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*13* 解けない問題、叶えられなかった夢

 空が蒼く澄みわたった昼下がり。


 黒いレンガ造りの建物内で、エントランスのらせん階段をのぼると、2階は憩いのフロア。


 冒険者たちがひと息つくカフェテリアと、各地の魔導書や文献、娯楽用の絵本や小説が集められたライブラリーがある。


 ──インキュバスの尾、とくにスペード型の中心部分は、敏感な性感帯のひとつです。


 ──もしインキュバスに襲われそうになったら、ここにあるくるみ大のすこし硬い箇所を強く押しつぶしましょう。


「『前立腺を刺激するのと同等の性的快感を与え、インキュバスを前後不覚に陥らせることができます』……られる前にれってこと?」


 何分、人間専門の薬術師をやってきたもので、淫魔の生態についてはちょっと存じ上げなかった。


 著者がどうやって検証&どんな心境で執筆したのか激しく謎な文献を、苦笑しながらそっと本棚へ押し戻す。


 そのタイミングで、く~きゅるる、と空きっ腹がさびしげに鳴いた。


「さすがにおなか空いたよー……」


 今日は、冒険者に義務づけられている半年に一度の健康診断があった。


 血を抜いてわかるのは血糖値とか中性脂肪の数値じゃなくて、魔力量とかそういうファンタジー世界ならではの項目なんだけど、なんていうか、癖でね、朝ごはん抜いたんです。


 だいじだよね、早朝空腹時。


 健診も終わって、午後はオフだし、時間はたっぷりある。


「まずはランチにして、そのときにノアと……よし」


 腹は決めた。あとは実行するだけだ。


 静かな館内で邪魔にならないように、そうっとあたりをさがして回る。


 1時間半ほど前に別れたノアは、ライブラリーの最奥にある読書スペースにいた。


 おなじみの黒ローブ。室内だけどフードをまぶかにかぶった後ろすがたは、「話しかけるな」とでも言わんばかりの寒々しさだ。


 他者を寄せつけないあの子の周辺は、本当に気温が2、3度低い気がする。


 近づいて観察してみれば、テーブルに分厚い本を何冊も積み上げ、右手には羽根ペン。


 手もとには、びっしりと書き記された便箋が散らばっている。ポルプの木から作られた紙製品で、安く手に入るから、ノート代わりにたくさん買ってあげたんだよね。


 カリカリカリ……


 羽根ペンの先が紙の繊維を引っかく音は、心地よくて好きだ。


 黙々と黒いインクの文字を追うサファイアの目もとも、涼しげで魅入ってしまう。


 ノアって、黙ってるとクール系美少年なんだよなぁ。


「や、おまたせ」

「……リオ!」


 反射的に腰を浮かせたノアに向かって、立てた人さし指を、しぃ、と唇へ添えてみせる。


 ノアが気恥ずかしげに座り直すと、わたしも椅子を引いて、右隣に座った。


 会話は、内緒話をするみたいにひそめた声で。


「熱心にお勉強してたみたいだね」

「魔法式を書いてた。1回書いたら、大体覚えられるから。そこのは読み終わったやつ」

「これぜんぶ? すごっ……!」


 テーブルに積まれていた本は5冊。火、風、土、雷、水魔法の魔導書だ。


「インプットはしたから、あとは実践でアウトプットするだけ」


 サラッと口にしてるけど、ノアくん、それ、デキるひとの言葉です。


 駆け出し魔術師のはずなのに、初クエストでマンドラゴラを電撃で丸焦げにした実績のあるノアだから、すごく説得力がある。


 そんな天才少年は、6冊目、治癒魔法の魔導書をひろげて、格闘の真っ最中みたいだった。


 わたしはちょっとだけ身を乗り出すと、人さし指でとんっと便箋の端を叩いてみる。


「ここの行、計算間違ってる。10倍するところが、100倍になってるよ」

「えっ……あ……ほんとだ」

「桁がひとつ違うと大変なことになるから、魔法薬の投与量計算は何度も見直して、正確にね」

「返す言葉もない……」

「あと、ポーションの治療効果を高めるここの設問だけど。10倍に濃縮させたいときは、魔法薬と治癒魔法の比率は、1対10じゃなくて、1対9だからね。低級ポーションの場合、ポーション原液1本に対して、初級の治癒魔法を9秒間かけるのが正解」

「そうなのか……そのへんの考え方が難しくて、よくわからなかったんだ。教えてくれてありがとう」

「いえいえ。それが薬術師のお仕事ですから」


 薬術師は、魔術師から派生した特殊職業クラスだ。


 魔術師を目指す人は多いけど、魔法薬学に関心をもつ人はまわりにいなかったんだよね。


 私もついうれしくなって、口出ししちゃった。


「ノアも薬術師とか、回復師になりたいの?」

「うん、それができたらよかったんだけど……俺、治癒だったり補助魔法をあつかうのは、魔力の性質的に向いてないみたいだ」


 たしかに、わたしが目にした限りでも、ノアは魔力量が膨大かつ、攻撃魔法に向いた性質だったように思う。


 魔力消費の多い上級攻撃魔法をバンバン撃ちまくって、モンスター討伐クエストのメインアタッカーになれるくらい。


「『やりたいこと』と『できること』は違うんだな。それなら俺は、俺の魔力ちからは、リオを守るために使うよ。もう二度と……俺のたいせつなものを、奪わせない」


 そう言葉にするノアのまなざしは、どこまでもまっすぐだった。


「なぁんて。ははっ、なんか、じぶんで言ってて照れてきちゃった。えっと、あんまり治癒魔法が使えなくても、知識があったらリオのお手伝いができるかもしれないでしょ? だから、勉強はしたい。リオにききたいこと、いっぱいある。いっぱい、教えてほしいな」


 やりたいことができなくても、ノアは悲観していない。


 おなじ薬術師になれなくても、隣に立っておなじ景色を見ることはできるんだって、前を向いてる。


 心根からまっすぐで……純粋な子だ。


 はにかむ澄んだサファイアの瞳を前にして、無性に、泣きたくなってしまった。


「ね、きいてもいい? リオの夢はなに?」


 いろいろこみ上げてきちゃってるときに、その質問は反則で。


「わたしにはね、みんなの度肝を抜くようなすごい薬を作って、世界中の人をしあわせにする野望があるんです!」


 おどけながら口にしたのは、そうです、白状しましょう、照れ隠しです。


 前世ではやり遂げられなかったこと。


 志半ばで一度は折れてしまった夢を、今度の人生では、叶えたい。


 それがわたしのやりたいことなんだって、いままで信じてやってきたんだ。


「どうして?」

「えっ?」

「リオは回復師でもあるんだよね。おなじ治療師ヒーラーでも、どうしてリオは、薬術師の仕事をしてるの?」


 ……信じて、やってきたのに。


 わたし自身すら疑問に思わなかったことに、ノアは首をかしげる。


「リオが作ったポーションは、リオのところから直接買われないことだってあるでしょ。ギルドの魔法薬店で、ほかのポーションとおなじように棚に並べられる。直接ありがとうを言われないことだってあるのに、なんでリオは、顔も知らないだれかのために薬を作り続けるの?」


 変な意味合いはなくて、これはノアの、素朴な疑問だ。


「そりゃあ……魔力量がアレですし。回復師としてパーティに入れてもらっても、お荷物になるだけだからね。わたしは現場に向いてないんだよ」

「じゃあ魔力がいっぱいあったら、リオは回復師のほうをやりたい?」

「……それは」


 考えたこと、なかった。


 ……いや。ずいぶん昔に、考えるのを諦めたことだ。


「なんとなく、なんだけど……リオを見てて、思ったんだ。リオ、ほんとうにやりたいこと、がまんしてないかなって」

「……それをきいて、どうするの?」

「俺がすることなんて、決まってるよ。いつも言ってるでしょ? 『リオの役に立ちたいんだ』って」


 ノアはほんとうにいい子だ。こころから、そう思ってくれてる。


 無垢な笑顔で、わたしの戸惑いに、踏み込んでくる。


「リオ、俺を使ってね。俺がリオの夢を叶えてあげる」


 ノアの言っていることは、抽象的で、よくわからない。


 解けない難題を突然出されたときみたいに、思考が停止する。


「あれ、ポカンとしてる。ふふ、可愛い。大丈夫だよ、すぐにわかる。だろうから」


 いまこのとき、ここでは、ノアの時間だけが動いてる。


 テーブルへ置きっぱなしになっていた左手に、するり……と指が絡んだ。


「ねぇリオ、おなか空いちゃった。今日はいっぱい……食べてもいい?」


 フードの影でほんのりとほほを染めたノアは、そう言ってなぜか、わたしについばむようなキスをした。



  *  *  *



 翌日、宿の部屋に1通の手紙が届く。



【測定結果】

・魔力質 A(前回値 A)

・魔力量 C(前回値 E)


 総合評価 B(前回値 C)



 以上、今回の健康診断における魔力項目の総合評価がB評価に達しましたので、『ギルド認定薬術師ライセンス』発行基準を満たします。


 ライセンス発行をご希望の場合、期日までに冒険者ギルドの専用窓口へお越しください──

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