後部艦橋で儀堂は照準装置のレンズから球体の変化をつぶさに見ていた。その光景は怪奇の一言に尽きた。
「今度は何だ?」
またの光弾を撃ってくる気かと思ったが、違うようだ。
球体は紫色の光を増すと、四方へ巨大な方陣を投影した。まるで映写機で映し出されたかのように空中に幾何学模様が浮かび上がる。
「五芒星?」
紅色の線で、ペンタグラムの模様が描かれていた。その周囲には解読不能な文字が描かれている。
「
続けて儀堂だけでは無く、射撃指揮所にいた者全てが同時に声を上げていた。
幾何学模様の方陣から次々と異形の化け物が次々と吐き出された。化け物の中でも翼のあるものは飛び出していき、無いものはそのまま海上へ落下していく。まるで乱雑に廃棄されたようだ。
方陣は化け物を数十体生み出すと、忽然と消え去った。
◇
南雲機動部隊は新たな脅威への対処を迫られた。化け物の群れは手近な艦艇へ狙いを定めて襲いかかってきたのだ。
重巡洋艦の<筑摩>は、有翼型生物の群れに取りつかれていた。真珠湾で戸張が黒天狗と呼んでいた化け物だ。それらは個体としては小さかったが、やっかいなことに火炎をまき散らす光弾を放ってくる。
<筑摩>の上部甲板のあちこちで火の手が上がり、消火に駆けつけた応急班は先に化け物どもの始末に追われた。艦内の武器庫が解放され、臨時の陸戦隊を編成する羽目になった。
<利根>はクラァケンに絡まれていた。球体へ向けて対空射撃を行っていたため、減速していたのが不味かった。クラァケンは船体下部へ取り憑き、前部甲板へ這い上がってきた。
巨大な触手が20・3センチ連装砲に巻き付くと、針金のように砲身を折り曲げてしまった。それは不幸にも、主砲を発射間際の出来事だった。砲身内で行き場を喪った砲弾が破裂し、クラァケンごと吹き飛んだ。
化け物の軛を逃れたものの、誘爆を避けるため<利根>は前部の弾薬庫に注水、戦闘能力が半減した。
<比叡>を襲った化け物はヒュドラだった。前後を挟み込むように、2体が<比叡>の近くに現れた。
「取り舵一杯、回避!」
とっさに艦長の西田が命じる。その後すぐに操舵手が「とぉりかぁーじ! いっぱい!」と続き、舵輪を目一杯回す。左へ急回頭したことで、<比叡>の巨艦は大きく傾いた。艦内にいる者が踏ん張らなければならないほどだった。
これで前方のヒュドラは回避できた。問題は後方だった。急回頭で<比叡>の速度が落ちたことで、後方のヒュドラに追いつかれてしまった。そのヒュドラは船体後部へ体当たりした。傾斜に続いて、強烈な衝撃が加わる。
このとき最も被害を受けたのは、前部艦橋の司令部だった。高所にあったため、震動が増幅され、三川以下司令部要員が転倒した。
追い打ちをかけるように、球体が光弾を再び放った。
直後に最大の不幸が<比叡>に訪れた。
光弾の一発が、艦橋の司令部内に飛び込んだ。
◇
ヒュドラの体当たりを、儀堂は射撃装置の座席で耐えた。前屈みになった身体を起こす途中で、後部指揮所の破孔から無数の鎌首がのぞいて見えた。背筋が凍り付かせながらも、儀堂は叫んだ。
「さ、三番砲塔、距離零、斉発! すぐに!」
恐怖に駆られながらも、儀堂は最適解を出していた。三番砲塔が火を噴くと同時にヒュドラに三式弾が炸裂する。必中射程で焼夷榴弾を食らい、ずたずたに鎌首がちぎれ飛ぶ。周辺には肉片と血液がまき散らされ、臓物の汚臭が充満する。
胃の内容物が逆流しそうになり、やっとのことで堪えた。
「クソッタレが!!」
最悪の気分の儀堂に、さらに追い討ちがかかった。<比叡>の司令部が光弾の爆発で全滅していた。艦長以下が人事負傷に陥り、戦闘指揮が宙に浮いた。その報せを届けたのは、あの主計大尉だった。大尉はまたわけのわからないことを言いだした。
あろうことか儀堂に艦の指揮を執れと言う。
「下手な冗談を聞く余裕はありません」
冷めた声で返事をする。上官に対して態度も内容も無礼きわまりなかった。今の儀堂は怒りを越えて、ある種の自棄を起こしていた。同時に本気で、この主計大尉の言うことがわからずにいた。ただの新米少尉に戦艦の指揮を執れとは、いかれた発想としか思えなかった。
『冗談ではない。私は計算が得意な、ただの主計士官だ。兵科の士官では最上位は貴様だ。他は死んだ。だから貴様がやれ』
主計大尉はまくし立てるように言うと、電話を切った。
あの野郎、そうだ、思い出した。確か
儀堂は現実に目を向けた。自分より倍の人生を重ねたベテラン兵達が不安げに見つめている。こんな若造に自分の人生を託されたのだから、もっともな反応だ。同時に知ったことかと思った。俺だって、もっと相応しいヤツが他にいると思っているさと。
「全員聞け。これより私が指揮を執る」
兵達は若い士官の落ち着いた声に、少しばかり安堵を覚えた。実際それは諦めに近い感情から生み出されたものだったが、今の彼らにとりどうでも良いことだった。溺れる者と同じく、
指揮を継承した直後、儀堂は駆け足で前へ向かった。前方へ見晴らしの効く方が海域全体を把握できる。
前部艦橋で、まず儀堂は指揮機能を艦橋下部の司令塔内へ移した。司令塔は200ミリ以上の装甲に覆われ、あの光弾でもたやすく貫けそうに無かった。そして儀堂も簡単に死んでやるつもりは無かった。少なくともこんな不可解な地獄へ自分を引きずり込んだ敵を撃ち落とすまで、死んでやるものかと決意していた。
「主砲照準は、そのまま。あの球体へ砲撃を続けろ」
自ら艦内電話を通じ、後部射撃指揮所へ命令を下す。
『弾種は三式のままですか』
電話越しに伝令の兵士が聞いてくる。声音から懸念が伝わってきた。
「あと何発残っている?」
『……もう一斉射で撃ちきります』
深く息を吸い、静かに吐き出す
「撃ちきれ。残していても仕方がない。その後は零式に切り替えろ。以上――」
電話を切りかけて、儀堂は止めた。あることを確認する。
『目標の高度? 少しお待ちを……おおよそ
やはりと儀堂は思った。そのまま高度の変化を逐次報告するように告げ、電話を切った。
――出現時よりも高度が下がっている。
それに気づいたとき、儀堂は確信に近い、予感を抱いた。
恐らくこちらの攻撃は効いているのだ。それが目に見えないだけで、実際は損害を与えているのではないか。だとすると、話は簡単だった。
――ようはあの黒い月を落とせば良いわけだ。
海面すれすれとまでは言わない。せめて高度50メートル以下まで落ちてくれれば、徹甲弾による攻撃も現実味を帯びてくる。
問題はそれまでにどれほどの時間と物量が必要かわからないことだ。しかも化け物どもと戦いながら、完遂しなければならない。
僚艦の<霧島>と連携できれば成功の確率はぐっと高くなるが、通信が繋がらなかった。どうやら光弾の攻撃で電路がやられたらしい。
儀堂は主砲以外の火器群を化け物へ向けさせた。三式弾で吹き飛ぶような雑魚には、それで十分だった。
<比叡>は、その全身から火力を吐き出しながら驀進し続けた。空を舞う黒天狗どもをカトンボのごとく撃ち落とし、行く手を遮るクラァケンやヒュドラを容赦なく高角砲で始末した。<比叡>の勇戦に刺激されたのか、同様に火砲をまき散らしながら<霧島>が続く。
その後、約一時間の戦闘で黒い球体はさらに100メートルまで高度を下げた。
「やれるぞ。このまま、あの月を落としてやる」
自然と儀堂の顔に笑みがうかんだ。仄暗い司令塔内に浮かんだ少尉の顔は。年齢にそぐわぬ凄みがあった。その場にいた兵員は背筋が寒くなるのを感じた。
しかし年不相応な笑みは長くは保たなかった。
後部射撃指揮所より対空用の零式弾を使い切ったと連絡が入ったからだ。
◇
まもなく他の艦も同様に零式弾を使い切ったのを、儀堂は悟った。発砲炎の後、砲弾が水面へ突っ込んで水柱を上げていた。零式ならば時限信管が作動して、空中で炸裂するはずだ。恐らく徹甲弾を撃ち込んでいるのだ。
徹甲弾は貫徹力に優れているものの、命中精度は期待できない。大半が空を切り、球体を通り過ぎて、先の海域で水柱を形成していた。ある程度、修正をかけることで命中率はあがるだろうが、果たしてどれほど時間が必要か不明だ。
――畜生、こんなところで……!
儀堂は血走った眼で黒い月を見た。司令塔のスリットから見えた月は紫色に輝き、再び光弾を放った。今度のは前よりも直径が大きく、数も多かった。
これまで直撃を免れてきた<霧島>は、ここで運を使い切った。
艦橋と煙突に一発ずつもらった。幸い光弾は艦橋を貫いて反対側へ突き抜けたようだが、煙突への一撃が致命的だった。排気が出来なくなったことで、<霧島>の機関部の温度が急上昇し、機関停止を余儀なくされたのだ。文字通り浮かべる城となった<霧島>に化け物が殺到し、自艦の防衛に忙殺される。。
<比叡>も二番と四番砲塔に直撃を食らった。
光弾は奇妙な軌道を描き、二番砲塔の砲身に当たり、爆発した。砲塔本体は無事だったものの、砲身は裂けて使い物にならなくなった。
四番砲塔は砲塔基部に光弾を受けた。爆発は分厚い装甲で防げたが、甲板に歪みが生じ、砲塔旋回ができなくなった。この時点で、<比叡>の主砲戦力は半分に減じた。
儀堂は司令塔内のスリット越しに折れ曲がった砲身を眺めていた。驚異的な集中力を発揮した儀堂だが、やはり若かった。
――これが俺の果てか? ここで終わりなのか?
スリット越しに黒い月を見上げる。怪しい輝きに吸い込まれそうになったところで、再び現実へ強制的に引き戻された。
急に誰かがぐいと肩を鷲掴みにし、儀堂を揺らした。何ごとかと振り向くと、通信士が震える手で一枚の紙切れを差し出してきた。
「少尉、来ました」
「来た? 何が?」
莫迦みたいに間抜けな声で聞き返す。
「第一次攻撃隊です! 戻ってきたんです!」
背後で爆発音が響いた。思わず振り向く。
黒い月の上部が噴火したように、真っ赤に燃えさかった。
◇
淵田中佐率いる第一次攻撃隊が帰還したとき、その目に映ったのは無残に燃えさかる母艦と懸命に反撃を行う水上部隊だった。
反射的に彼は決断した。
「全機、トツレ!」
淵田の命令一下、第一次攻撃隊は突撃に移った。まず九七式艦上攻撃機が水平爆撃を行い、球体上部へ対艦用の
九七式艦攻に続き、九九式艦上爆撃機が
第一次攻撃隊は戦意と復讐心に燃えていた。化け物どもは自分の獲物を奪った挙げ句、帰る場所まで奪おうとしている。許されざることだった。ハワイで振り上げた拳を、振り下ろすのは今しかなかった。
制空隊の零戦は<筑摩>や<霧島>に張りつこうとしているヒュドラやクラァケンへ機銃掃射を行い、九七式艦攻の一部は果敢にも雷撃を行おうとしていた。味方の艦に当たらぬようにするため、化け物の近くすれすれで魚雷を投下していく。それらの数本が命中し、水柱と共に肉片をまき散らした。
第一次攻撃隊の猛攻で、周辺の海域は血染めとなった。
化け物の断末魔が響き渡る中で、黒い球体が怪しく輝きを放ちはじめる。まるで弔っているかのようだった。爆撃を受けても、球体は元の原型を維持していた。そして戦意(?)も喪われていないようだった。球体はさらに輝きを増していき、それが臨界を迎えようとした刹那、鋼鉄の洗礼を受けた。
◇
『弾着! 今!』
スピーカーを通して後部射撃指揮所から報告が伝えられる。徹甲弾に黒い月が抉られるのが、スリット越しに見えた。
周囲を覆うよう緑色の水柱が立つ。日本海軍は徹甲弾内部に染料を仕込んでいた。弾着観測を容易にし、迅速に修正するためだった。もっとも今回は修正の必要はなさそうだった。初弾で命中弾を叩き込んでいる。あとはこのまま鋼鉄の雨を降らせていけば良い。
ざまあみろと儀堂は思った。
第一次攻撃隊の爆撃により、黒い月は高度を30メートル以下に下げていた。<比叡>にとって、水平と変わらぬ高さだった。さらに相対距離も5000メートルを切り、極めて至近だった。
この瞬間より、<比叡>は対空射撃から水上打撃戦へ移行していた。
<比叡>に続き、<霧島>が
<比叡>、<霧島>、両艦ともに神がかりな技量を発揮していた。わずか数時間の死闘で、兵員の集中力が最高潮に達した結果だった。彼らを支えているものは戦意だけではなく、ただただ海兵としての義務感、そして日本人特有の勤勉さ、最後に理不尽な状況に対する怒りだった。
本当ならば、今頃は太平洋艦隊を撃滅し、凱歌を上げて帰投しているはずだった。それがこの体たらくである。理由も知らせれぬまま一方的に嬲られて済まされる話では無かった。
そして終わりは突然訪れた。
黒い月は海面すれすれまで降下し、<比叡>の十一斉射目が着弾したときだった。黒い月に紫入り色の
次の瞬間、紫の光とともに破裂し、周辺数キロを黒い霧が覆い尽くした。
「撃ち方止め!」
煙幕かと儀堂は思い、警戒した。しかし数分後、黒い粉塵が晴れた後に何も残されていなかった。やがて頭上を旋回する、第一次攻撃隊から報告が入った。
『周辺ニ敵影認メズ。黒イ月ハ四散セリ』
艦内が沸き立つ。しかし儀堂は全く同調できなかった。
「……よもや」
これで終わりかと思った。
あまりにも呆気ない、手応えの感じぬ勝利だ。
――俺達は何をした? この戦闘に何の意味が? ただ自分の身を守るため、黒い玉を撃ち落としただけだ。