はじめから孤独だったら。
血も涙もないどん底にいたなら。
そうすれば、こんなにも苦しむことはなかっただろう。
「こんなところにいたのかい。見つけたよ」
どんなに辛くて、苦しくて、死んでしまいたくなっても、俺の記憶の奥底には、晴れた空みたいなまぶしい日々があった。
「おなかが空いただろう? ごはんにしよう。おいで、ノア」
「うん、おとうさんっ!」
木にのぼったやんちゃ坊主を叱ることもなく、飛びおりたら抱きとめてくれる、やさしくて力強い腕があった。
「おっと! またおっきくなったんじゃないか? ノアは、お父さんに似て背の高いイケメンになるぞ~」
「きゃははっ!」
春の陽だまりみたいに笑う父さんのことが、俺は、大好きだった。
大好きで、大好きで……愛されていたからこそ、
* * *
「おや、もうひとりで絵本が読めるようになったのかい」
「えへへ。おとうさんが、ねるまえによんでくれるから!」
物心ついたときから、父さんとふたり暮らしだった。
父さんはのんびりとした性格だったけど、頭がよくて、俺にいろんなことを教えてくれた。
おかげで五歳になるころには、ひととおり読み書きができるようになっていたくらいだ。
「ねぇ、おとうさん……」
「うん? どうしたんだい。元気がないけど」
「ひろばにきてたかみしばいやさんが、『てんしとあくま』のおはなしをしてたの……『てんし』は、かみさまにかわいがられてて、『あくま』は、わるいやつなんだって……」
「それが悲しかったの?」
「だって、だって……『あくま』には、ぼくとおんなじ『はね』があったよ。ぼくも、わるいこなの……? だから、ぼくがうまれたかわりに、おかあさんが、よぞらのおほしさまになっちゃったの……?」
同年代のこどもと比べて、感受性が強かっただろう。無意識に、何度父さんを困らせたか知れない。
だけど父さんは、俺の前で困った顔ひとつしなかった。
「『悪魔』が悪いやつなんて、そんなのはおとぎ話の中だけだよ。ノアは、いい子だ」
「ほんとに?」
「うん。だから、悲しまなくていい。ゆっくりおやすみ」
にっこり笑って、おでこにキスして、俺を抱きしめて眠ってくれた。
……あのころは、しあわせだった。
* * *
「神殿の
「……そうですか」
ある夜、なんだか目が冴えて、ベッドから起き出した。
いつも添い寝してくれているはずの父さんがいなくて、寝室から抜け出したら……みつけた。
蝋燭の明かりがゆらめくテーブルで、女のひとと向かい合っていた。『えらいひと』だ。
彼女のうしろには、付き人の女性が控えていた。
「クロウよ。一族のためを思うならば、そなたのすべきことは心得ておるな」
「なにをおっしゃっているのか、わかりませんね」
「息子を差し出すのだ。半分は聖女の血を引いている。連中も殺しまではせんだろう」
「ノアに、次世代の聖女を産ませるための種馬になれと? ──冗談もほどほどにしていただきたい」
思わず悲鳴をあげそうになって、なんとかこらえた。
こんなにもぞっとする……怒った父さんの声を、聞いたことがなかったからだ。
「ノアは僕の息子です。こどもを産ませる道具ではありません」
「言ってくれるじゃないの……七つにもなって性徴のない落ちこぼれの使い道なんて、それくらいしかないのに!」
「アドリーシャ、聞こえなかったか。ノアは道具じゃない。『使い道』だなんて言葉は適切じゃない。それがわからないようなら、僕と君は一生わかり合えない」
「あり得ない……あなたこそ異常よ、クロウ……たかだか人間の女を、それもたったひとりを愛するなんて、はしたないわ!」
「僕のことならなんとでも。でも、彼女とノアのことを悪く言うようなら、ただじゃおかないよ」
「っ……堕ちるところまで、堕ちたわね……好きにすればいいわ!」
夜を引き裂くような金切り声に、父さんは動じない。
俺とおなじサファイアの瞳で、向き合ったふたりを、じっと見据えるだけだ。
「聖女を手篭めにしたのは評価するが……能天気に子育てをしている場合ではないぞ。われら一族は男が産まれにくい。くわえて、女も子を孕みにくくなった。そなたが種をまかなければ、遅かれ早かれ、一族は滅ぶ」
「滅ぶか、滅ぼされるか、ですか。望むところですよ。結末ってやつを、見届けてやります」
「女とまぐわって英気をやしなえば、そなたひとりで、神殿の彼奴らを皆殺しにできように」
「いまは亡き彼女への裏切り行為です。いかなる理由があろうとも、不義密通はいたしません」
「……酔狂なことよの」
「おかまいなく。ノアは、僕が守ります」
父さんがなにを話しているのか、なにが起きようとしているのか、こどもの俺にはわからなかった。
……無知で無力な俺は、いそいでベッドに戻って、なにも見なかったフリをすることしか、できなかったんだ。
* * *
「──見つけたぞ! 聖女さまを慰みものにした悪魔め! 死をもって償うがいい!」
それから数ヶ月後、平和だった日々が突然壊される。
あたり一面は、赤、赤、赤。
「走れっ、ノア!」
「おとうさん! やだ……やだぁ!」
どす黒い煙の立ちこめる夜を、血のように真っ赤な炎が煌々と照らしている。
どんなに泣きじゃくって、すがりついても、父さんは声を張り上げて、俺を引き離そうとするんだ。
「行きなさい! 絶対に、立ち止まるな!」
「おとうさん、いやだ、おとうさぁあんっ!」
突き飛ばされるようにして、訳もわからず泣き叫びながら、がむしゃらに走り出す。
「立ち止まるな……どんなに辛くて、苦しくても、諦めるな。『悪魔』じゃなくて、ノアのことを見てくれるひとが、きっといるから……」
大好きな笑顔を、真っ赤な怪物が飲み込んでゆく。
なにもかもを失ったあの夜のことを、何度も何度も、夢に見る。
俺が産まれたときから独りだったなら、こんなに哀しいことはなかっただろう。
物心ついたときから理不尽の中にいたなら、感情というものに乱されることはなかっただろう。
「負けるな。幸せに、なるんだよ……ノア。愛してる……」
……愛されたから、独りでいるのが、死にたくなるくらいに寂しいんだ。
この心のすきまを、一体だれが埋めてくれる……?
いや、そんな存在なんか、現れるわけない……
「きみ、こんなとこで寝てたら風邪引くぞ? 起きろー、おーい」
現れるわけ、なかったのに。
きみは、落ちこぼれで独りぼっちの俺を、見つけてくれたよね。