【横須賀】
横須賀にその施設はあった。
草色の戦闘服に身を包んだ直立不動の衛兵、その脇にある門柱には『海上護衛総司令部』と刻み込まれている。
通称は護衛総隊。EF(エスコートフリートの略)とも呼ばれる。
日本び友邦諸国の
所属艦艇の大半は巡洋艦以下の補助艦艇によって占められているが、隻数だけならば母体となった
総司令部は、かつて横須賀鎮守府が置かれた施設にある。一時期は海軍省内にあったが、人員の増加に伴い、収まらなくなったため移転となった。護衛総隊直属の艦艇、その多くが横須賀を母港としているため、現場に近いという意味では好都合だった。
たった今、司令部内の廊下を速歩で進む軍人がいる。よほど急ぎの用事らしい。彼はある一室で足を止めると、息を軽く整えてノックした。間もなく「入りなさい」と室内から返答があった。
彼が開けたドアには長官室と書かれていた。
「大井です。失礼します」
灰皿でタバコをもみ消すと、
「決まったのかね」
「はい、長官。今度のYS87船団の編成です」
「北回りか。ずいぶんと冷えそうだ」
北米への輸送航路は大きく二つに分かれていた。片や日本から北回りに太平洋を迂回する北太平洋航路、もう片方はインドシナもしくは豪州から南周りに迂回する南太平洋航路だ。
「ええ、致し方ありません。中央が使えませんから……」
同情を込めて大井は肯いた。日本から最短で北米に至るのなら、迂回などせずに太平洋を横断すればよい。この戦争が始まる前まで、定番の航路として何便も船舶が航跡を刻んできた。しかし、今ではあまりにも危険だった。特にハワイ周辺は禁忌の海域と化している。
伊藤はページを丁寧に捲ると、視線で編成表をなぞっていく。ふとある一点で手が止まる。
「空母を借りれたのはありがたい。しかも、正規空母とは贅沢なものだ」
感想を呟く。言葉の端から安堵が漏れていた。
「今回は通常のそれと異なりますので、連合艦隊も気前良く空母を貸してくれました。おかげで護衛戦力を大幅に増強できます」
「……なるほど」
伊藤は船団の編成表へ一通り目を通すと、人員表のページをめくった。そこには尉官以上で職位をもった士官が載っている。ふとある人物の名が目にとまる。
「おい、ここの――」
伊藤はその人物の名を指さした。大井は事前に反応を予想していたらしい。目もくれずにうなずいた。
「はい、本人たっての願いだそうです。一日も早く海へ戻りたいと」
「しかし、相当な重傷だったと聞いている」
「ええ、先月退院したばかりです。私も直接本人へ会って参りましたが、不調には全く見ませんでした。何と言いましょう。不気味なほど平静でした」
「……よもや死に場所を求めているわけではないだろうね? 彼と心中してやれる兵はおらん。どこもかしも人手不足だ」
「それはないかと――」
大井はこれまでの戦歴から結論を出していた。その士官は幾度も激戦に身を投じながら必ず生還している。そして確実に敵を血祭りにしていた。彼が任官した部隊は、かつてないほどの戦果をたたき出しながら極めて被害が少ないことで有名だった。
「今回の任務の特殊性を鑑みますと、彼は適任です。なにしろ、あのハワイ沖海戦の生き残りです」
伊藤は少し逡巡すると、自分を納得させるように肯いた。
「そうだったな。よろしい。忠君報国は望むところだ。北米航路は娑婆の空気とはことさら遠くなる海だ。
「はい、承りました」
大井は一礼すると、長官室を後にした。
廊下の窓から港に停泊する艦艇群が見えた。そのうちの一隻、海防艦がちょうど舫いを解いて出港するところだった。哨戒任務だろう。
昨年まで近海に潜む魔獣のせいでまともに漁業ができなくなっていたが、護衛総隊の徹底した掃討作戦により近頃ではめっきり被害が減っている。つい数日前から築地では競りが復活していた。
「はたして……」
大井は思った。
果たして、あの大尉に残すものなどあるのだろうかと。
◇
【東京 世田谷】
三軒茶屋が夕暮れに包まれ始めた頃、住宅街を若い海軍将校が歩いて行く。服装は黒い詰襟の第一種軍装、同じく黒い
やがて彼はある家の前で足を止めた。表札には『儀堂』と書かれている。
家門をくぐり、
玄関のランプが灯っている。
ありえないことだった。灯火管制下というわけではない。そもそもこの家の灯が点くはずが無いのだ。
訝しながらも玄関の引き戸を開ける。鍵はかかっていない。
「誰――」
誰かと尋ねる前に、犯人が出てきた。
「あ、衛士さんお帰り!」
「なんだ、小春ちゃんかい」
「なんで、ここに?」
「うちの兄貴殿の命令。『あいつの様子を見て来い』ってさ。そうそう家の中、風通しておいたよ。もうかび臭くって」
あっけらかんと小春は言った。彼女が生まれた頃から、儀堂と戸張の家は付き合いがあった。近所で、お互い軍に勤めている家系だったためだ。小春にとって、衛士は年の離れた兄のような存在だった。
「それはありがとう。寛も
「休暇だってさ。なんの音沙汰も無く、いきなり『ただいま』よ。戦争中だから仕方ないけど、せめて手紙くらい寄こしなさいっての」
ぶすりと小春は言った。実兄が無事だったことへの安堵感、その裏返しだと儀堂は気が付いていた。
「あいつは筆不精だからね」
苦笑混じりに返す。
「衛士さんもひとのこと言えないからね?」
「うん?」
「入院してたのに、なんで知らせてくれなかったの? うちに連絡してくれれば、あたし見舞いに行ったのに……」
「それは――」
参ったなと儀堂は思った。先月まで彼は呉の病院にいた。戦闘で重傷を負ったためだ。
実のところ、彼はこの家に戻るつもりは無かったのだ。退院したら、すぐにでも原隊へ復帰するつもりだった。
しかし復帰先の艦が戦没したため、次の配置が決まるまで手持ち無沙汰になった。まもなくして軍から長期休暇を言い渡され、彼は帰郷を決心した。呉で時間をつぶす手もあったが、久方ぶりの墓参りを済ませたかったのだ。
「ごめんよ。なに、たいした怪我じゃ無かったんだ。それに入院先は、
「それでも内地でしょ? あたし一人でも行ったのに」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」
儀堂は心からそう思った。この子なら本当にやりかねない。
「ま、いいけど。さあ、早く上がって。お茶いれるわ。あと晩ご飯の支度しているから、待っててね」
「ああ、うん」
◇
儀堂が居間でくつろいでいると、しばらくして玄関の開く音がした。おおよそ誰か察しがついた。
「よお、戻ってきたか」
戸張だった。飛行服に草色の第三種軍装を羽織っている。片方の手に日本酒の瓶、もう片方には包み紙を持っていた。
「やあ、久しぶり」
「全くだ。
1年ほど前だ。豪州のブリスベンに現れた黒い球体、通称
「よく、俺がここに戻るとわかったね」
「そりゃあ、まあ、いろいろと人づてにお前さんの活躍を聞いてな。派手に暴れたそうじゃないか。ああ、そうだ。おい、小春! いるんだろ!」
台所にいる小春が、居間にやってくる。妙なことに不機嫌そうだった。
「なに、もう来たの?」
「お前、兄貴に向かってその態度はないだろ。少しは優しくなれよ」
「はいはい。用件は何でしょうか、兄貴殿」
戸張は辟易した様子で、包みを差し出した。
「さっき乾物屋で買ってきた。アジの干物だ。オレとこいつの分あるから、ちょいと焼いてくれよ。ちょうど飯の支度してたんだろ?」
「いいけど、あたしの分は?」
「いやお前のはもう家に届けたからよ。帰って食えよ。母上殿が用意してるさ」
「はあ? どういうこと?」
「干物、焼いたら帰れってことだよ。もう遅い時間だからな」
「兄貴が送ってくれればいいでしょ」
「オレはこいつと今日は飲み明かすんだよ」
「いやだ! あたし帰らないからね!」
その後、10分ほど戸張兄妹間で押し問答が続いた。最終的には儀堂の「別にいいじゃないか」の一言で、妹側の勝利と判定された。
鼻歌交じりに、台所に戻る妹の後ろ姿を見送りながら、戸張は頭をかいた。
「あいつの負けん気の強さには参るな」
「ひとのことは言えないだろう。だいたい同じ血が流れているわけだから」
「ま、そりゃそうだ」
「それに悪いが、明日の朝は早い。飲み明かすのはまた今度にしてくれ」
「何の用だよ?」
「海軍省へ行く。そろそろ次の配置が決まるらしい。いろいろと準備もある」
「早いな。さすがは20そこそこで大尉になるヤツは違うな。引く手
「そうなのかな。まあ、なんにしろ俺には有り難い話だ。だいたい、ここに居たところで……」
何かを言いかけ、儀堂は止めた。
「うん?」
「いや、なんでもない」
「そうか……おーい、小春!」
台所から「なに?」と大声で返される。
「湯飲みと、あとなんか適当に肴を頼む!」
再び「はーい」と大声で返される。
「おい、今から始めるのかい?」
「別にいいだろ。せっかくの娑婆だぜ。楽しめよ。次いつ飲めるかわからねえだろう」
そう言うと、まだ茶が残っている儀堂の湯飲みに戸張は酒を注いだ。
「道理だね」
と苦笑しつつ、儀堂は
戸張兄妹が帰ったのは、それから3時間後のことだった。戸張にしては健闘した方だった。
儀堂と同じく酒好きの戸張だったが、残念ながら下戸だった。
「ちょっと、しっかりしてよね!」
妹のお叱りを受けながら、千鳥足で家路についていく。
その後ろ姿を軒先から儀堂は見送った。久しぶりに儀堂の内面に安らぎに近いものが生み出されていた。
短い時間だったが、家庭的な空気を味わうことが出来た。
そこで、ふと儀堂は気づいた。要するに戸張なりの気遣いだったのだ。
「恩に着るよ」
小さくなっていく、二人の後ろ姿に礼を言い、彼は家へ戻った。
玄関を開け、ただいまの一言。今度は誰も返事をしなかった。
◇
戸張家の灯りが見えてきた頃だった。ためらいがちに小春は兄に尋ねた。
「ねえ、衛士さんが戻ってきたのって……」
戸張は足下こそおぼつかなかったが、意識ははっきりしていた。妹の言わんとするところを彼は肯定した。
「ああ、もうすぐ命日だからな」
三年前の1942年1月11日、それは彼の友人を残し、一家が全滅した日だった。