁断だからと、死んでいいワケじゃない」

と、別の声が聞こえる。流雫だ。シルバーヘアの少年は足音を雨音に紛らわせ、小城を挟み撃ちにするかのようにその背後につく。

「……背振が認めた。お前が元凶だと」

と言った流雫は、銃を下ろしたまま小城を睨む。

「ツヴァイベルクと共謀して、日本でのアリス暗殺を企てる傍ら、ドクター三養基を殺そうとした」

「聖女暗殺は未遂に終わった、しかし三養基を殺すことは成功した。クローンの利権と功績を、一手に収めることができた」

と、流雫に続く澪。更に詩応が、英語でモンドに牙を向く。

「一方フランスでは、アンタの一家がマルティネスを殺害し、ヴァイスヴォルフも粛清しようとした。全ては妹のためではなく、己の名誉のため。ソレイエドールの名を穢して、それでも司祭一家かよ!」

 その様子が小さいながらも、フランス人3人の目に映る。一触即発寸前に、アルスは口角を上げた。全てをバカにするような目付きに、プリィとセバスは背筋が凍る。

 「モンドリヒト・ツヴァイベルク!」

とアルスが大声で叫ぶ。警戒を解かない女子高生2人はその方向を向く。

「……俺が日本に来た本当の目的は、太陽騎士団の弱体化。つまり……」

と言葉を切ったアルスは、手に持ったゲルをハンカチに塗り、セバスの顔に押し当てた。

「んむっ!!」

「アルス!?」

予想外のことに詩応が大声を上げる。だが、詩応に銃口が向く。その主は

「動くな」

とだけ言った。

 「流雫……!」

何がどうなっているのか、頭の整理が追い付かない澪の目は、混乱に満ちている。

「レンヌにいた時から計画していた」

と涼しい表情で言う流雫とアルスの目が合い、互いに不敵な笑みを零す。やがてハンカチから赤黒い雫が地面に零れ、セバスは俯せに倒れる。

「セバス!!」

プリィがその名を叫ぶが、すぐにアルスに腕を掴まれる。

「アルス!!」

詩応が叫ぶも、フランス人の少年はプリィの顔にもハンカチを押し当てる。

「いやぁっ!!ルナっ!!た……!」

自分すら裏切った幼馴染みに助けを求めながら、プリィは顔を赤く染めてその場に膝から崩れる。

「身代わりは死んだ。アリスも長くない。……聖女を失った太陽騎士団に、求心力を持った聖女候補などいない」

「クローンの件が引き金になり、太陽騎士団はやがて瓦解する」

とフランス語で言った2人に、それぞれ銃口が向く。

「アルス!アタシすら裏切ったのか!!」

怒りに満ちた詩応に続く澪は

「流雫!!どうして!!」

と泣き叫ぶ。彼の隣に相応しい存在であるべく、今まで必死に戦ってきた。それも全て水泡に帰す。

「あたしは、このために流雫を愛してきたんじゃない!!」

と叫ぶ澪は、流雫に銃を向ける。

 教会では敵だったアルスは、今やモンドにとっては好都合な男と化している。邪教でありながらハイリッヒ即位のチェックメイトを後押しした。聖女のオリジナルを殺すことは予想外だったが。

 後は小城と共謀してアルスを殺せばいい。後はルナと云う男も。

 ……殺意すら宿した詩応の目に映る少年は、死すら怖れていない。これが、教団のために命を捨てると云うことなのか。今までアリスやプリィを護ろうとしてきたことは、全てアルスの掌で転がされていただけのことなのか。

 詩応はただアルスに目を向けながら、頬を濡らす。それが雨だけでないことは、彼女を睨む少年も知っている。

 流雫は銃口を向ける澪に近寄りながら、銃を向ける。

 殺されようとしているのに、流雫を撃てない。それが澪の優しさで、弱さ。そのことを知り尽くしている流雫は、撃たれるワケが無いと判っている。 

「僕には僕の正義が有る」

と言う流雫の背後で、小城が不敵に笑うのが澪の目に映る。そして、手元の銃が2人に向けられる。

 何が起きたかは判らない、しかしまとめて撃ち殺し、混乱の元凶の罪を被せればよい。時折雷を伴う豪雨で、真相の目撃者はいない。

 これでモンドと小城は、完全なる勝利者となるのだ。

「……流雫……」

と、最愛の少年の名を声にしながら澪は、ブレスレットを揺らす手でその頬に触れる。

 ……命乞いしたいワケでも、彼に抱かれながら死にたいワケでも、油断する彼を殺したいワケでもない。殺したいのは、ただ一つ。怒りと悲しみの根源が抱える邪な思惑。

 流雫の手が、澪の手に重なる。怯えと命乞いが混ざる表情に、凜々しさが戻ってくる。

「……いくわよ」

と言った澪に、流雫の指が動いた。


 大きな銃声が1発。突然足を襲う痛みに顔を歪めたのは、数秒前まで勝利を確信していた男だった。スラックスの太腿に2つの穴が開き、血が滲んでいる。

「なっ……!?」

「オギ!?」

何が起きているのか判らないモンドは、小城から離れながらアルスに目を向ける。その生意気な微笑は、勝利宣言のように見え、苛立ちを誘う。

「シノ」

その言葉に呼応し、詩応は後ろを向く。親しいフランス人に向いていたハズの怒りの目は、今やモンドに向けられている。それと同時に、今度は小城の手から銃が跳ねた。

「くっ!!」

手足の激痛に屈し、無意識に細めた目は、恋人を裏切った少年の両脇に2つの銃口を捉えた。その瞬間、混乱と怒りが小城を支配する。

 流雫は後ろ向きにタイルを蹴りながらターンし、その勢いに乗って一気に間合いを詰め、そして腕を振った。

「がっ!!」

流雫が握っていた無機質な銃身が、小城の視界を激しく揺らす。足を撃たれていた小城には、身体を支えるだけの力は無い。後ろに2歩よろけ、そのまま背中から倒れた。

「ごっ……!!」

その背後から澪が駆け付け、小城を仰向けにすると腕を掴んで背中に回す。

「見事に引っ掛かるとはね……」

と澪は言い、膝で体重を掛ける。

 豪雨に掻き消される銃声は、小口径の銃の特性だった。そして2人は、それぞれの利き手から小城を狙った。

 反動が小さいとは云え、片手では外すリスクが有る。しかし、外すワケにはいかない。だから流雫の腰に腕を当て、安定させた。1人2発のセオリー代わりに2人で2発。しかしそれで十分だった。

 澪の前に出た流雫は、母アスタナに言われた言葉を思い出す。

「女神の手を放してはダメよ?」

……流雫にとってのただ1人の女神、その名は室堂澪。手を放すワケがない。


 モンドは流雫に銃口を向ける。小城が返り討ちに遭うのは、完全に予想外だった。

「テネイベールと同じ目をしやがって……」

そう言ったドイツ人が引き金を引くと、流雫のすぐ隣を銃弾が飛ぶ。

「流雫!」

詩応が声を上げ、モンドに銃口を向ける。しかし流雫は

「破壊の女神が破壊するのは、お前の思惑だ」

とだけ言った。

 アルスや詩応を通じて、太陽騎士団のことは少しばかり知っている。自分が教典上の破壊の女神なら、澪は創世の女神。流雫にはそう思える。そして詩応とアルスにも、そう映る。ただ一つ違うのは、破壊の女神は創世の女神の隣で、生きて平和を見届けることだ。


 流雫は、帰省中のレンヌでアルスが語った暗殺計画に乗った。そして、予想外の事態が次々と起きながらも、渋谷で最大のチャンスを手に入れた。

 アルスは、流雫が空港で目にした手口でプリィとセバスを殺した。2人を油断させるために、流雫を経由して澪や詩応を上手く使い、思い通りに引っ掛かった。

 女子高生2人にとっては裏切りでしかないが、小城とモンドには図らずもほぼ理想的な結末をもたらす。そして、裏切りから一触即発の事態に陥った4人の高校生に、同士討ちの自滅を期待した。

 ……勝利を掴んだ瞬間、人は油断する。そして、微塵も疑わなかった。この全てが、流雫がアルスとの短い通話中に練ったエチュードだったことを。2人の男子高生の掌で転がされていたことを。


 モンドが口角を上げる。先刻まで背振の近くに立っていたスーツの男が1人、モンドに近寄る。それは片手で上に銃を向け、引き金を引いた。

 大きな銃声が反響すると同時に、改札前に残るギャラリーは我先にと逃げ惑った。

 大口径の銃だが、反動に耐えている。

「……何だ……?」

と詩応が声を上げる。小城の後ろ首に銃を突き付ける澪は、流雫を見上げ

「まさか……」

と声を震わせる。その続きは、流雫も判っている。

「……駒……」

 今の発端となった騒動で、背振を殺すことができなかった場合に備えてのオプション。背振の護衛を装って近寄り、仕留める。ただ、出番は無かった。

 しかし今は、殺すべき敵ができた。小城とモンドに歯向かう異色の高校生集団。

 流雫は男を駒と言った。それが本当なら、役目が終わった時点で口封じされる。

「……しかし、どうしてそこまで」

と言った澪に、流雫は答えた。

「クローンだとすれば……」


 背振を撃った男は、見る限り流雫と同世代。そして、銃を手にする男も。ただ、大口径銃特有の反動を片手で抑えている腕力は、明らかに常人ではない。それが、小城が進めているクローンの成果だとするなら、合点がいく。

「持たせたのは生殖機能だけじゃない。多少の肉体強化も……」

「肉体……?」

と澪は言う。

「少し運動能力が高くて……。それでも僕からすれば超人だけど」

と言った流雫は、シエルフランスの機内で観たSF映画に、似たようなものが有ったことを思い出す。

 ……つまり、正攻法では勝てないことを意味する。だが、勝たないことは死ぬことを意味する。

 ……正攻法でなければ、勝てる。流雫の目には、生き延びる未来しか見えない。


 フランス人の少年は倒れた少女の前に膝をつき、

「……パルムドールでも狙うか」

と呟くように言う。プリィは

「カンヌで待ってるわ」

と言い返し、血糊で汚れた顔を少しだけ上げる。

 セバスは動かないが、開いた目は日本人3人がモンドに対峙する様子を捉えている。

「……見てろ。これが聖戦だ」

とアルスは言い、詩応に目を向けた。

「シノ!2人を頼む」

その言葉に詩応は

「ああ!」

とだけ返す。

 仮にプリィやセバスに牙を剥くなら、抑止力としての銃が必要。アルスは外国籍故に持てないから、詩応に任せるしか方法は無い。

 ……ムッシュ・エピュラシオンの息子であり、血の旅団を何よりも蔑む男。それが今、目の前に立ちはだかっている。自分をターゲットにしたいハズだ。

 ならば、俺が撹乱する……そう思ったアルスは、

「ルナ!」

と名を呼び、その隣へ走る。そしてモンドに目を向け、言った。

「お前にとっては悪夢だろうな」

 血の旅団信者の前に劣勢に立たされる、これほど屈辱的なことは無い。目の奥に殺意混じりの怒りが見える。

「此奴らに手を出せば、俺はお前を殺す」

「聖女候補を殺して今更何を」

「殺した?」

とアルスが言うと、プリィとセバスが起き上がる。顔の下半分を赤く汚しているが、それ以外はアルスに襲われる直前と何も変わらない。モンドの目には、ついに殺意が浮かび上がる。

 アルスはポケットから取り出したカプセルを前歯で挟み、一息に噛み切る。赤黒い液体が唇を汚す。フランス人2人の顔に当てたハンカチで、血らしきものを拭き取ったアルスは呆れ口調で言った。

「この程度の絡繰りに気付かないとはな」

 今朝流雫がガレットを焼いた後で、アルスはコーンシロップを手にした。澪の母美雪が洋菓子の材料として、室堂家のキッチンに置いていたものだ。それと着色料さえ有れば、口に含んでも平気な血糊を簡単に用意できる。

 使うことは無いだろうが、何かの時に備えて用意するのも悪くない、そう思ったのがきっかけだった。ただ、こうして活躍するとは思わなかった。逆に言えば、この程度のことに簡単に引っ掛かるほど、モンドはアリス失脚しか見ていなかった。

「……バカにしやがって……」

そう声を上げたモンドのすぐ後ろまで近寄る男。モンドはドイツ語で

「フランス人だけは殺して構わん。それ以外は殺すな」

と指示を出す。アルスは反射的に叫んだ。

「シノ!!」

唯一ドイツ語が判るフランス人に反応した詩応は、銃を構える。威力では不利だが、それが全てではない。

 ボーイッシュな少女に銃口が向いた瞬間、詩応は引き金を引いた。2発の銃弾は男の腕を掠める。震える手では掠めただけでも上出来だ。だが、スーツに血を滲ませる男は何事も無かったように銃を構え、4発撃った。詩応に掠りもしないが、痛みを感じず反撃できることが脅威だ。

「痛覚遮断……!?」

と詩応は呟く。それが聞こえていたかのように、流雫は

「肉体強化されてる!!」

と声を上げる。

「ただ、遮断にも限界は有るし、それが裏目に出る」

それが流雫の勝機だった。

 痛みの本質は危険信号。身体が危険を知らせ、無意識の防御反応を取らせようとする。それが遮断されることは、身体の危険を自覚できないと云うこと。異変を感じた時は、既に手遅れなのだ。

「……くっ!」

詩応は銃を構える。その勝機を忍びないと思っている、しかし生き延びるためだ。

「悪く思うな……」

と呟き、ボーイッシュな少女は引き金を引いた。

 大きな銃声を伴った2発の銃弾が、男のスーツの肩口に穴を開ける。一瞬で肩が赤黒く染まる。異常事態に漸く気付いた男は、しかし目を見開くだけで呻き声を上げず、そのまま地面に膝から崩れ落ちた。

 恐らくは助からない。しかし、先に撃ったのはこの男だ。アタシは何一つ悪くない。そう思わなければ戦えない。

 詩応は全方位に意識を向ける。

「シノ……!」

と名を呼ぶプリィに、詩応は言葉を返した。

「アタシは護る。アンタたちの明日を」


 モンドの気を逸らすべく動いたのは、アルスだった。

「やれるならやってみろ!」

と声を張り上げる生意気な18歳に、銃を向けるモンド。怒りと焦りに捕らわれる様は、アルスにとっては滑稽で、そして哀れだった。

 アルスが信仰する女神ルージェエールは経典上、悪魔ゲーエイグルに陵辱された挙げ句、混血のテネイベールを産み落とす。そして、ソレイエドールを護るために処刑を望み、拒まれたことで叛逆を演じ、処刑された。

 それは創世の女神の慈悲深さを強調するものではあったが、中にはその後のテネイベールによる混沌の元凶として、ルージェエールを断罪する解釈も有る。その持ち主こそツヴァイベルク家なのだ。

「邪教の傀儡の分際で!」

「馬鹿の一つ覚えかよ!!」

と言い返すアルスに気を取られるモンドは、澪と小城から離れていく。

 その澪に取り押さえられる小城は、抵抗を諦める。何処で何を間違ったのか。走馬灯のごとく蘇るクローンへの関与を拾ってみても、全てが遅過ぎる。

「殺人罪が有って助かったわね」

と生意気な口調で小城に告げる澪。法も正義も無ければ殺している……裏を返せばそうだ。刑事の娘らしからぬ言葉だが、澪も人間だ。

 気を緩めず全体重を掛け続ける澪は、唯一残った敵に目を向ける。

 「俺は予言する。ルージェエールとテネイベールが、ソレイエドールを蹂躙する悪魔を討伐する」

とアルスは言った。モンドは、その悪魔が自分であると受け取った。しかし、目の前のフランス人は丸腰だ。

 モンドはアルスではなく、シルバーヘアの少年に銃を向ける。

「ルナ!」

アルスが叫ぶと同時に、流雫は引き金を引く。モンドのスラックスに穴を2つ開けたが、血が滲まない。

「防弾……!」

流雫は呟く。スーツ自体が防弾仕様か。そうなると、流雫の小口径銃では足止めできない。

「流雫……!」

と無意識に反応した澪に、流雫は

「一つだけテが有る」

と言った。命を狙う覚悟で撃つしかない。本来、正当防衛ならそうしても構わないのだ。

 その瞬間、流雫に向けられた銃口が火を噴く。白いシャツの右胸に血飛沫が飛び、それがガンメタリックの銃身にも散る。精悍な顔を歪めるシルバーヘアの少年は銃を落とし、膝から崩れ落ち、そのまま右腕から地面に倒れた。

 「るっ……!!」

澪は小城から離れ、最愛の少年に駆け寄る。

「澪!」

咄嗟にその名を呼ぶ詩応は、彼女の代わりに小城に馬乗りになる。

「流雫ぁぁっ!!」

絶望の悲鳴が、雨粒を避けながら周囲のビルに反響する。

 ……流雫が撃たれたのは二度目。またしても、自分の目の前で。そして今、途切れそうな意識と戦っている。

 澪は流雫の前に膝を突く。

「流雫!流雫!」

何度も呼ぶが、少年は顔を歪めたまま手を地面に這わせる。それは澪ではなく、銃に向かっていた。

 「み……お……」

弱々しい声を上げながら手を伸ばす流雫は、血に濡れた銃身に触れる。しかし、腕はそこから動かない。

 澪は目を閉じ、乗り出した身体を力なく戻す。胸の前で両手を重ね、祈る。

 もう戦わなくていい、ただ流雫が生きていれば、何もいらない。美桜さん……流雫を助けて……!


 澪の悲痛に満ちた表情とは対照的に、モンドは

「次はお前だ、アルス・プリュヴィオーズ」

と宣言し、銃口を向ける。どう足掻いても、勝ち目は無い。

「……俺が殺されたところで、ソレイエドールは全てを断罪する」

と言ったアルスは、流雫と澪に目を向けない。……何も怖くない。

 モンドは、今度こそ勝利を確信した。ソレイエドールが断罪するのは、このモンドリヒト・ツヴァイベルクに牙を向けた馬鹿共だ。

 地面を打つ雨、そのノイズに勝る大きな銃声が鳴った。


 銃声が鳴ったと同時に、ドイツ人の白っぽい皮膚に赤い線が走り、痛覚の反応に歯を軋ませる。目の前には、表情を変えないフランス人。

「何……?」

と呟くモンドの目に、震える銃口が映る。その主は、小城に馬乗りになるボーイッシュな少女。その目は、殺意を帯びている。

「お前……!」

モンドがドイツ語を張り上げ、詩応に銃口を向ける。それと同時に

「アルス!」

と少年の声が響き、銃が宙を舞った。……日本人でなければ銃には触れないが、例外は有る。

 アルスはその場に跳び上がると手を伸ばし、握り締めていたハンカチをクッションに、重ねた両手を銃身に叩き付けた。突然軌道を変えた銃身は、モンドの額に激突し、地面に跳ねる。

「がっあ……!!」

脳を揺さぶられるような感覚を引き連れる激痛に、モンドは低い呻き声を上げて額を押さえる。その手には、粘性を持った赤黒い液体が絡みつく。

「ぐっ……ぐ……」

殺意と苦悶が混ざる顔が捉えたのは、涼しい顔で立ち上がる少年。撃たれて瀕死だったハズでは……?


 アルスは隣にいる流雫に、血糊カプセルを手渡した。雨で破れかけていたのは好都合だったが、銃声に合わせて銃のグリップに擦り付けて完全に潰し、掌に乗せてシャツに擦り付けた。

 撃たれたように見せ掛け、澪を近寄らせる。彼女の混乱は、モンドを油断させた。今し方ブラフを見せられたばかりだが、流雫のタイミングが秀逸だった。

 流雫が必死で銃を手にしたから、澪は泣きながら祈る……ように見せ掛け、少年の腕の軌道を空けた。そして流雫は、アルスに銃を託すべく、詩応の銃声をシグナルに自分の銃を放り投げる。

 ……銃に触ってはいけないが、飛んできた危険物を弾くのは身を護るための例外。そう解釈したアルスは、モンドに向けて銃身を殴った。

 幾重にも重ねたブラフが織りなす、世界一のチームプレイ。翻弄されたモンドにとって、最大の盲点だった。


 「カンヌに行くのは僕だ」

と言い、流雫は汚れたワイシャツを脱ぐ。トリコロールのTシャツが露わになると、微かに身軽になる。その隣には、瀕死の恋人にパニックを起こしていた少女が立つ。

「あたしもいっしょにね」

と言った澪は、再度モンドに険しい目を向ける。その後ろには、小城を取り押さえたままの詩応がいる。警戒は緩めない。そしてプリィとセバスは、その隣に寄る。

 「アリスは何処だ!?」

と声を張り上げたモンドに、アルスは答える。

「警察が保護している」

 アリスは今、病室で警察の取調べを受けている。大教会で撃たれたことが直接の理由だったが、彼女の警護には最適だった。

 教団から迎えが来ることは判っていたから、アリスとセブはプリィとセバスに全てを託し、隣の空き病室に身を隠していた。そして誰も、身代わりの正体に気付かなかった。

 「ヴァイスヴォルフの手下に、教会でアリスを撃つよう命令したのはお前だろ?だが撃たなければ、保護されることは無かった」

「アリスが撃たれても死ななかったのは、ソレイエドールの守護が有ったから。女神はお前ではなく、アリスを選んだ」

アルスに続いた流雫の言葉に、モンドの怒りは露わになる。しかし、今度は詩応が援護射撃に出る。

「今はクローンを認めない。でも時代は変わる。いずれ、手を差し伸べるべき時が来る。それが今と云うこと」

しかし、ドイツ人は今ここで引き返すことはできない。

 ツヴァイベルク家の名誉のためには、何としてでも再度東京の地から、アリスの宣誓を引き出さなければならない。そのためだけに、この極東の島国にいるのだ。顔に泥を塗った罪は重い。

 「聖女に手を出すなら、あたしが止めてみせるわ!」

そう言った澪を、モンドは標的に据えた。ボブカットの女を仕留めれば、残りを黙らせることができる。

 澪に銃を向けるモンドに、流雫は丸腰のまま言った。

「戦うなら僕だ」

銃弾は2人合わせて残り6発。詩応を合わせても7発。しかしモンドは防弾スーツを着る上、流雫の銃は地面に転がったままだ。

 誰がどう見ても不利。しかし、流雫には勝機しか見えない。


 小城の頭が左に動く。詩応から僅かに見える顔は、不気味な笑みを見せた。

「澪!」

小城の後頭部に銃を強く押し付けながら、詩応は咄嗟に叫ぶ。何か有る、そう直感したからだ。

 痛覚遮断、その言葉が澪の頭に蘇る。まさか。

「詩応さん!」

と声を上げた澪はモンドに背を向けると銃を彼女に向け、引き金を引く。

 詩応の手1つ分前を飛ぶ2発の銃弾は、膝立ちで銃を構えていた男の手首に刺さる。詩応も慌てて銃口を向けるが、澪は

「ダメ!!」

と叫んだ。

 詩応の銃弾は残り1発。今撃てば、小城への抑止力を失う。諦めたように見せ掛けて、未だ駒を隠し持っているのなら、使わせるワケにはいかない。それに、男の出血は既に夥しく、彼女が手を出すまでもない。

 男は最後に一矢報いたかったのだろう。しかし澪によって完全に潰えた。銃を手放し、自分の血の上に再度崩れ、培養ポッドで生まれた命を終えた。

 ……生き延びるためには仕方ない。しかし、この現実に至らしめた元凶への怒りが、限界を突破するのは時間の問題だ。

「流雫……後で慰めて」

と頬のマイクに向かって呟いた澪は、その背中を流雫に護られている。

「澪」

とだけ囁いた流雫に向けられる大口径の銃口。しかし、追い詰められているのはモンドだ。光を失わないオッドアイが、ドイツ人にとっては今この世界で最も忌まわしきものに見える。

 流雫の踵が浮くと、モンドはそれに反応した。足下を威嚇し、流雫の1歩を止める。その瞬間、今度はアルスが地面を蹴った。

 モンドは慌てて、銃を生意気なフランス人に向ける。しかしその手首を腕で弾くアルスは、右手を喉に当てると同時に踵で足を薙ぎ、モンドを後ろに倒す。

「ぐっ……!」

倒れたモンドは、再度アルスに銃を向けた。しかし、引き金に指を掛けるより早く、アルスの爪先が銃身を蹴飛ばす。

「がっ……!!」

不穏な音を発する手首の激痛に顔を歪めるモンド。持ち主の手から離れた銃はタイルに跳ねる。だが、モンドは胸ポケットから銃を取り出す。

「動くな」

モンドがアルスを銃で制する。流雫は丸腰だが、近寄ればアルスの身体に穴が開く。動けない。

「散々バカにされたが、これでチェックメイトだ」

銃口の向きを変えないまま立ち上がるモンドに、アルスは

「……そうだな」

と答え、両手を肩まで挙げて一歩ずつ下がる。

 ……今になって観念したか。額の痛みに抗うモンドはそう思いながら、後退りするアルスに勝利者としての目を向ける。

 アルスの踵に、金属の塊が触れる。それと同時に、雨音にサイレンの音が混ざり始める。ドイツ人が一瞬だけ顔を逸らす。その瞬間、モンドのチェックメイトは崩壊した。

 フランス人はその場にしゃがみ、ブーメランに似た金属を放り投げる。視界の端での動きに呼応した流雫は地面を蹴って跳び上がり、放物線を描く自分の銃に手を伸ばす。

 モンドは慌てて身体を向け、破壊の女神を連想させるオッドアイに銃口を向ける。だが、空中でグリップを掴み引き金に指を掛ける流雫の目的は、半分違った。

 膝を曲げた流雫の足元、その延長にはサイハイソックスを地面に濡らす少女が銃を構えている。澪は躊躇わず引き金を引いた。

 異なる方向からの4発の銃弾。正面からの最初の2発は銃身に弾かれたが、続く斜めからの2発は手首に刺さる。跳ねる銃口と戦っていたモンドは、激痛に銃を落として顔を歪める。

「ぁぁぁ……っ、くっ……そ……!」

手を血で汚しながら、モンドは澪を睨む。しかし、遅過ぎた。


 ……防弾生地のスーツから露出し、且つ命中しても命を断たれない場所。2人には、その答えは手首しか思い浮かばなかった。

 澪は流雫の背中に護られながら、モンドが最愛の少年に気を取られるのを狙っていた。流雫は澪の弾道のために膝を曲げた。そして、空中から狙ったのはモンドの手から露出する銃身だった。

 銃身、それも銃口の周囲に当てれば、その振動でグリップが滑り、銃を落とす。その可能性に賭けるしか無かった。そして澪は、流雫に意識が向いた瞬間を逃さなかった。

 何処かが一瞬でもズレれば、勝ち目は潰えていた。しかし、互いを知り尽くしているからこそのコンビネーションには、詩応もアルスもただ感心するばかりだった。

 銃弾を使い果たした澪はモンドに歩み寄る。そして、腕を振った。

 鈍い音が雨音を切り裂き、ドイツ人の視界が曲がる。手に走る痺れは、アリスがこの数日間で受けた苦しみを微かに物語っている……、少女にはそう思えた。

 モンドは、頬の痺れと戦いながら、ダークブラウンの瞳を睨む。しかし、それが抵抗の限界だった。

 サイレンの音が止まると、モンドは白旗を揚げた。

「……アリスは恵まれたな……」

とだけ言い残し、澪に背を向ける。

「信じるべき人を……信じたからよ……」

と言った澪の声は、雨音のノイズに混ざりながらも確かに聞こえた。

 聖女アリスは2人を信じた。聖女に信じられたから、それに報いたかった。だから流雫と澪は、モンドに屈しなかった。


 駆け付けた常願が、澪の目の前でモンドに手錠を掛ける。一瞬だけ娘に目を向け、怪我が無いことに安堵するとモンドを連れて遠離る。

 その近くでは、弥陀ヶ原が小城を逮捕した。抵抗しないのは、問われる罪をどう免れるか軽くするか、が喫緊の課題だからだ。

 連行される2人の背を見ながら

「……終わったのか……?」

と呟く詩応に、アルスは

「一応はな」

と答える。

 正しくは、一つの区切りが付いただけだ。この先は警察の領域、話を求められれば答えるが、真の結末は見守るしかない。

 その隣にプリィとセバスが寄る。安堵の表情を浮かべるセバスの隣で、聖女の衣装を身に纏う少女は、目の前で抱き合う2人を目に焼き付ける。戦いに生き延びた2人が、何よりも尊く見える。


 父の顔を見た瞬間、全てが終わったと思った。護りたかった人を、誰一人失わなかった。澪にとっての完全勝利、しかしそれは、後味としては最悪だった。母を失ったアリスを思えば、当然のことだった。

 怒りと悲しみと安堵。その全てを何も言わず受け止める存在に、澪は抱きついた。濡れた顔を肩に押し当て、交錯する感情を爆発させる少女。その慟哭を、流雫は頭を撫でながら受け止める。

 美桜を失ったこの地で、澪を失わなかったこと。誰一人失わなかったこと。それは、邪な思惑を倒したことより偉大なこと。肌を打つ無数の雨粒は祝福の花片……流雫にはそう思える。

「よくやったね、流雫」

と懐かしい声が聞こえた気がして、流雫は微かな声でその名を呼んだ。あの日この世界から切り取られ、2人を引き寄せた少女の名。

「……サンキュ、美桜」

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