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その後、儀堂家の周辺でちょっとした騒ぎが起きた。シロの火炎は周辺住民に不発弾の爆発だと勘違いされた。一直線の火炎を伸ばす不発弾など失笑ものの存在だが、軍事に疎い民間人にとっては現実味のある話だった。とくに火炎を吐き出したときの発火音は、凄まじい轟音で、爆発音と捉えられても仕方が無いほどだった。
世田谷の住民達の多くは火山の噴火か、爆弾の炸裂を連想した。ちなみに同時刻、自宅にいた戸張寛は打ち上げ花火か何かだろうと思っていた。彼は実物の爆弾をよく知っていた。
儀堂はシロと小春達を家の中へ素早くかくまうと、かけつけた消防団や警官を儀堂は宥める作業に追われた。このとき、彼は初めて自分が海軍軍人であることに感謝した。特に職務に忠実な警官などが無理矢理立ち入ろうとしてきたのだが、相手が北米帰りの少佐と知ったとたん態度を好転させたのである。もうすぐ定年を迎えるであろう巡査は海軍式の敬礼を行い、儀堂家の門戸を後にした。後ろ姿を見送った後で、儀堂は家内へ戻った。
「それで、わけを聞かせてもらうぞ」
書斎から二人と一匹が、顔を出す。ネシスがばつの悪い顔を浮かべていた。
「すまぬ。こやつの種族は難儀な身体をしておってのう。長らく炎を吐き出さねば、身体をこわしてしまうのじゃ。ゆえに、ああやって炎を排出してやる必要がある」
「なるほど……確かにそいつは難儀な話だ」
鷹揚にうなずいた儀堂だったが、正直なところ困り果てていた。ネシスの言う通りならば、儀堂家は定期的に通報されることになる。あの定年間際の巡査の顔を何度も拝む羽目になるだろう。騒ぎが広まれば、やがて
「衛士さん、迷惑かけてごめん」
小春は逡巡する儀堂にしゅんと様子で頭を下げた。
「いや、小春ちゃんが謝ることじゃないよ」
「でも、兄貴がここに連れてこなければ、巻き込まずに済んだから……」
「いいんだ。オレもうっかりしていたよ」
よくよく思い返せば、<宵月>の艦長室に戸張がシロを連れ込んだ際、儀堂は寝台の一部を消し炭に変えられていたのだ。あのときの騒ぎのほうが、よほど危機的な状況だった。なにしろ海上のど真ん中で、焼死しかけたのだから。戦闘中ならまだしも、
「さてギドーよ。これからいかにする? 毎度火炎を吐く度にあの騒ぎではこまるじゃろう。なんとかせねば困るぞ」
ネシスは腕を組み、廊下の壁に身体をもたらせていた。こいつめ、オレに問題をぶん投げやがったと思う。儀堂は大きく息を吐くと、黒電話を手にした。秘匿回線の番号をかける。交換手へ接続先を伝えると、まもなく電話口に相手が出た。
「たびたび失礼します。営業の遠藤です。例の物産について、問題が生じました。ええ、保管に際して特殊な処置が必要なようで――」
儀堂は取り急ぎ人目に付かない広い場所が必要だと伝えた。
『承知しました。上長からなんとかするとのことです。後ほど技術部の
「よろしくお願い致します」
受話器を置き、小さくため息をつく。
―オレは休暇中のはずだったのだが、なにゆえ営業をしているのだ。
ふと視線を感じ、足下へ眼を向けると、シロが来ていた。シロは長い首をじゃれつかせると、労うように一声鳴いて、庭先へ去って行った。
◇
【東京 上大崎 海軍大学校】
「儀堂君もとんだ災難ですな」
「それで、どうなさいますか?」
「どうもこうもない」
彼の上司は、煙草代わりに爪楊枝を咥えていた。時代活劇に出てくる悪代官の貫禄があった。六反田は起ちあがると、昼飯に頼んだ出前の丼を部屋の外へ出した。
「必要なら用意してやるまでだろう」
「しかし、そんな都合の良い場所がありますか? うちらが管轄している施設に入れるとなると、またぞろ
目下のところ、シロは連合艦隊管轄の備品となっていた。月読機関の施設を招き入れるとなると、下手な横やりを入れられる恐れがあった。最悪の場合、管轄争いを再燃させかねない。
「知ったことか。
「陸軍のどこと接触するおつもりで?」
矢澤はぎょっとした面持ちで聞き返した。
「教育総監部の
「土肥原? 教育総監の土肥原大将閣下ですか」
「おお、よく知っているな」
「官報は必ず眼を通していますよ。しかし、そうおいそれと会ってくれますかね」
「会うよ。あの人には貸しがあるんでね。まあ、上手くいけば儀堂君の件は色々と片が付くさ」
「はあ、そうなのですか」
いまいち要領を得ない矢澤を六反田は不思議そうに見つめた。
「君は我が国の人事に通じても、地理には疎いんだな」
「どういう意味ですか?」
ますます腑に落ちない表情で矢澤は言った。
「世田谷になにがあるか。地図で確かめてみたまえ」
ふんと鼻を鳴らすと、六反田は黒電話を手にした。六反田の
執務机に地図を広げた矢澤は、ぐうの音もでなかった。確かに六反田が鼻で笑うのも無理はない。世田谷の一部に広大な空白があった。空白の中央部には陸軍
◇
【東京 世田谷 駒沢練兵場】
駒沢練兵場は数ある教練施設の中でも、古参の部類に入っている。事の起こりは幕末まで遡ることが出来た。東京が江戸と呼称されていた時期である。
百年ほど前に浦賀に訪れた合衆国艦隊、俗に言う『
幕府内外で先見性のあるものは、その威容に気圧されるだけではなく、あることを悟った。海の向こうでは
徳川幕府は追い立てられるように近代化の道をひた走ることになった。彼等は西洋式の軍制と装備の導入を決定し、速やかに充実させていった。駒沢練兵場は急速に行われた幕府軍の近代化計画に端緒を発した。
駒場野に白羽の矢を立てたのは、フランス人のシャノワンだった。彼は軍事教官として母国から招かれており、軍事修練場の拡大を提言していた。そんな中で駒場野に目を付けたのは、卓見だった。そこは八代将軍吉宗の時代より武術訓練の場として使われていたのだ。さっそく幕府は現地に役人を派遣し、見地を行ったが、これが思わぬ仇となった。
駒場野周辺の百姓が一斉に蜂起したのである。百姓達は事情を満足に知らせずに、田畑を取り上げようとする役人に不満を爆発させた。彼等にとって、代々開墾してきた土地は生活の糧で在り、訳のわからぬ異国人の言うままとなった幕府は裏切り者に等しかった。
後に駒場野一揆と呼ばれる騒動は、駒場野から目黒へかけて瞬く間に広がり、幕府は対応に追われることになった。結局のところ、幕府は駒場野の拡張を放棄せざるをえなくなった。菊の御紋を掲げる勢力が倒幕のため京都で勃興しつつあった。とてもではないが、百姓ごときにかかずらわっていられなかったのだ。
駒場野の一揆から二ヶ月後、徳川慶喜は大政奉還を宣言し、明治の世が開けた。それから十年もたたずして、駒場野は再び注目されることとなった。
明治政府は富国強兵政策の一環として、
明治政府が旧幕府と同様の結論に至ったのは必然だった。駒場野の平坦な土地は兵営の建設と練兵場の整備に向いていた。ただし、明治政府は同じ轍を踏まなかった。立ち退き対象の住民には土地代金を用意した。それだけではなく、地元では招致運動すら起きた。世田谷一帯の住民は軍事施設が地元経済を潤すことを理解していた。彼等とて百姓ばかりでは無くなっていたのである。日本は資本主義国家として順調に変態をとげつつあった。
◇
「ここも、さびしくなったものだよ」
初老の軍人が練兵場の一角を指した。カーキー色の制服に身を包んだ陸軍軍人だ。肩章は黄色の下地に銀の星が三つ付いている。
「ほら、あそこは
教育総監の
並び歩いていた軍人は
「仕方ありませんよ」
六反田が心底同情するように言った。
「あのときは誰も彼もが精一杯でした。
「たしかに、君の言う通りだ……。そのときの最善を尽くすほか、我々に出来ることはない」
「ええ、全面的に同意ですよ」
「今回の場合、取引相手として私が最善だったわけかね? 言っては何だが妙手だよ。私は
土肥原は打って変わって、好々爺のごとき笑みを浮かべた。
「悪い話じゃないかと思いますがね?」
六反田は茶化した声で応じた。まったく食えない爺さんだと思う。さすがは「満州のローレンス」と呼ばれただけのことはある。
そのむかし土肥原は満州の地で国民党や地方軍閥相手に謀略戦を展開、関東軍の勢力を拡大させた。もしBMの出現が無ければ、土肥原は満州国建国の功労者として名を残したかもしれなかった。彼にとっては不幸なことに、関東軍も満州国も今や公文書の中にしか存在しなかった。いずれも魔獣の群れに押しつぶされ、中国東北部は地方軍閥と魔獣が凄惨な死闘を繰り広げている。そして満州国消滅により、土肥原をはじめとした陸軍首脳部は政治的発言力を失った。
六反田にとっては好都合だった。政治的に実権がなく、それでいて他省庁から干渉されにくい存在だ。往時の影響力がなくなったとはいえ、陸軍大将においそれと楯突ける存在は多くはない。
「新兵にとって、得がたい機会ですよ。北米へ行く前に
突如、黒い影が二人の上空を飛び抜けていった。旧式の複葉機ほどの大きさだが、ずいぶんと鋭角的なシルエットだった。それはまるで西洋の長剣を思わせるフォルムだ。黒い影はまっすぐに練兵場のフィールドめがけて
「
「はじめはね、なんとかなりそうなもんだと思っちゃうんだよ」
後頭部をかきながら、土肥原はうなずいた。
「グールやら小型のワームあたりを相手にしているときは、こちらの攻撃がびっくりするほど当たる。連中、戦術行動をほとんどとらないからね。だから、何というかな。錯覚するんだ。こちらが有利だってね。だけど、しばらくしたらすぐに気づく」
「切れ目のないグールの大群、半身を砕かれても突進してくるトロール、そして一瞬にして人を燃えかすにするヒュドラの炎……」
黒い影は新兵の群れ、そのど真ん中に着地する。薄く舞い上がった土埃の中から、白く長い首が突き出され、頭部から間髪入れず火炎を放たれた。
悲鳴と怒号があちこちから巻き上がる。数名の兵士が腰を抜かし、そのうち幾人からアンモニア臭が漂っていた。
「隙間無く、押し寄せる暴力。それが魔獣との戦いですよ」
六反田は満足げに、その光景を眺めていた。
土肥原も変わらぬ表情で佇んでいる。陸軍教育総監として、彼は新兵の生存率を上げる使命を負っている。その意味では、今回の申し出は願っても無いことだった。シロというドラゴンは正しく魔獣の脅威を植え付けてくれている。この先、いかなる魔獣と遭遇しても、教え子たちは見くびること無く対処してくれるだろう。
おおむね満足を覚えた土肥原だったが、ひとつだけ気になることがあった。
あのドラゴン、聞いていた話よりもだいぶ大きくはないか?