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第4話 町への買い出しと一匹の黒猫

朝の光が牧場全体を包み込む中、白石悠真は小屋の前に立ち、深呼吸をした。温泉の整備から三日が経ち、村人たちが交代で温泉を利用する姿も見慣れてきた。清々しい風が頬を撫でる。


「さて、今日は町へ買い出しに行かないとな」


悠真は小屋の壁に貼った簡素なメモを眺めながら呟いた。食料や日用品の在庫が心もとない。この世界に来てから一週間が経とうとしていたが、まだ町の様子をじっくり見る機会がなかった。


「お前たち、今日は留守番だぞ」


悠真が振り返ると、ベルとヘラクレスが草を食んでいる横で、トレジャーが木の枝に留まっていた。三匹とも悠真の言葉を理解したかのように鳴き声を上げる。


「メェ〜」

「モォ」

「カァ!」


「ちゃんと牧場を守っててくれよ」


軽く手を振り、悠真は町へと続く小道を歩き始めた。振り返ると、トレジャーが空高く舞い上がり、牧場の上空を旋回している。まるで見送りをしているようだ。


「本当に普通の動物じゃないんだよな……」


微笑みながら歩を進める悠真。道の両側には色とりどりの野の花が咲き、時折小さな虫たちが飛び交っていた。カメラマンとしての視点で見れば、絵になる風景だ。


「カメラがあれば……」


そんなことを考えていると、前方から馬車の音が聞こえてきた。振り返ると、村の方から馬に引かれた大きな荷車がやってくる。


「おや、白石さん!町へ行くところかい?」


荷車を操っていたのは、先日温泉を整備してくれたクリフだった。


「ああ、買い出しにね」


「乗っていくかい?ちょうど私も町へ行くところだ」


「助かるよ、ありがとう」


悠真がクリフの隣に座ると、馬車はゆっくりと動き出した。


「温泉のおかげで、村の皆が元気になってきたよ」


クリフが嬉しそうに話しかけてくる。


「本当かい?」


「ああ、特にローザおばあさんの膝の痛みが随分良くなったと言っていた。薬草と温泉の相乗効果らしい」


「それは良かった」


悠真は心から安堵した。牧場の温泉が人々の役に立っていることが嬉しい。


「それにしても、異世界から来たって本当なのかい?」


クリフの質問に、悠真は少し考えてから答えた。


「ああ。まだ信じられないこともあるけど、なんとか馴染んできたよ」


「すごいねぇ。勇者召喚の儀式に巻き込まれたって聞いたが……戦う気はないのかい?」


「俺には戦う力はない。それに、平和な牧場生活も悪くないさ」


悠真の言葉に、クリフは納得したように頷いた。


「そうだな。誰もが剣を持つ必要はない。それぞれの場所で、できることをするのが一番だ」


二人の会話の間にも、馬車は順調に進み、やがて遠くに町の輪郭が見えてきた。


「あれが町か」


悠真が目を細めて前方を見つめる。石造りの建物が立ち並び、城壁に囲まれた小さな町だ。


「アスターリーズだ。この地方では一番大きな町さ」


やがて馬車は町の入り口に到着した。門番に簡単な検問を受けた後、クリフは馬車を市場の近くに停めた。


「じゃあ、また夕方にここで会おう。帰りも一緒に行こう」


「ありがとう、助かるよ」


二人は別れ、悠真は初めての町の探索を始めた。


――――――


石畳の道を歩きながら、悠真は異世界の町の風景を目に焼き付けていく。日本の中世ヨーロッパ風の街並みとも似ているが、所々に浮かぶ魔法の灯りや、空を飛ぶ小さな使い魔のような生き物など、明らかに異なる点もある。


「なんだか漫画みたいだな……」


悠真は自分が歩く光景に微笑んだ。市場に足を踏み入れると、さらに活気あふれる風景が広がっていた。


「いらっしゃい!新鮮な野菜だよ!」

「魔法の水で育てた特製果物はどうだい?」

「王国認定の防具!冒険者には必須だぞ!」


様々な声が飛び交う中、悠真は買い物リストを確認しながら、必要な食料品を一つずつ買い集めていった。


「これは何ですか?」


赤と紫が混ざったような奇妙な形の果物に興味を持ち、悠真は店主に尋ねた。


「おや、珍しいものに目をつけたね。これはドラゴンフルーツというんだ。火竜の棲む山で採れる果物さ。滋養強壮に効くとされているんだよ」


「へえ……」


悠真は興味深そうにその果物を手に取り、数個購入した。他にも見たこともない野菜や、魔法の力で保存された肉など、異世界ならではの食材を買い集めていく。


「よし、食料はこれくらいかな」


袋いっぱいの買い物を手に、悠真は市場を後にしようとした。その時、ふと目に入ったのは小さな屋台だった。そこには様々な道具や雑貨が並べられている。


「それは……」


悠真の目に留まったのは、地球のカメラとよく似た形をした装置だった。近づいて見ると、確かにレンズと思われる部分があり、箱型の本体も似ている。


「これは何ですか?」


店主の老人は、眼鏡の奥の目を輝かせた。


「これかい?魔像結晶というんだ。景色や人物の姿を魔法の結晶に封じ込める装置さ。かつての魔法技師が作ったものだが、今では使える人も少なくなってね……」


「使い方は?」


「この覗き窓から見たいものを捉え、この部分を押すんだ。すると中の魔法結晶に映像が保存される」


悠真は思わず息を飲んだ。まさにカメラそのものだ。元がカメラマンだった自分にとって、これほど魅力的なものはない。


「いくらですか?」


「君が欲しいのかい?まぁ、最近は需要もないから……金貨5枚でどうだい?」


少し高いと感じたが、悠真は迷わず財布から金貨を取り出した。村で動物たちの世話をする褒美にもらった金貨には余裕があるし、これには金貨5枚以上の価値があると思えた。


「ありがとうございます」


「いや、使ってくれる人がいて嬉しいよ。使い方は簡単だ。この覗き窓から見て、このレバーを引くだけさ」


老人から魔像結晶を受け取ると、悠真は早速試してみたくなった。市場の賑わいを撮影しようと装置を構えた時、ふいに足元に何かが擦り寄ってきた。


「ニャァ」


見下ろすと、一匹の黒猫が悠真の足元で鳴いていた。


「おや、どうしたんだ?」


かがみ込んで猫を見つめると、黒猫は黄金色の目で悠真をじっと見返してきた。艶やかな黒い毛並みと、首元の白い斑点が印象的だ。


「餌が欲しいのか?」


悠真が買ったばかりの干し肉を少し取り出すと、黒猫は上品に受け取って食べた。


「よく噛んで食べるんだな」


食べ終わると、黒猫は悠真の足元から離れなかった。むしろ、まるで当然のように後をついてくる。


「おいおい、付いてくるのか?」


黒猫は「ニャ」と一声鳴くだけで、悠真の歩調に合わせて歩き続けた。


「まあ、そのうち帰るだろう」


悠真はそう思いながらも、黒猫を気にしながら買い物を続けた。


日用品や、牧場で使える道具などを揃えていくうちに、日が傾き始めた。クリフとの待ち合わせ時間が近づいている。


「さて、帰るか」


買い物袋を両手に持ち、悠真が門へと向かう。黒猫はまだ付いてきていた。


「まだ付いてくるのか?そろそろ帰らないと迷子になるぞ」


黒猫は「ニャァ」と鳴くだけで、悠真の歩みに合わせて歩き続ける。その姿には不思議と威厳があり、まるで自分がどこへ行くべきか熟知しているかのようだった。


「悠真さん!こっちだよ!」


クリフが馬車の前で手を振っていた。悠真が近づくと、クリフは黒猫に気づいた。


「おや?その猫は?」


「さっきから付いてくるんだ。町の猫だと思うけど」


クリフは少し驚いた表情を浮かべた。


「へえ、珍しいな。この町の猫は人になつかないことで有名なんだが……」


「そうなのか?」


「ああ。特にこの黒猫は、町の人たちの間でも『王様』って呼ばれているんだ。誰にも懐かない気難しい猫でね」


悠真は改めて黒猫を見つめた。確かに、その佇まいには凛とした空気がある。


「王様、か……」


馬車に乗り込もうとすると、黒猫も当然のように飛び乗ってきた。


「おいおい」


クリフは笑いながら馬車を走らせ始めた。


「気に入られたみたいだね」


「なぜだろう?」


「動物には分かるんだよ。心の優しい人がね」


牧場に向かって走る馬車の中、黒猫は悠真の膝の上で丸くなって眠り始めた。


――――――


夕暮れ時、馬車は牧場の前で止まった。


「じゃあ、また会おう。ありがとうね」


クリフと別れ、悠真は買い物袋を持って牧場に入る。黒猫もまだついてきていた。


「つい乗せてきてしまったけど、お前で一人で戻れるのか?」


黒猫は「ニャ」と鳴き、さも当然のように牧場内を歩き回り始めた。その様子に悠真は思わず苦笑いした。


「牧場の動物たちとは仲良くできるか?」


すると、黒猫はまるで理解したかのように、ベルに近づいていった。悠真は少し心配になり、ベルが驚いて雷を放たないか見守った。


しかし、ベルは黒猫を見ると、意外にも穏やかに鳴いた。


「メェ〜」


黒猫はベルの足元をすり抜け、次にヘラクレスの元へ。大きな牛は鼻を鳴らしただけで、特に気にする様子もない。そしてトレジャーが木から降りてきて、黒猫の周りをホバリングするように飛んだ。


「カァ!」


黒猫は「ニャ」と鳴き返し、まるで挨拶を交わしているかのようだった。


「大丈夫そうだな」


悠真が小屋の前に座ると、黒猫はすぐに彼の膝の上に飛び乗ってきた。思わず頭を撫でると、心地よさそうに「ゴロゴロ」と喉を鳴らした。


「完全にくつろいでるなぁ。もしかしてここに住むつもりなのか?」


黒猫は「ニャ―」と返事をした。悠真にはそれが「そうだ」と言っているように聞こえた。


「そうか。じゃあ、名前をつけないとな……」


悠真が黒猫を見つめると、月明かりに照らされた黒い毛並みが青く輝いて見えた。瞳の黄金色が神秘的に光っている。


「お前、どことなく月夜に似ているな。『ルナ』はどうだ?」


黒猫はしばらく悠真を見つめ、ゆっくりと目を閉じて開いた。それから「ニャ~」と鳴き、まるで承認するように頭を小さく動かした。


「決まりだな、ルナ。これからよろしく」


悠真が微笑むと、新たに名付けられたルナは嬉しそうに喉を鳴らした。


「さて、お前の寝床も作らないと」


小屋に入り、悠真は古い布を集めて小さな箱の中に敷いた。優しく柔らかな寝床ができあがる。


「これでどうだ?」


ルナはその寝床を少し嗅ぎまわり、足で軽く踏みしめてから、くるりと丸くなった。満足そうな表情を浮かべている。


「気に入ったみたいだな」


悠真は買ってきた食材を整理しながら、ふと思い出した。


「そうだ、魔像結晶を試してみよう」


購入したばかりの装置を手に取り、窓の外に向けた。牧場の温泉から立ち上る湯気と、その向こうに広がる星空。悠真はレバーを引いた。


「どうなるかな……」


装置の中から光が漏れ、やがて内部の結晶が淡く輝いた。覗き窓から見ると、確かに先ほどの風景が結晶に封じ込められている。


「すごい、本当にカメラだ」


興奮した悠真の足元で、ルナが「ニャー」と鳴いた。


「お前も撮ってみようか?」


悠真は魔像結晶をルナに向け、再びレバーを引いた。結晶の中に、黄金の瞳を輝かせるルナの姿が収められた。


「これは面白い。明日からいろんなものを撮ってみよう」


ベッドに横になると、ルナも自然と枕元に飛び乗ってきた。


「おいおい、もう勝手に決めてるのか?」


悠真が苦笑いすると、ルナは当然のように彼の腕の脇に丸くなった。その温もりは不思議と心地よく、懐かしさすら感じさせる。


「まあいいか……おやすみ、ルナ」


「ニャァ」


――――――


朝日が小屋の窓から差し込み、悠真の目を覚ました。起き上がろうとすると、胸の上に重みを感じる。ルナが気持ちよさそうに眠っていた。


「おはよう、ルナ」


悠真の声に、ルナはゆっくりと目を開け、大きくあくびをした。伸びをする姿はどこか優雅だ。


「さあ、朝の仕事だ」


小屋を出ると、牧場の動物たちがすでに目を覚ましていた。ベルは草を食み、ヘラクレスは温泉の近くで横になり、トレジャーは朝の飛行から戻ってきたところだった。


「おはよう、みんな」


悠真が呼びかけると、動物たちはそれぞれの鳴き声で応えた。ルナも小屋から出てきて、牧場の中を堂々と歩き回り始めた。まるでここが自分の領地だと言わんばかりの様子だ。


「もう馴染んでるな」


朝の作業を終え、朝食を準備していると、遠くから聞き覚えのある明るい声が聞こえてきた。


「悠真さーん!おはようございますー!」


ミリアムが薬草バスケットを抱えて小走りにやってくる。


「おはよう、ミリアム」


「今日も薬草採りに来ました!あれ?」


彼女の視線がルナに止まる。ミリアムは驚いた表情を浮かべた。


「黒猫さん……まさか王様猫じゃないですか?」


「王様猫?クリフも似たようなことを言ってたけど」


ミリアムは恐る恐るルナに近づいた。


「町では伝説の猫なんです。誰にも懐かず、でも時々姿を見せるから『王様』って呼ばれてて。昔から住んでるって言われてるんですよ」


「昔から?」


「はい!おじいちゃんの時代からいるって村のお年寄りが言ってました。もう何十年も……」


悠真は不思議そうにルナを見つめた。普通の猫にしては長生きすぎる。


「なんだか不思議な猫だな」


ルナはそんな会話を聞きながら、悠真の足元で毛づくろいを始めた。


「悠真さんに懐いたってことは、すごく特別な方なんですね!」


ミリアムが目を輝かせる。


「まあ、そうかもな」


悠真が微笑むと、ルナは「ニャ」と鳴いた。その鳴き声はどこか同意するような響きを持っていた。


この黒猫の正体はまだ分からないが、悠真は不思議と安心感を覚えていた。

温泉から立ち上る湯気の向こうに、新しい一日が始まろうとしていた。

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