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純白の訪問者(Case of White):7


【千代田 内幸町】


 駒沢練兵場から一台のセダンが出ていった。一時間ほどかけて、セダンは東京市の中心へ向い、鹿鳴館の脇を通り過ぎると、煉瓦コンクリート造の建物へ入っていった。


 帝国ホテルはフランク・ロイド・ライトが設計され、弟子の遠藤新えんどうあらたによって完成された近代建築の集大成ともいえる建築物だった。


 セダンから降りる間際、キールケは御調にシロの採血サンプルを渡した。


「ここで待ってて。全く、あなたの上官は人使いが荒いのね」


「否定はしません。しかしながら、リッテルハイム、あなたはご自分の立場に思いを巡らせるべきかと私は思います。祖国から亡命してきた独逸人を保護するリスクについてご承知いただきたい」


「はいはい、わかってるわ」


 払いのけるように手を翻らせると、キールケはフロントへ向った。ポマードの効いた受付の従業員が恭しく一礼すると、部屋の鍵を渡した。そのまま彼女は自室へ向った。


 ドアを開けると、街灯の明かりがカーテンから零れて差し込んでいる。既に黄昏時は終わり、夜の帳が下りつつあった。


 キールケはかすかな違和感を自覚し、その正体に気がついた。彼女の記憶が確かならば、カーテンは開けたまま、この部屋を出たはずだ。


こんばんはグーテェンアベェンッ


 耳元で母国語が囁かれ、背筋に突起物が押しつけられた。触感から銃口だとわかった。恐怖に拘束され、悲鳴すら上がらなかった。


「誰……」


 ようやくかすれた声を絞り出す。


「あなたなら察しがつくだろう」


 かろうじて維持された理性から、彼女は一つの結論を得ていた。恐らく、この侵入者は自分を殺めないだろう。そのつもりならば、とうの昔に彼女は冷たく横たわっていたはずだ。


「ハイドリヒの差し金ね……」


 侵入者は沈黙で肯定した。


「それで私に何のようかしら?」


「キールケ、祖国はあなたの貢献と功績を評価しているのだ。それを伝えに来た」


「まあ、光栄なこと。勲章プール・ル・メリットでもくれるのかしら?」


 今や廃止された第二帝国プロイセン朝の勲章を引き合いに出した。もちろん皮肉だった。侵入者は不敵に笑った。


「望めば授与されるかもしれない。ただし、ベルリンまで来てもらうことになるだろう。ああ、ひとつ言伝を総統代行から預かっている。君の伯母様と姪についてだ」


 反射的にキールケは振り向きそうになった。しかし、背中の銃口が押しとどめた。


「二人ともベルヒテスガーデンでバカンスを楽しんでもらっている」


 ベルヒテスガーデンは、かつてヒトラーの別荘が置かれていた。ヒトラー亡き後は、武装親衛隊の避暑地として転用されている。そこは、総統代行のハイドリヒにとって、裏庭のようなものだ。


 親族が野獣ハイドリヒの巣に囚われたことを知り、キールケの理性は再び恐怖に揺らがされた。


「何をしているのか、わかっているの? もし伯母様達に何かあったら旧貴族ユンカースが黙っていないわ……」


「むしろ好都合だろう。総統代行にとって、あなたの伯母は目障りな存在らしい」


 ユダヤ人やチェコ人ほどではないがね、と侵入者は付け加え、さらに続けた。


「支持層ごと絞首台へ送っても不思議ではないだろうさ」


 他人事のように言う。


 彼女の伯母はプロイセン時代から続く、由緒ある侯爵家の当主だった。同時にナチス時代から、ヒトラーと相対する守旧派の貴族にとって旗頭でもある。


 キールケが女性でありながら、ナチスの高官となり得た理由は才覚だけではない。党にとって、彼女は守旧派に対する人質だったのだ。しかしながら、今やその人質は日本に亡命してしまった。看過できるはずがなかった。


 キールケは小声で何か呟くと、静かに手を上げた。


「さあ、何が望みなの」


 どこか投げやりな、明るさが口調に含まれていた。


「独逸は、あなたのような才女が流出してしまったことを悲しんでいるようだ」


「そう、ベルリンへ戻れば良いのかしら?」


「いいや、むしろここにいてほしい」


 意外な要求だったが、すぐに真意を悟った。


「まさか!」


「その通りだ。あなたの祖国は科学技術でこの世界をリードしている。部分的な技術格差なら、日本この国より十年先にいるだろう。しかし、独逸がこの国より遅れた……いや、そもそも下地や素養が無い分野がある。あなたの専攻分野さ」


魔導マギ……」


「そうだ。我らの旧同盟者は魔導において世界唯一の専門機関を有している。同様の組織は英国や合衆国にも出来つつあるらしいが、実態は定かではない。キールケ、今や祖国にとって、あなたの存在は人質以上の価値があるのだ。あなたは神秘の先端をその目で見ることができる得難い独逸人なのだ。聡明なあなたなら、祖国が何を望んでいるか理解できるだろう?」


 短い沈黙の後で、キールケは首を縦に振った。


「わかったわ」


感謝するダンケ。早速だが、手始めの指示書を右ポケットへ入れさせてもらった。ここで確認してくれ」


 キールケはコートの右ポケットに手を入れると、紙片を取り出した。内容を確認する。


「内容を覚えたか?」


「ええ」


「こちらに渡してもらおう。右手を後ろに回して」


 指先から紙片が抜き取られる。


「では、また会おう。改めて連絡方法を伝える。ああ、そうだ。賢いあなたにひとつ忠告をしておこう。我々・・は、常に側に居る。いつでも、あなたを迎えに行くことができるし、そのときはベルヒテスガーデンで二人分の棺が用意されるだろう。それを承知しておいてほしい」


「ええ、わかっているわ」


 背中を突き刺していた感触が不意に消える。キールケは数分ほど身じろぎもせずに立ち尽くしていたが、おもむろに振り向いた。鍵のかけられたドアが目に入った。



 セダンを駐車場に回した後、御調少尉はロビーでキールケを迎えた。


「ずいぶんと支度に時間がかかりましたね」


 憮然とした面持ちで御調は言った。さして悪びれた様子も無く、キールケは「ごめんなさいね」と流暢な日本語で言った。


「化粧直しに手間取ってね。あなたも口紅ルージュくらいつけたら?」


「それは戦闘に役立つのですか?」


「ええ、もちろん。殿方との見えない駆け引きに使えるわ」


「残念ながら、駆け引きは苦手です。わかりやすいいくさが好みなのです」


「あらそう、残念なこと。素質はあるのにね。ところで、お願いがあるの。銀座によってもらえるかしら? パリで買った香水が切れそうなの」


 御調はわずかに眉をひそめ、小首をかしげた。


「残念ながら、そんな暇はありません。あなたは研究所へ向ってください。その香水とやらは部下に買いに行かせましょう。銘柄を教えてください」


 キールケはため息をつくと、服飾デザイナーの名を冠したブランドを告げた。 


「5番をお願い。前に買いに行ったことがあるの。売り場の3列目にあったはずよ」


「わかりました。お届けにあがりましょう」


「それから、もう一つ……」


「まだ、なにか?」


 さすがに御調も呆れた顔を浮かべた。


「あなたの上官に伝えくださる? 宿を変えたいの」


【上大崎 海軍大学校】


 昭和二十1945年十月十一日



 海大の一室で、黒電話が鳴った。呼び鈴が二回鳴ったところで、矢澤中佐が受話器をとった。


「北崎商会、総務の相馬です」


『営業の遠藤です。至急、部長をお願いします』


「部長を? どうかしましたか?」


『ええ。本日、うちの営業所に配属された社員二名と備品について説明を求めます』


「社員、備品?」


 首をかしげる矢澤は上官に顔を向けた。六反田は書類の山に埋もれながら、サンフランシスコのタイムズに目を通していた。


「どうした?」


「儀堂少佐からです。どういうわけか腹を立てているようですが……」


「……ああ、思い出した。言っとらんかったな」


「まさか。まだお話ししていなかったのですか。それは怒りますよ。ご自分でどうぞ」


 矢澤は電話ごと六反田の机へ持って行った。受話器を受け取った六反田は、わざとらしく間延びした声で応えた。


「おう、オレだ。どうかしたか」


【世田谷 三宿】


 電話口から間延びした声が返され、儀堂はやや血管に負荷がかかるのを感じた。


「どうもこうもありません。どういうことですか。なぜうち・・に、この二人が来ているんですか?」


 儀堂家の玄関へ、海兵達がトランクと風呂敷包みを運び込んでいる。同時に背後の居間から複数の声が響いてきた。


「そこのあなた、その箱は慎重に運んでちょうだい。独逸本国から運び出した標本が入っているのよ」


「ネシス、どこか空いている部屋はありますか? 儀堂少佐は取り込み中のようです。私とキールケ女史が使っても支障が無いところは――」


「知らぬぞ。勝手にすればよかろう」


「ちょっと御調少尉、あなたと同室とか勘弁してよ。私のプライベートを尊重してちょうだい」


「言っておくが、妾の部屋は譲らんからな」


 かしましさを絵に描いたような光景から儀堂は目を背けると、受話器の向こうにいる上官へ抗議を続けた。


「どういう経緯で、キールケと三井君御調少尉が、うち我が家に滞在することになったのですか」


『キールケ? それは誰かな? ああ、わかった。桐谷きりたに君のことか』


 どうやら桐谷がキールケの符牒らしい。クソ食らえだと思った。


「なんだっていいです」


「君の所で預かっている特産品シロ売り場飼育担当に桐谷君が加わった。もう運送部連合艦隊山田さんに山口GF長官話は通してある。まあ、そういうことだ。三井君は桐谷君の付き人護衛だ。千代田帝国ホテルから通わせるよりも、よほど都合がよかろうと思ってな。まあ、よろしく頼む。ああ、そうだ。こいつは命令だからな」


 拒否権はないらしい。


「なるほど、承知しました」


 叩きつけるように儀堂は受話器を置く。その脇を荷物を持った海兵達が通り過ぎていった。憐れみや羨望の眼差しを向けてくるが、知ったことでは無かった。


 玄関へ新たな訪問者が現れた。海兵とはかけ離れた小さな姿だった。


「衛士さん、この騒ぎはどうしたの? それにこの荷物はなんなの?」


 小春は目を丸くしていた。一時間ほど前、突然キールケ達に押しかけられた儀堂もきっと似たような顔だったのだろう。諦めに似た心境で儀堂は苦笑いを浮かべた。


「それについてはオレも知りたいと思っているんだ」


 全く、あの少将は何を考えているのだ。


 キールケと御調を家に住まわせるなど、うちを旅館か何かと勘違いしているのではないか。


 いや、待て。よく考えれば今に始まったことではない。


 ネシスの面倒を引き受けた時点で、前例を作ってしまっている。


 畜生め、今度、手当てを請求してやるぞ。


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