仕事終わりの帰りの夜道。
冬の訪れを感じさせるような冷たい雨の降る中、傘をさして歩道橋を上がり切った瞬間。
目の前がチカッと眩しく光ったかと思うと同時に、膝の力が抜けて後方へとバランスを崩した。
ただ――それだけのこと。
手に持っていた傘が宙に舞う。
高速で流れていく視界に映るのは暗闇に包まれた世界と身体を打ち付けるように降る雨。
リズミカルに背中を襲う衝撃の中、その身は重力に
両の手の指に力を込め、背中側を打ちつけている段差を掴んで懸命に運命に抗おうとするも、雨に濡れた階段はその手に掴まれることを冷たく拒み、わずかに指先に抵抗を感じた瞬間には弾む身体がその指を無慈悲にも引き離す。
頭の中でうるさいほどのアラートが鳴り響く。
このままでは生命に重大な危険が及ぶと叫び続ける。
更に加速していく終わりへのカウントダウン。
心拍数が異常なほどに跳ね上がり、その鼓動を握りつぶさんばかりに心臓は強く締め付けられる。
やがて死への恐怖が思考を支配し――
――抵抗すること、生への執着、その全てを放棄した。
それは、僅か数秒の出来事。
人生は簡単に終わりを迎える。
それは運命という一言で片づけてしまってはあまりにもチープだが、当人にとってはこれ以上なくシンプルだ。
地面に力なく投げ出された四肢。声も出せず、何の音も聞こえない。
わずかな視界と思考だけが残された中でぼんやりと考える。
肉体が無くなり魂だけになったらこんな感じなのだろうか。
感じるものは何も無い。痛みも。焦りも。
最期を迎えることへの悲しみすらも。
命をつかみ取ろうと必死だった手足も、激しい衝撃を受け続けていた体も、まるでそこに無いかのようだ。
――まぶしいなぁ。
通り過ぎる車のヘッドライトを乱反射し、ステンドグラスの様に美しく輝く雨が、彼の視界に映る最期の景色だった。
やがて目に映る光は輝きを増し、その視界と、その思考の全てを眩いばかりの白で塗りつくした。
乾燥した熱風が吹き抜け、肌を焼くような強い日差しが降り注ぐ。
砂漠にいるかのように錯覚する天候の中、それに全くそぐわない分厚い黒のローブを着た十二人の男女。
その手には大きな魔石と呼ばれる魔力の詰められた石のついた杖を持ち、口々に異なる呪文のような言葉を発している。
彼らの中心の地面に描かれた複雑な紋様の魔法陣。
行われているのは召喚の儀式。
異世界の者を喚びだすには――特に強大な力を持つ者を喚ぶには膨大な魔力が必要となる。
杖の魔石にはこの国で過去400年に亘って蓄積された魔力が込められている。
つまり、前回の召喚の儀から実に400年ぶりの国亡を賭けた壮大な博打だった。
時が進むにつれ、それまでバラバラだった詠唱が一人また一人と重なりだし、それに合わせるかのように彼らの身体にも光が宿り、その杖の魔石も輝きが増していく。
やがて最後の一人が合流し、十二人全員で合唱のように呪文を唱えあげる。
それが契機だったのか、魔法陣は光を発しだし、描かれた紋様は立体的に浮かび上がり、徐々にその輝きを増していく。
そして最後の一文が唱え上げられると、ローブを着た者たちの身体が一際強く光り、魔力という名のエネルギーが魔法陣へと流れていった。
400年の永き時を眠り続けていた魔法陣は、今ようやくその起動に必要な量の魔力を受けて目覚めの時を迎えた。
集められた魔力は凝縮され、その純度を極限まで高める。
そして――魔法陣は歓喜の産声を上げた。
轟音と共に魔法陣より放たれた魔力の
すでに魔力を使い果たし、かろうじて立っていただけの十二人は抵抗することもなく弾かれるように吹き飛ばされる。
儀式の一部始終を固唾を飲んで見守っていたのはロバリーハート国が国王、ダミスター=ロバリーハート。
そして騎士、魔法士、弓兵で成る三百を超える親衛隊が周囲を取り囲んでいる。
ロバリーハート王は騎士がその盾となり、何とかその場に踏みとどまることができた。
――ズン!!
衝撃に耐えたと思った次の瞬間、全身を襲う耐え難い重圧。
「がっ……」
胸を押さえ膝をつく王とその騎士たち。
呼吸をすることすらままならず、直接心臓を握られているかのような恐怖にすぐにでもその場から逃げ出したい衝動に駆られる。
周囲の他の兵たちも同様で、ほとんどの者がそのプレッシャーに耐えることが出来ずに立っていることが出来なくなっている。
しかし、それでいて誰もが魔力を吐き出し続ける魔法陣から目を離せずにいた。
皆解っているのだ。
今自分たちが感じている圧は、魔法でもスキルでも何でもなく――存在しているだけ。
ただそれだけのことで、精鋭中の精鋭たる親衛隊の自分らに恐怖を感じさせるだけの圧を与えることの出来る、そんな想像を超えるような危険なナニカが、今――その中に居るのだと。
この場には騎士として身を賭してでも護らねばならない王がいる。ならば、いかなるモノが相手であろうと自分たちの王に害をなす可能性のあるモノから目を離すことは出来ない。ましてや王を護ることなく意識を失い倒れるなど騎士としての死と同義であると、数々の死線を潜り抜けてきた魂が叫び、騎士たちの意識をぎりぎりのところで踏みとどまらせていた。
荒ぶる魔力の流れは徐々に落ち着きだし、その光を弱めていく。
そして、完全に活動を終えた魔法陣の中心に居たのは――
――一糸纏わぬ全裸姿の男だった。