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*9* 悪夢から醒めるとき ノアSide


 はじめから孤独だったら。

 血も涙もないどん底にいたなら。

 そうすれば、こんなにも苦しむことはなかっただろう。


「こんなところにいたのかい。見つけたよ」


 どんなに辛くて、苦しくて、死んでしまいたくなっても、俺の記憶の奥底には、晴れた空みたいなまぶしい日々があった。


「おなかが空いただろう? ごはんにしよう。おいで、ノア」

「うん、おとうさんっ!」


 木にのぼったやんちゃ坊主を叱ることもなく、飛びおりたら抱きとめてくれる、やさしくて力強い腕があった。


「おっと! またおっきくなったんじゃないか? ノアは、お父さんに似て背の高いイケメンになるぞ~」

「きゃははっ!」


 春の陽だまりみたいに笑う父さんのことが、俺は、大好きだった。


 大好きで、大好きで……愛されていたからこそ、うしなったときの哀しみが、絶望が、いまでもなお、俺を苛んでいる。



  *  *  *



「おや、もうひとりで絵本が読めるようになったのかい」

「えへへ。おとうさんが、ねるまえによんでくれるから!」


 物心ついたときから、父さんとふたり暮らしだった。


 父さんはのんびりとした性格だったけど、頭がよくて、俺にいろんなことを教えてくれた。


 おかげで五歳になるころには、ひととおり読み書きができるようになっていたくらいだ。


「ねぇ、おとうさん……」

「うん? どうしたんだい。元気がないけど」

「ひろばにきてたかみしばいやさんが、『てんしとあくま』のおはなしをしてたの……『てんし』は、かみさまにかわいがられてて、『あくま』は、わるいやつなんだって……」

「それが悲しかったの?」

「だって、だって……『あくま』には、ぼくとおんなじ『はね』があったよ。ぼくも、わるいこなの……? だから、ぼくがうまれたかわりに、おかあさんが、よぞらのおほしさまになっちゃったの……?」


 同年代のこどもと比べて、感受性が強かっただろう。無意識に、何度父さんを困らせたか知れない。


 だけど父さんは、俺の前で困った顔ひとつしなかった。


「『悪魔』が悪いやつなんて、そんなのはおとぎ話の中だけだよ。ノアは、いい子だ」

「ほんとに?」

「うん。だから、悲しまなくていい。ゆっくりおやすみ」


 にっこり笑って、おでこにキスして、俺を抱きしめて眠ってくれた。


 ……あのころは、しあわせだった。



  *  *  *



「神殿の彼奴きゃつらが、聖女をかどわかした悪魔を血眼になってさがしておるようだ」

「……そうですか」


 ある夜、なんだか目が冴えて、ベッドから起き出した。


 いつも添い寝してくれているはずの父さんがいなくて、寝室から抜け出したら……みつけた。


 蝋燭の明かりがゆらめくテーブルで、女のひとと向かい合っていた。『えらいひと』だ。


 彼女のうしろには、付き人の女性が控えていた。


「クロウよ。一族のためを思うならば、そなたのすべきことは心得ておるな」

「なにをおっしゃっているのか、わかりませんね」

「息子を差し出すのだ。半分は聖女の血を引いている。連中も殺しまではせんだろう」

「ノアに、次世代の聖女を産ませるための種馬になれと? ──冗談もほどほどにしていただきたい」


 思わず悲鳴をあげそうになって、なんとかこらえた。


 こんなにもぞっとする……怒った父さんの声を、聞いたことがなかったからだ。


「ノアは僕の息子です。こどもを産ませる道具ではありません」

「言ってくれるじゃないの……七つにもなって性徴のない落ちこぼれの使い道なんて、それくらいしかないのに!」

「アドリーシャ、聞こえなかったか。ノアは道具じゃない。『使い道』だなんて言葉は適切じゃない。それがわからないようなら、僕と君は一生わかり合えない」

「あり得ない……あなたこそ異常よ、クロウ……たかだか人間の女を、それもたったひとりを愛するなんて、はしたないわ!」

「僕のことならなんとでも。でも、彼女とノアのことを悪く言うようなら、ただじゃおかないよ」

「っ……堕ちるところまで、堕ちたわね……好きにすればいいわ!」


 夜を引き裂くような金切り声に、父さんは動じない。


 俺とおなじサファイアの瞳で、向き合ったふたりを、じっと見据えるだけだ。


「聖女を手篭めにしたのは評価するが……能天気に子育てをしている場合ではないぞ。われら一族は男が産まれにくい。くわえて、女も子を孕みにくくなった。そなたが種をまかなければ、遅かれ早かれ、一族は滅ぶ」

「滅ぶか、滅ぼされるか、ですか。望むところですよ。結末ってやつを、見届けてやります」

「女とまぐわって英気をやしなえば、そなたひとりで、神殿の彼奴らを皆殺しにできように」

「いまは亡き彼女への裏切り行為です。いかなる理由があろうとも、不義密通はいたしません」

「……酔狂なことよの」

「おかまいなく。ノアは、僕が守ります」


 父さんがなにを話しているのか、なにが起きようとしているのか、こどもの俺にはわからなかった。


 ……無知で無力な俺は、いそいでベッドに戻って、なにも見なかったフリをすることしか、できなかったんだ。



  *  *  *



「──見つけたぞ! 聖女さまを慰みものにした悪魔め! 死をもって償うがいい!」


 それから数ヶ月後、平和だった日々が突然壊される。


 あたり一面は、赤、赤、赤。


「走れっ、ノア!」

「おとうさん! やだ……やだぁ!」


 どす黒い煙の立ちこめる夜を、血のように真っ赤な炎が煌々と照らしている。


 どんなに泣きじゃくって、すがりついても、父さんは声を張り上げて、俺を引き離そうとするんだ。


「行きなさい! 絶対に、立ち止まるな!」

「おとうさん、いやだ、おとうさぁあんっ!」


 突き飛ばされるようにして、訳もわからず泣き叫びながら、がむしゃらに走り出す。


「立ち止まるな……どんなに辛くて、苦しくても、諦めるな。『悪魔』じゃなくて、ノアのことを見てくれるひとが、きっといるから……」


 大好きな笑顔を、真っ赤な怪物が飲み込んでゆく。


 なにもかもを失ったあの夜のことを、何度も何度も、夢に見る。


 俺が産まれたときから独りだったなら、こんなに哀しいことはなかっただろう。


 物心ついたときから理不尽の中にいたなら、感情というものに乱されることはなかっただろう。


「負けるな。幸せに、なるんだよ……ノア。愛してる……」


 ……愛されたから、独りでいるのが、死にたくなるくらいに寂しいんだ。


 この心のすきまを、一体だれが埋めてくれる……?


 いや、そんな存在なんか、現れるわけない……



「きみ、こんなとこで寝てたら風邪引くぞ? 起きろー、おーい」



 現れるわけ、なかったのに。


 きみは、落ちこぼれで独りぼっちの俺を、見つけてくれたよね。

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