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*17* 黒馬の王子さま

「馬は、急に動いたり、大きな声を出したりすると、びっくりしてしまいます。怖がらなくて大丈夫。ゆっくり近づいて、まずはくびをなでてあげてくださいね」


 見晴らしのいい草原で、ふたりと1頭。


 お馬さんとのはじめてのふれあいにおっかなびっくりしていたわたしも、いまや馬上の人だ。


「わ、思ったより高い……けど、すごくながめがいいですね……!」

「でしょう? 馬車にこもっているより、風と景色を楽しみながら駆けているほうが、案外酔わないんですよ」


 くらにまたがったのはわたしで、そこから左右にさがった吊革みたいな足場(あぶみというらしい)に足を置いているのも、わたし。


 このおかげで足もぶらぶらにならず、体勢も安定してる。


 エルは、後ろでわたしを支えてくれている。鞍を譲ってくれたから不安定なはずなのに、両足で馬の胴をきゅっとはさんで、まったくからだの軸をブレさせなかった。なんて体幹。


 手綱はもちろん、エルがにぎっている。まだ慣れないわたしのために、馬を軽く歩かせてくれていた。


(馬のあつかいに慣れてるし……『これ』も、本物、だよね……?)


 そっと左の足もとへ視線を落とせば、馬の歩みに合わせて金属音を立てている『それ』が目に入る。


 エルの腰の左側にさげられた、細身の剣だ。柄も鞘もまぶしい白銀色。


 わたしをひょいっと軽々押し上げて、馬にまたがらせてくれたことからもわかる。エルは、華奢なわりに力強い。それなりに鍛えてるんじゃないだろうか。


 イケメンでやさしくて、颯爽と馬を乗りこなして、その上剣でモンスターをバッタバッタとなぎ倒されたりなんかしたら、最強すぎてだれも太刀打ちできないんじゃ?


「エルは、王子さまだった……?」

「はい?」

「わたしの住んでた世界ばしょでは、王子さまは白馬に乗ってやってくるって相場が決まってるんです。この子、黒馬ですけど」

「おやおや……ばれてしまっては、しかたないですね」

「マジで王子さまだったっ……!?」

「なんてね。ふふっ、冗談です」

「なぬっ……!」

「リオは見ていて楽しいですね」

「もしかしてわたし、遊ばれてる……?」


 もしかしなくても、そうだ。頭上からくすくす笑い声が聞こえるもん。


「あなたにとっての王子さまになりたいとは、いつも思っていますよ?」

「まーたそういう台詞をサラッと……エルって物好きですよね。わたしみたいなのを相手にして、なにが楽しいんだか……」

「……リオ」


 おだやかなひびきは変わらないままに、わたしを呼ぶエルの声音が、半音低くなる。


「あなたはほんとうに……じぶんの価値が、わかってないんですね」

「わたしの価値……?」

「『じぶんを安売りするな』と言ったのは、あなたじゃないですか。あの日、あなたに『キャンディ』をもらって、僕がどれほどうれしかったか、知らないでしょう」

「……エルだけじゃなくて、ほかにもいろんな人にあげてましたよ」


『お菓子配り』は、男娼の誘いをかわすためにやっていたことだ。


 じぶんの身を守るためで……ついでに、性病にかかって苦しむひとも減ってくれたら、いいなって。


「あなたにとっての僕は『その他大勢』でも、僕にとってのあなたは『唯一のひと』だ」

「っ……」

「あなただけなんです。地を這いずりまわる僕に手を差し伸べてくれたのは、あなただけ……だからあなたは、僕にとっての『特別』なんですよ、リオ」


 流れる景色がいつの間にか止まっていて、静止した馬上で、ぎゅっとからだが密着する。


「リオの言うとおり、髪を切りました。そうしたら、いろんなことがガラッと変わったんです。見える景色が、世界が変わった」


 背後にいるエルをふり返ることは叶わない。


 なのに、耳朶にふれるささやきが、甘く切ない表情をしたエルを想像させてしまうんだ。


「それからご縁があって、僕は高貴なお方の目にとめていただきました。カーリッド家を取り仕切る奥さまの、愛人になったんです」

「それは……」

「奥さまと僕のあいだに、愛はありません。ただ、たがいの利害が一致しただけのこと。かりそめの関係です。僕は奥さまの望むものをわたす代わりに、地位を得ました。……軽蔑しますか? 手段をえらばない狡猾な僕を……穢らわしいと思いますか? 不特定多数の女性と肉体関係をもった僕を……」


 エルの問いへ、すぐに答えることができない。


 簡単に見つかる言葉じゃ、だめなんだと思う。


「……軽蔑なんて、しません。だれかが一生懸命に生きてきたすがたを笑うのは、しちゃいけないことです。エルがどんな思いで、どうやって生きてきたか、すべてを知ったわけじゃないですけど……」


 でもね、わたしが手を差し伸べたことで、彼の人生が変わったのなら。


「エルの毎日が、前よりも楽しくなったなら、わたしもうれしい。それはたしかです」


 わたしの薬が、だれかの力になれたんだって証だから。


 さぁっ……


 そよ風が吹き抜けて、すこし。


「……そんな殺し文句は、反則ですよ。このままさらいたくなっちゃいます」

「エル……?」


 名前を呼ぶと、返事の代わりに、ちゅ、とつむじにキスを落とされる。


「心の清らかなひと。堕ちた僕にほほ笑んでくれた、たったひとりの女神──僕の愛しいリオ。あなたのためなら、僕はどんな悪者にだってなれるんです」


 熱に浮かされたように、独りごちるエル。


 それはどういうこと? エル。


 問いかけようとした言葉は、声にはならない。



「──『スパーク』」



 バチィンッ!


 突然頭上で飛び散ったショート音に、ぎょっとしてしまったから。


「えっ、なにっ、なんなの!?」

「ヒィーンッ!」

「きゃっ……!」


 火花の音にびっくりしたのは、わたしだけじゃなかった。


 ぶるっと身ぶるいをした馬が、跳ねるように前足を持ち上げたんだ。


 ふわっと浮いた感覚に身のやりどころがわからず、頭が真っ白になる。


「──落ち着いて」


 耳のすぐそばで、静かな声が聞こえた。


 のけ反るわたしを胸で受けとめたエルが、手綱をゆるめる。


「どう、どう」


 エルは馬にやさしく声をかけながら、手綱を左右交互に軽く引いていた。


 立ち上がる寸前だった馬がすぅっと興奮をおさめ、やがて落ち着きを取り戻す。


「大丈夫ですか? リオ」

「……は、はい……」


 なにもかもが、一瞬のことだった。


 もしエルがいなかったら。その先を想像して、ドッドッドッと、動悸が止まらない。


「いつまでもベタベタと……リオに馴れ馴れしくするなって言ってるだろ!」


 自由に歩かせた馬がくるりと半周したとき、ネイビーのローブが目に入った。


 ノアがこっちを……馬上のエルを睨みつけている。


 その顔の横で掲げられた右手は指を打ち鳴らしたポーズで、パチパチとこまかな火花をはじけさせていた。


「初級の雷魔法ですか。おどかす程度ならちょうどいいでしょうけれど……」


 ぐっと手綱を引いたエルが、ノアの目前で馬を立ち止まらせた。


「馬は臆病なんです。パニックを起こさせて、彼女が振り落とされたらどうするつもりだったんですか?」

「リオに怪我はさせない、俺が抱きとめるつもりだった」

「せっかく乗馬を楽しんでいたリオに対して、あんまりな仕打ちだと思いますが」

「あんたにさせるくらいなら、俺がリオを馬に乗せる」

「失礼ですが、いたずらに馬をおどろかせるきみに、騎手としての心得があるとは思えません」

「乗ったことがなくたって、見ればやり方くらいわかる!」


 たしかにノアは器用だ。ひと目見れば、大体のことはこなせてしまうくらいの天才肌。


「──寝言は寝てからおっしゃい」


 だけど、ノアを一蹴するエルのひと言は、厳しいものだった。


「見よう見まねでお遊び半分のぼうやにおとなしく鞭を打たれるほど、馬はおりこうではありません」

「なら、あんたなんかにリオがベタベタさわられてるのを、指くわえて見てろって言うのか!」

「えぇ。すくなくとも、そんなに乱れた感情を自制できないぼうやは、馬に乗るべきではないと断言できますね」

「言わせておけばっ……!」

「かん違いをしているようなので言っておきますが、馬は乗り物ではなく、生き物です」


 エルはたたみかけるように、ノアの言葉をさえぎる。


「騎手の動揺は、馬にもつたわります。彼らを想いやることのできない者は、手綱をにぎるべきではない」

「それはっ……」


 ふれれば切れてしまうような、鋭い追及。気圧されたように、ノアはうろたえる。


「最後に。もしリオが怪我をしなかったとしても、落馬する恐怖はぬぐえるものではありません。いいですか、きみは、リオを怖がらせたんです」

「──っ!」

「彼女を傷つけたことを、深く反省なさい」


 それが、とどめだった。


 こぼれ落ちそうなほどサファイアの瞳を見ひらいたノアが、顔をゆがめ、唇を噛みしめる。


 うつむくノアにエルが言葉をかけることは、もうなかった。

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