【シアトル 日本領事館】
1945年4月8日 朝
六反田と谷澤はシアトル市内の日本領事館に宿泊していた。本来ならば、身支度を済ませ、今日の昼には機上の人となるはずだった。
「谷澤君、もうしばらくここに残るぞ」
六反田は朝食をとりながら言った。片手には地元紙が握られている。一面には昨夜の襲撃騒ぎが飾られていた。とりたてて目新しい情報は載っているわけではない。昨夜、御調から電話でたたき起こされ、詳細について既に報告を受けている。
「そうならざるを得ないと思っていましたが――」
谷澤は諦めた口調で言った。着替えはあとどれだけ残っていただろうか。後で領事館員から地元の良い洗濯屋を紹介してもらおう。
「それにしてもシルクの遺体を狙ってくるとは、いったい誰が――」
「谷澤君、そこは重要じゃない」
六反田は地元紙をテーブルに置いた。ゆで卵の皮をむき、塩を盛大に振りかける。
「目星はついているからな」
「確かに、シルクの存在を知っているのは限られていますから――」
合衆国と独逸、いずれかだった。
「そうだ。ある程度、どの国がやったかは絞り込めはするだろうさ。誰がとまでは難しいがね。問題は何のためにやったかだ」
「それこそ明らかではありませんか? シルクの遺体、そのものでしょう?」
「それは目標だ。私は目的の話をしているのだ。例えば、あの遺体で何をするつもりだったかさ」
六反田はゆで卵を丸ごと口に放り込むと、珈琲で流し込んだ。
「ちょっと、これ固く茹ですぎているな。まあいい。話を戻そう。まだ断片的にしか情報を入手できていないが、敵が本気でシルクを奪おうとしていたとは思えん。考えてもみろ。たった数名の戦力で、シアトル軍港の厳重な警備をくぐり抜けて、あの遺体をそっくり持ち帰るなんて正気の沙汰ではないだろう」
空になったカップに珈琲を注ぐ。
「しかし、誰だか知りませんが潜水艦まで繰り出しているんですよ」
「ああ、そいつも妙な話だ。いくらエリオット湾の海ががら空きでも、浮上して回収するなんてリスクが高すぎる。それをするくらいなら、工作員の一人に飛行士を混ぜて大艇ごとかっ攫ったほうがマシだ。少なくともオレならそうするさ。連中、かなりの精度で基地内の状況を把握していたのだろう? それくらいの用意があったとしてもおかしくはない。まあ、いずれにしろ。オレはもう少し残って、情報を整理してから日本へ戻るよ。どうにも嫌な予感がするからな。だいたい合衆国の反攻作戦前に起きたことも気に入らん。まるで水を差すようじゃないか。ええ?」
「確かに、偶然にしては出来すぎですね」
「谷澤君、そいつを必然と言うんだよ」
六反田は珈琲カップを再び空にすると立ち上がった。その足でシアトル港へ向うつもりだった。谷澤は慌てて後を追う。洗濯屋を探すのは明日以降になりそうだった。
◇
【シアトル港 駆逐艦<宵月>】
1945年4月8日 夕方
帝国海軍において、
何にせよ、御調少尉の存在が海軍の各所で物議を呼んだのは事実だった。そもそも日本に限らず、他国においても女性を軍務につかせること自体、否定派が主流だった。軍需工場や事務方の後方勤務の補助要員としての活用は、どこの国でも行われていたが、正規の士官として任官させるなど考えの外だった。
"女、子どもを戦場へ立たせるなど恥ずべき行い"
全てにおいてとは言わないが、この時代における大半の職業軍人の共通認識だった。
列強の中でも比較的開明的で、何よりも合理性を追求する合衆国ですら、頑なに拒んでいたほどである。一方意外なことに、英国と独逸は一部の軍務へつかせることを容認していた。配置は司令部付きなどの限定的なものだったが、それらの国々は何よりも人の数が足らなかった。しかし、合衆国は全く対称的だった。
さて日本軍においても事情は似たようなものだった。もっとも合衆国軍ほど人員に余裕があるわけではない。どちらかと言えば不足しがちだったが、それでも銃後に頼らねばならぬほど
御調少尉の存在は、彼等の信念に相反するものだった。本来では認められるべきでは無かったが、彼女の上官は全く気の毒なことに
設計段階で女性士官用の区画が予め設計図に確保されていたのだ。そこは隔離区画と称しても過言でもない。身も蓋もないが、女性のためと言うよりも男性のためになされた配慮だった。長期間、戦場で緊張状態にある将兵の集中を乱すと考えられたためだった。それだけ、この時代における女性士官の存在は異例なものだったのである。
現在、<宵月>において隔離区画は一部の士官と許可された兵卒しか入れぬ状態だった。
たった今、その一部の士官の中でも最高位の軍人が訪れていた。全く意外なことに、初の訪問だった。
ノック音の後、しばらくして入室許可の声が返される。儀堂はゆっくりとドアのノブを回し、扉を開いた。
「失礼してもいいかな」
「艦長……どうされました? 御用があれば、伺いましたのに」
「いや、いいんだ。礼を言いに来ただけなのだから」
「お礼? 私が何か……」
「君が侵入者を撃退したと聞いた」
「ああ……」
「君のおかげで、ネシスの妹、シルクの尊厳は傷つけられるずに済んだ。本当にありがとう」
儀堂は背筋の角度を保ったまま、綺麗な礼をした。御調は少し目を開くと、戸惑った表情を浮かべた。彼女の予想だにしない赴きだったようだ。
「いえ、その、私はやるべきことを果たしただけです。六反田閣下から、あそこの護衛を任されていましたから」
少し取り乱したように彼女は言った。儀堂はある種の新鮮さを覚えた。
「それに、わざわざ艦長が頭を下げなくとも――」
戸惑う御調に、儀堂は苦笑した。
「君の疑問はもっともだと思う。本来的には君に礼を言うべきものは別にいるだろう。ただ、どうやらそいつは礼の仕方を知らんようなのだ。だから、オレが代わりにここに来たのさ」
お手本というやつさと儀堂は言い加えた。それから背後へ向けて、続けて言った。
「さあ、やり方はわかっただろう。後は実戦あるのみだと思うが?」
儀堂の後ろにはネシスが立っていた。拗ねたような、観念したような表情だった。
「お主というやつは、まったく莫迦にしおって……」
ネシスは儀堂の前へ出ると、彼女の相棒を睨みつけた。
「いつまでそこにおるのじゃ」
「一人で出来るか?」
真顔で儀堂は言った。ネシスの額に青筋がたった。
「子ども扱いするでない! さっさと去ね!」
儀堂はふっと笑いを漏らすと、そのまま退室した。ネシスは儀堂の後ろ姿が完全に消えたのを見届けると、御調へ向き直った。
御調は呆気にとられていたが、ネシスの視線が向けられると我を取り戻した。
「お主には我が
「ネシスさん、私は自分に課せられた義務を成しただけです。本当にそれだけなのです」
「そうやもしれぬ。だが、世話になった事実は変わらぬだろう。我が同胞が受けた恩義は、妾が受けたも同然じゃ。改めてお主に感謝を告げる。誠にかたじけない」
ネシスはそこまで言い切ると、耐えきれないように息を吐いた。
「すまぬ。どうも理由はわからぬのじゃが、お主に対して妾は心を構えてしまうのだ。どうも妾とお主は根源で相容れぬものをもっているように感じてならぬ。だから、これまで礼の一つも言えずにいた。許すが良い」
御調はさして不快に感じた様子も見せず、ただ視線を逸らした。ネシスは奇妙な感覚を覚えた。このものはまるで罪悪を覚えているようではないか? なぜだ?
御調は誤魔化すように微笑むと言った。
「気になさらないでください。私は世の
「……左様か」
ネシスは何かを言いかけたが辞めた。
「お主には借りが出来た。もし助けが要るなら妾へ申すが良い。妾の
御調は今度こそ本心から微笑んだ。
「有り難うございます。ええ、そのときが来たらご厚意に甘えさせていただきます」
「よかろう。素直なのは良きことじゃ」
ネシスは満足げにうなずくと、そのまま部屋を去った。
御調はしばらく閉じられた扉を見つめていた。誰にともなく呟く。
「ネシス、有り難う。これで私は安息を得られます」