【ベルリン郊外】
1945年4月10日 朝
ベルリン郊外、朝靄がかかる森の中を3頭の馬がゆっくりとした足取りで歩いていた。3頭とも、狩猟服に身を包んだ男を背に乗せていた。それぞれがライフルを肩に背負っている。表向き、3人は休暇を利用して狩りに来たことになっていた。
表面上は親しげに見える男達だった。しかし、馬たちは動物的感性から不穏な気配を感じていた。少なくとも3人の中でも、2人は相互に嫌悪し、鋭い刃に似た敵意を隠している。もし狩りの最中に、不幸な
――化け物だな
ヴァルター・シュレンベルク大佐は先を行く騎乗の2人の背中を見ながら思った。2人とも全く疑う余地がないほどに、親しげな様子で会話に興じている。背筋に薄ら寒いものを感じていた。シュレンベルクは、彼等2人がお互いの暗殺計画を極秘裏に進めていることを知っていた。
「やはり、この森でも狐の姿を見なくなったな。そう思わないかね、ラインハルト」
2人の内の片方の老人が森を見渡した。目元に深い皺が刻まれているが、瞳の奥は猛禽類に似た眼光が宿っていた。
「喜ばしいことでしょう、ヴィルヘルム」
ラインハルト・ハイドリヒは、ヴィルヘルム・カナリスへ笑いかけた。相手は自分よりも20近い年長者だったが、友人に語りかけるような口調だった。よく訓練された会話劇だ。お互いに、全く自然に振る舞えるように十年近く家族ぐるみの
彼等は同業者であり、同時に
名目上は国防軍情報部が対外諜報を担当し、国家保安本部が防諜任務を請け負うことになっていた。しかし、彼等は自らの職分を独自解釈し、お互いが国内外で独自の諜報網を構築するに至っている。
「狐は害獣だ。我々の世界の調和を乱す存在ですよ。一掃されたのならば、実に喜ばしい限りだ」
「確かに、だが害獣とは一面的な見方でもある。狐がいなければ、ネズミがはびこり、作物が食い荒らされてしまうだろう」
「ヴィルヘルム、その懸念に対する私の答えをあなたは知っているはずだ」
「もちろんだとも、君ならばネズミだろうと駆除し尽くすだろう」
カナリスは確信と共に肯いた。目の前の男は、一民族、そして数万の反体制分子の駆除を専門にしていた男だった。もし第三帝国による
不幸中の幸いと言うべきか、BMと魔獣の出現により、彼の地の民族は独逸の軛から逃れることが出来た。もっとも、それは苦難の旅路の始まりに過ぎなかったが……。
ハイドリヒは機械的な笑みを浮かべた。
「その通り。やはり、あなたは私を理解できる数少ない友人だ。もっとも――」
ハイドリヒは何かに気がついたように馬を止めた。
「なんだね?」
カナリスは何事か思いながらも、表情に出さなかった。ただ、ハイドリヒに少し遅れて馬を止め、次の言葉をまった。シュレンベルクは、少し前から数歩後ろで馬を止めていた。
「ひとつだけ誤解しているようだ。私はたとえネズミでも有用であれば使い倒し、そして廃棄する」
「なるほど、君は極めて実存的な男だったな。君が北米へ送り込んだものたちも、有用だったのかね?」
カナリスは惜しげもなく国家保安本部が抱える最高機密をさらけ出した。ハイドリヒは冷たい嗤い声を上げた。
「ええ、彼等は合格ですよ。
「なるほど、廃棄するつもりならば譲り受けたいと思っていのだが――」
うそぶくようにカナリスは言った。本当に食えないジジイだとシュレンベルクは思った。
「残念ながら、それは当分先のことでしょう。なあ、ヴァルター?」
唐突に話題をふられ、シュレンベルクは戸惑った。しかし、その意味をすぐに理解した。そろそろ頃合だった。
「はい、少なくとも彼等は目標の一つを達成しています。その能力は信じるに値するでしょう」
シュレンベルクは朝靄の向こうへ合図を送った。
二発の銃声が響き、一人の男が倒れた。
◇
【東京 首相官邸】
1945年4月9日 午後
首相官邸の執務室には、正装をした2人の海軍軍人が訪れていた。
「これは困ったねぇ」
部屋の主は東北の訛りのキツい言葉でしゃべった。第42代内閣総理大臣は英国仕立ての
「トルーマン氏に逮捕状でも出すかね。ハーグへ出頭願おうか」
「米内さん、勘弁して欲しいなあ。俺はこいつを冗談で済ます気にはなれないんだ」
山本軍令部総長は眉間に深い皺を刻んでいた。彼が尊敬する米内の前で、ここまで怒りを露わにするのは珍しかった。
「何しろ、うちの兵が死んでいる。陸軍だって少なからず被害を受けているんだ。米内さんも知っているでしょう? 一昨日から凄まじい抗議文や怪文書が、霞ヶ関で出回っている。国士さまの集会もあちこちで開かれるわで、憲兵が泡くって鎮圧に乗り出しているところだ」
「米内総理、私も総長と同じ意見です。このままでは、せっかく大人しくなった陸軍がまたぞろ騒ぎ出します」
井上海軍大臣が深刻そうな表情で肯いた。米内は一分たりとも動じず、2人を交互に見ると鼻眼鏡を執務机に置いた。
「何か具体的な動きが?」
「今のところはありません。しかし、彼等は国政の主流を取り戻したがっていますから。いつ何が起きておかしくはありませんよ」
「二・二六の再来か」
日本における陸軍の発言力は、往時に比べて圧倒的に弱まっていた。
1941年、中国大陸に現われたBMと魔獣に対し関東軍が無様な敗走を繰り広げてしまったのが、主たる要因だった。加えて、同時期にハワイ沖でBMの撃退に海軍が成功したのも間接的に響いていた。日本海開戦の記憶を引き継いでいた国民は、国難に対抗できるのは海軍であると思い込んだ。それは現実逃避の一種だったが、国政における海軍の影響を広げる追い風となったのは確かだった。
止めを指したのは、翌年に東京に現われたBMと魔獣だった。彼等は霞ヶ関を蹂躙し、主要な閣僚を殺戮した。当時、帝都防衛を担っていた陸軍第一師団は為す術も無く敗走し、玉体を安全な場所へ避難させるだけで力を使い果たした。魔獣たちが、陸海軍の首脳部を分け隔て無く腹に収めたところでようやく救援が到着し、数万人の犠牲と引き替えに帝都は奪還された。しかし、国民の陸軍に対する不信は確定的なものとなった。
米内達が無事だったのは、全くの偶然だった。米内は体調を崩し、予備役となっていた。山本と井上はそれぞれ任地にいたため、BMの惨禍から逃れていた。
「しかし、六反田君は合衆国の可能性は極めて低いと結論づけているがね」
「私だって、確証は持っていません。エリオット湾に侵入した潜水艦の乗組員の大半はロシア人でした。基地内で見つかった犯人の遺体も、それぞれ人種、国籍ともにバラバラで共通点が全く無い。だからこそ合衆国が疑わしいと思われているのです。かの国は日系を含め、民族構成が圧倒的に多彩だ。支配層の実態がアングロサクソンだったとしても、それを知るのは我が国でもほんの一握りでしょう」
井上は続けて、報道管制も時間の問題だと告げた。
「国民が今回の事件について知ったら、真っ先に合衆国を疑います。そうなったら世論は沸騰、不信感が生まれ、かの国との同盟維持も難しくなるでしょう」
山本が畳みかけるように言った。
「つまり、どうにかして落とし前をつけなきゃならんわけだ。合衆国へ逮捕状をつきつけるにしろ、俺たちは国民、兵に納得のいく説明をせにゃならん」
井上が血相を変えた。
「山本さん、合衆国との対立は避けなければ――我々の敵はあくまでもBMと魔獣ですよ」
「わかっている。だが、殺された兵に申しわけがたたんのは事実だろう」
米内は立ち上がった。そろそろ時間が迫っていた。彼は国政の長として、説明の義務を果たす必要があった。
「すまないが時間だ。二人とも、この話は夜に改めて頼むよ。場所は赤坂のいつものところで。私は陛下のご宸襟を安んじ奉らねばならんのだ」
二人の海軍大将は神妙な顔で肯いた。
その夜、彼等は赤坂の料亭では無く、再び首相官邸に集うことになった。臨時閣議が開かれたからである。
独逸で政変が起きたと一報が入ったのだ。駐独逸大使館は平文で情勢を送ってきた。
曰く、ベルリンでテロが大規模なテロが発生、最高指導者のデーニッツ総統、凶弾に倒れる。