朝露の輝く草原に、優しい風が吹き抜けていく。昨日までの緊張感は何処へやら、今日はいつもの日課を始めようと思っていた矢先、昨日の出来事が脳裏によみがえる。
「そうだ、俺……異世界に来たんだった」
自分の置かれた状況を思い出し、白石悠真は小さく溜息をついた。元々フリーランスのカメラマンとして風景を撮り続けていた俺が、気づけば異世界で牧場主になっていたのだ。しかも、初めての「家畜」が雷を放つ羊だったという驚きの展開。
「おはよう、ベル。今日も元気そうだな」
ふわふわの白い毛並みを持つ羊は、草をもぐもぐと食べながら、しっぽを振って応えた。
「昨日は本当に驚いたよ。まさか雷を放つとは」
思わず笑みがこぼれる。
「さて、今日も牧場の整備をしなきゃな」
俺は小屋から道具を取り出し、柵の修理や牧草地の整備を始めた。昨日の「牧場経営」スキルで基本的な設備は整ったものの、細かい部分は自分の手で調整する必要があるらしい。
「よし、これで……」
丁寧に柵を修理していると、突然、首筋に冷たい感覚が走った。カメラマン時代に培った直感が、何かを警告している。
「誰かいるのか?」
振り返ると、森の入り口あたりに人影が見えた。
「こんにちは〜!お邪魔します〜!」
明るい声とともに、一人の少女が手を振りながら駆け寄ってきた。亜麻色の髪に、エメラルドグリーンの瞳。ふわりとした薄い緑の服に身を包み、首から下げた小さな革袋が揺れている。年齢は16、7歳だろうか。
「あの、どちら様で?」
「私はミリアム!この辺りの薬草を採りに来たんです。あなたが新しい牧場主さんですね?」
屈託のない笑顔で答える少女に、俺は戸惑いながらも頷いた。
「ああ、白石悠真だ。昨日来たばかりでな」
「噂は聞いてましたよ!異世界から来た人が牧場を始めるって」
ミリアムは興味津々といった様子で、俺の周りをくるくると回りながら観察してくる。
「わぁ、羊さんもいるんですね!かわいい!」
彼女はベルに近づき、その毛並みを撫でようとした。
「あ、ちょっと気をつけて!あの羊は——」
「メェ〜♪」
予想に反して、ベルは嬉しそうに鳴き、ミリアムの手に頬をすりよせた。
「なんだ、人によって態度が違うのか」
「羊さんはとっても賢いんですよ。悪い人にだけ警戒するんです」
ミリアムが言うと、ベルは嬉しそうに鳴いた。
「そうなのか。……ところで、ミリアムさんは何をしてるんだ?」
「私は見習い薬草師です!村の人たちの薬を作ってるんですよ」
胸を張って答える彼女の姿に、思わず微笑んでしまう。
「そうか、それは大変だな」
「いえいえ、好きなことですから。あ、そういえば……」
ミリアムは首から下げていた革袋の中から、小さな布袋を取り出した。
「これ、よかったらどうぞ。牧場の動物たちの健康に役立つ薬草です」
「ありがとう、助かるよ」
「それじゃ、私はこれから薬草を集めに行きますね。また寄らせてくださいね!」
手を振りながら走り去るミリアム。
「元気な子だな」
俺は微笑みながら、再び柵の修理に戻った。
――――――
正午過ぎ、空腹を感じた俺は小屋で昼食の準備をしていた。
「うーん、やっぱり料理は得意じゃないな……」
簡素な野菜スープを作っていると、何か掻くような音が門のほうから聞こえてきた。
「今度は何だ?」
警戒しながら外に出ると、柵の外で一羽の大きな黒い鳥が地面を掻いていた。ワシほどの大きさがあり、全身が漆黒の羽毛で覆われている。
「なんだこの鳥……」
驚いて見ていると、黒い鳥は俺に気づいたのか、首を傾げてこちらを見た。
「カァ?」
甲高い声で鳴くと、柵の中に飛び込んで来た。慌てて後ずさる俺を無視して、鳥は地面に降り立ち、何かを掘り始めた。
「おい、何してるんだ?」
恐る恐る近づくと、土の中から何かを引っ張り出していた。よく見ると、それは……
「なんだこれ?」
キラキラと輝く黄色い塊。まるで……
「金?まさか金の塊?」
驚いて目を見開く。黒い鳥は、掘り出した金塊を俺の前に置くと、誇らしげに胸を張った。
「カァカァ!」
「どういうことだ?」
異世界とはいえ、鳥が金塊を掘り出すなんて、あまりにも常識外れだ。だが、昨日の雷を放つ羊を見た後だと、何が起きても不思議じゃない気がしてくる。
「よし、とりあえずお前にも名前をつけないとな」
黒い鳥はじっと俺を見つめている。
「宝物を見つけるから……『トレジャー』でいいか?」
「カァ!」
嬉しそうに鳴く黒い鳥。どうやら気に入ったらしい。
「これからよろしく、トレジャー」
俺が微笑むと、トレジャーは翼を広げて、近くの木の枝に舞い上がった。そこからじっと牧場を見下ろしている様子は、まるで見張り番のようだ。
「随分と頼もしい仲間ができたな」
金塊を眺めながら、俺は呟いた。
――――――
午後、俺はミリアムからもらった薬草を調べていた。
「これは……動物の健康を保つのに良いらしいな」
知らない植物ばかりだが、付箋に用途が書かれているため、何とか理解できる。
「ベルとトレジャーの健康管理に使えそうだ」
細かく刻んだ薬草を水に溶かし、柵の中に設置した水場に入れてみる。ベルはゆっくりと近づいて匂いを嗅ぐと、ペロペロと舐め始めた。
「良かった、気に入ってくれたみたいだ」
牧場の整備に戻ろうとしたその時、突然地面が揺れ始めた。
「地震か?」
身構えていると、揺れは徐々に強くなり、柵の向こうから土煙が立ち上がった。
「……!」
土煙の中から、巨大な角を持つシルエットが現れた。姿が明らかになると、それは……
「牛?いや、バッファロー?」
漆黒の体に、左右に長く伸びた角。普通の牛の二倍はあろうかという巨体。その前足で地面を掻き、鼻から熱い息を吐いている。
「大丈夫か……?」
おそるおそる近づくと、巨大な牛は俺をじっと見つめた。そして——
「モォ!」
轟音とともに、その角から炎が噴出した。柵の外の木が燃え上がる。
「うおっ!こいつも普通じゃない!」
驚いて後ずさるが、牛はゆっくりと柵の中に入ってきて、草を食べ始めた。まるで最初からここにいたかのように。
「これも『牧場経営』スキルの効果か?」
こんな危険な動物が集まってくるなんて、予想外の展開だ。しかし、不思議と恐怖よりも好奇心が湧いてくる。
「お前にも名前をつけないとな……」
巨大な牛を眺めながら考える。
「その角と力強さから……『ヘラクレス』でいいか?」
「モォ!」
返事をするかのように鳴いた牛に、俺は微笑んだ。
「これで牧場の仲間が三匹になったな」
「メェ〜」
「カァ!」
「モォ!」
三匹の返事に、俺は思わず笑った。
「みんな個性的すぎるぞ」
夕暮れ時、俺は小屋の前に置いた椅子に座り、沈みゆく太陽を眺めていた。空は赤く染まり、牧場全体が温かな光に包まれている。
「こんな日常、元の世界では想像もできなかったな」
ベルは柵の中で眠り、トレジャーは木の上で羽を休め、ヘラクレスは悠々と草を食んでいる。星空を見上げながら、俺は小さく笑った。
「牧場経営、これからが本番だな」