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月下の邂逅(Moonlight rendezvou):2

【東京 目黒】


 その夜、目黒の海軍技術研究所で騒動があったが、周辺の住民が気づくことは無かった。


 理由の第一に、そこは軍機に関わる施設で厳重に封鎖されていたこと。


 第二に、その敷地内でも最も密閉された空間で起きた出来事だったことが上げられる。


 研究所内の施設、その地下へ続く階段を慌ただしく数名の兵士が下っていく。その中の一人、先頭を行く士官が口を開いた。


「いつのことですか?」


 厳しい口調で御調識文みつぎしもん少尉は問いただした。夜半、電話でたたき起こされ、内容を聞くや押っ取り刀で駆けつけたところだ。護衛の兵士が応える。


「正確な時間は不明ですが、22時フタフタから1時マルヒトの間と思われます。見張りの交代要員からの報告で発覚しました」


「それで、元々ここにいた見張りの兵は?」


「昏睡状態です。軍医が処置ですが、いつ意識が戻るかは不明です……」


 思わず小さな舌打ちが漏れた。


「わりました。とにかく現場へ」


 向かった先は施設最下層、その最奥にある区画だ。その途中で分厚い人の胴回りほどありそうな水密扉を開き、くぐっていく。もとは建造中止となった戦艦に備え付けられていたものだった。開戦後の施設拡張に伴い、ここの施設へ流用された。


 白熱球に煌々と照らされた廊下を急ぎ、目標の部屋へ辿り着く。御調は思わず、ぎょっと立ち止まった。部屋の入り口を凝視する。奇妙なものが見えた。粘土細工のように丸められ、ひしゃげた鉄の塊だ。やがて部屋を密閉していた水密扉の残骸と気づき、青ざめる。


「化け物め」


 小さく呟くと、室内へ足を踏み入れる。


 『化け物』の抜け殻が残されていた。銀色の筒状の容器で、大きさは人の身の丈ほど。


 それはハワイ沖海戦のときに、発見、回収されたものだ。


 ただし今は発見時と随分と趣が異なる。容器の至る所に先端が吸盤となったゴム製の管チューブが接続されている。


 チューブは複数のブラウン管式受像器モニターと繋がれていた。受像器が載せられた鉄製の台、その周辺には百を超える真空管が散らばっている。もとは壁に備え付けられた巨大な電子演算器に収まっていたはずのものだが、どうやらあの『化け物』によって引きずり出されたらしい。


「なぜ今頃になって……」


 筒状の容器は破けていた。まるで中から何者かが無理矢理に破り出ててきたようだった。その有様は孵化で割れた卵を思わせた。


「施設内の誰もアレを見たものはいないのですね?」


 御調は周囲を見回した。この施設の警備を潜り抜け、誰にも見られず外へ通じることなどできないはずだった。


「おりません」


「ならばどうやって……」


 いや、そんなことを考えている場合では無い。明確な事実は、ここにヤツはいないということだ。ならば屋外の、帝都のいずこかにいる。無防備にさらされた民の群れに、あの化け物が解き放たれている。看過できぬ事態だった。


「電話を。すぐに六反田ろくたんだ少将へ繋いでください。月鬼げっきが脱走、至急応援を求むと」



【東京 ???】


 夕闇の中、焼け野原の街を走っていた。


 息が切れるのも忘れ、ただ走っていた。


 そのとき世界は混沌と惨劇に彩れていた。


 鼻をつく腐臭、甲高い乳飲み子の鳴き声、母を求める幼子、あるいは子の亡骸に子守歌を聴かせる母、狂ったように笑いながら千切れた伴侶の手に頬ずりをする夫。


 惨禍に揉まれた人々の波、それらをかき分けながら儀堂は走っていた。


――違う、嘘だ! 手違いだ!


 それは儀堂の願望だった。叶わぬ願いだった。


――そんなはずはない!


 そうだ。父の計らいで小倉こくらへ疎開したと聞いていた。それがまさか東京へ戻っているなど、あるはずがない。


 それも、あの黒い月が現れた東京に……!


 やがて儀堂は運命へ辿り着いたとき、夜の帳が完全に降りていた。


 彼は赤い門をくぐった。敷地内のいたるところでドラム缶に焚き火がくべられ、暖を取ろうとする人々が取り巻いている。


 東京帝国大学、そこは臨時の野戦病院として使われていた。


 儀堂の応対をしたのは、そこの医学生だった。


 彼は『儀堂』の名を聞くと、血痕が染みついた帳簿を取り出した。


 弱々しい白熱球の灯の下でページをめくられていく。早くしろと叫びたくなるのをようやく堪える。


 やがて、ある頁でその学生は手をとめた。


 顔を上げた瞳には虚無と憐憫が映し出されていた。


「お気の毒ですが……」


 枯れた声で絞り出すように言い、彼は儀堂を大講堂へ案内した。内部は冷たく静まりかえり、二つの足音が木霊していく。


 前を歩く学生が何事かを言っているが、儀堂の耳には聞こえていなかった。彼は、この静寂に押しつぶされつつあった。


 講堂内は、大小さまざまな塊で埋め尽くされていた。それらは白い布やムシロで包まれているものもあれば、そのまま無造作に放置されているものもある。


 幽鬼のようにゆらゆらとした足取りで儀堂は講堂の奥へ進んだ。やがて、ある一角で学生の足が止まる。


 白い塊が三つ、寄り添うように横たわっていた。どれもやけに小さい塊だった。すべてを抱えて持ち上げられそうなほどの大きさだ。


「こちらが、ご家族です」


 不意に学生の声が聞こえるようになった。


「その、どうかお気をしっかり……」


 学生は白い布をゆっくりと剥いだ。


 彼の精神を不可逆的に歪ませた瞬間だった。



【東京 世田谷】


 声にならぬ悲鳴を上げて、儀堂は覚醒した。


 1月にも関わらず、じっとりと全身が汗に包まれている。


 荒くなった呼吸を整え、儀堂は机の椅子に座り直した。彼は今、書斎にいた。かつては父の部屋だった。


 ふいに足下が濡れていることに気がつく。ぎょっとして見れば、グラスが転がっている。どうやら寝ている間に、手から零れ落ちたらしい。


 何か拭き取るものを探し求め、虚しさに襲われた。どのみち乾くだろう。放置したところで、彼を叱るものはこの世にいない。


 グラスを拾い、机の上に置くと、備え付けの一番下の抽斗ひきだしを開け、緑色のガラス瓶を取り出した。中身は琥珀色の液体に満たされている。スコットランドで醸造されたシングルモルトだ。


 父の秘蔵形見だった。


「どこで手に入れたのやら……」


 遺品を整理するまで、彼は知らなかった。儀堂の父も酒好きだったが、人並みというところだった。晩酌で一合飲めば、事足りるような人物だった。舶来ものを嗜んでいたとは夢にも思わなかった……。


 コルク栓を開け、わずかに琥珀色の液体を注ぐ。一口で飲むと、ほのかなピートが喉から鼻へ抜け、とろけるような甘みが後を引いてくる。冷えた身体に僅かだが熱が入った。


 グラスを置くと、机上にある読みかけの日記を閉じた。満州から父の遺体代わりに届けられたものだった。一番上の抽斗ひきだしへ戻すと、代わりにあるものを取り出す。


 書斎の窓から怪しい光が射してきた。雲間から満月が顔を覗かせ、儀堂の手に握りしめられた遺品を照らし出す。月の光を浴びて、黒く輝いていた。


 ドイツの自動拳銃ルガーP08、これも父の形見だった。経緯は不明だが、戦利品らしい。


 儀堂の父は満州で戦死した。遺体は大陸の荒野のどこかに眠っている。黒い月と魔獣が全世界を蹂躙した日、彼の父は満州で味方の撤退を支援するため殿をつとめた。大よそ一週間にわたる遅滞防衛戦を続けた末、命と引き替えに義務を全うしていた。


 父の遺品を届けたのは、戦友の大佐だった。確か東島ひがしじまという名だった。東島は一冊の日誌と、一丁のルガー、そして一振りの軍刀を戦友の息子に手渡した。


 書斎の窓から月を望む。


 雲は晴れ、満月が冷たい光を放っている。


 そうだ。


 ……あの日もこんな夜だった。


 彼が家族の欠片遺体と対面した日も、冷たい月に照らされていた。


 何度思ったことだろうか。


 あのとき海軍兵学校ではなく、陸軍士官学校を受けていれば。


 あるいは海軍省へ陸上勤務を申し出ていれば。


 せめて疎開先から動くなと手紙を出していれば。


 この家は冷たくならずに済んだのかも知れない。


「あのとき――」


 儀堂は改めてルガーを握りしめた。猛烈な誘惑に駆られた。こめかみに銃口を押し当て、静かに目を閉じる。これまで幾度となく繰り返された儀式だった。しかし、一度たりとも引き金を引くことはなかった。


 もとより死ぬつもりは無い。


 自分はいつでも家族の下へ飛び立てると、そう自身へ言い聞かせる儀式だった。


 やがて呼吸が整えられ、鼓動が静かになっていくのを感じる。精神の平衡が回復されていく。


「まだだ」


 そのときではないと唱え、この儀式の幕は閉じる。


「まだ、そのときでは――」


「みぃつけた」


 不意に儀式を中断させたのは、少女の声だった。


「あっ……」


 目を開ければ、窓の外、庭に月を背負って少女が立っていた。艶めかしいフォルムから、一糸まとわぬ姿だとわかる。


 影で顔は見えなかったが、彼はその形状シルエットに見覚えがあった。極めて特徴的な器官が額から二本、空を突くように生えている。儀堂の記憶の中では、ただ一鬼いっきしか当てはまらぬ存在だった。


 彼は書斎の椅子から立ち上がると、窓を開けた。


「お前はいったい……」


 言い終わる前に、少女がクスリと嗤った。


「お主であろう? あの日、妾を堕としたのは」


「おとした?」


「左様。大海原より、妾へ向けて幾度も鉄塊を浴びせてきた」


「あ……」


 唐突にハワイ沖の記憶が再生され、腑に落ちる。突然の戦場、いっかいの少尉が戦艦の指揮を執り、黒い月へひたすら砲弾を叩き込んだ。


 のちにBMと呼ばれる異形の球体は、南雲機動部隊との総力戦の果て、光とともに霧散した。


 その壮絶な初陣の後、儀堂は海原に浮かぶ銀色の筒を拾った。


「お前は……やはり、お前はあの月から生まれたのか」


 少女は満足げに嗤ったようだ。


「面白いこと言う。確かにおぬしらから見れば、そのような解釈も成り立つか。まあ、否定はせぬよ。さて……」


 少女は軽やかに一歩踏み出すと、月光が全てを露わにした。朱色の角、銀色の御髪、そして透き通るような肌が眩しく映える。


「おぬしに会いたかったぞ」


 うっすらと逆さの三日月が口元に形成される。上唇から獣のような牙が覗いていた。


 儀堂は少女の態度を的確に解していた。


 挑発、おちょくり、過小評価、要するになめている。


 なめられているのだ。


 こんな人間ごとき、異形の自分は造作もなく扱えると。


 なるほど、ふざけやがって。


「奇遇だね。実は俺も君に会いたかった」


 角の生えた少女は小首をかしげた。儀堂の反応が心外だったらしい。儀堂は構わず続けた。


「どうしても聞きたいことがあった」


「ほう、聞きたいこととな」


 面白げに彼女は応じた。


「二つばかりある。ひとつ、あの黒い月の中身は、お前自身だったのか? ふたつ、あの日現れた魔獣どもはお前がけしかけていたのか?」


 少女は視線を逸らし、少しばかり考えたようだ。そして結論を出すと、改めて儀堂の顔を見据えてきた。


「是か非で応えるならば、二つとも是だな。あの黒い月は妾であり、それよりでた獣は妾の手によるものだ」


「なるほど、誠にありがとう」


 満足げに肯き、儀堂はルガーの引き金を引いた。


 もちろん自分では無く、目前の鬼に向けて。



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