朝の光が牧場全体を包み込む中、白石悠真は小屋の前に立ち、深呼吸をした。温泉の整備から三日が経ち、村人たちが交代で温泉を利用する姿も見慣れてきた。清々しい風が頬を撫でる。
「さて、今日は町へ買い出しに行かないとな」
悠真は小屋の壁に貼った簡素なメモを眺めながら呟いた。食料や日用品の在庫が心もとない。この世界に来てから一週間が経とうとしていたが、まだ町の様子をじっくり見る機会がなかった。
「お前たち、今日は留守番だぞ」
悠真が振り返ると、ベルとヘラクレスが草を食んでいる横で、トレジャーが木の枝に留まっていた。三匹とも悠真の言葉を理解したかのように鳴き声を上げる。
「メェ〜」
「モォ」
「カァ!」
「ちゃんと牧場を守っててくれよ」
軽く手を振り、悠真は町へと続く小道を歩き始めた。振り返ると、トレジャーが空高く舞い上がり、牧場の上空を旋回している。まるで見送りをしているようだ。
「本当に普通の動物じゃないんだよな……」
微笑みながら歩を進める悠真。道の両側には色とりどりの野の花が咲き、時折小さな虫たちが飛び交っていた。カメラマンとしての視点で見れば、絵になる風景だ。
「カメラがあれば……」
そんなことを考えていると、前方から馬車の音が聞こえてきた。振り返ると、村の方から馬に引かれた大きな荷車がやってくる。
「おや、白石さん!町へ行くところかい?」
荷車を操っていたのは、先日温泉を整備してくれたクリフだった。
「ああ、買い出しにね」
「乗っていくかい?ちょうど私も町へ行くところだ」
「助かるよ、ありがとう」
悠真がクリフの隣に座ると、馬車はゆっくりと動き出した。
「温泉のおかげで、村の皆が元気になってきたよ」
クリフが嬉しそうに話しかけてくる。
「本当かい?」
「ああ、特にローザおばあさんの膝の痛みが随分良くなったと言っていた。薬草と温泉の相乗効果らしい」
「それは良かった」
悠真は心から安堵した。牧場の温泉が人々の役に立っていることが嬉しい。
「それにしても、異世界から来たって本当なのかい?」
クリフの質問に、悠真は少し考えてから答えた。
「ああ。まだ信じられないこともあるけど、なんとか馴染んできたよ」
「すごいねぇ。勇者召喚の儀式に巻き込まれたって聞いたが……戦う気はないのかい?」
「俺には戦う力はない。それに、平和な牧場生活も悪くないさ」
悠真の言葉に、クリフは納得したように頷いた。
「そうだな。誰もが剣を持つ必要はない。それぞれの場所で、できることをするのが一番だ」
二人の会話の間にも、馬車は順調に進み、やがて遠くに町の輪郭が見えてきた。
「あれが町か」
悠真が目を細めて前方を見つめる。石造りの建物が立ち並び、城壁に囲まれた小さな町だ。
「アスターリーズだ。この地方では一番大きな町さ」
やがて馬車は町の入り口に到着した。門番に簡単な検問を受けた後、クリフは馬車を市場の近くに停めた。
「じゃあ、また夕方にここで会おう。帰りも一緒に行こう」
「ありがとう、助かるよ」
二人は別れ、悠真は初めての町の探索を始めた。
――――――
石畳の道を歩きながら、悠真は異世界の町の風景を目に焼き付けていく。日本の中世ヨーロッパ風の街並みとも似ているが、所々に浮かぶ魔法の灯りや、空を飛ぶ小さな使い魔のような生き物など、明らかに異なる点もある。
「なんだか漫画みたいだな……」
悠真は自分が歩く光景に微笑んだ。市場に足を踏み入れると、さらに活気あふれる風景が広がっていた。
「いらっしゃい!新鮮な野菜だよ!」
「魔法の水で育てた特製果物はどうだい?」
「王国認定の防具!冒険者には必須だぞ!」
様々な声が飛び交う中、悠真は買い物リストを確認しながら、必要な食料品を一つずつ買い集めていった。
「これは何ですか?」
赤と紫が混ざったような奇妙な形の果物に興味を持ち、悠真は店主に尋ねた。
「おや、珍しいものに目をつけたね。これはドラゴンフルーツというんだ。火竜の棲む山で採れる果物さ。滋養強壮に効くとされているんだよ」
「へえ……」
悠真は興味深そうにその果物を手に取り、数個購入した。他にも見たこともない野菜や、魔法の力で保存された肉など、異世界ならではの食材を買い集めていく。
「よし、食料はこれくらいかな」
袋いっぱいの買い物を手に、悠真は市場を後にしようとした。その時、ふと目に入ったのは小さな屋台だった。そこには様々な道具や雑貨が並べられている。
「それは……」
悠真の目に留まったのは、地球のカメラとよく似た形をした装置だった。近づいて見ると、確かにレンズと思われる部分があり、箱型の本体も似ている。
「これは何ですか?」
店主の老人は、眼鏡の奥の目を輝かせた。
「これかい?魔像結晶というんだ。景色や人物の姿を魔法の結晶に封じ込める装置さ。かつての魔法技師が作ったものだが、今では使える人も少なくなってね……」
「使い方は?」
「この覗き窓から見たいものを捉え、この部分を押すんだ。すると中の魔法結晶に映像が保存される」
悠真は思わず息を飲んだ。まさにカメラそのものだ。元がカメラマンだった自分にとって、これほど魅力的なものはない。
「いくらですか?」
「君が欲しいのかい?まぁ、最近は需要もないから……金貨5枚でどうだい?」
少し高いと感じたが、悠真は迷わず財布から金貨を取り出した。村で動物たちの世話をする褒美にもらった金貨には余裕があるし、これには金貨5枚以上の価値があると思えた。
「ありがとうございます」
「いや、使ってくれる人がいて嬉しいよ。使い方は簡単だ。この覗き窓から見て、このレバーを引くだけさ」
老人から魔像結晶を受け取ると、悠真は早速試してみたくなった。市場の賑わいを撮影しようと装置を構えた時、ふいに足元に何かが擦り寄ってきた。
「ニャァ」
見下ろすと、一匹の黒猫が悠真の足元で鳴いていた。
「おや、どうしたんだ?」
かがみ込んで猫を見つめると、黒猫は黄金色の目で悠真をじっと見返してきた。艶やかな黒い毛並みと、首元の白い斑点が印象的だ。
「餌が欲しいのか?」
悠真が買ったばかりの干し肉を少し取り出すと、黒猫は上品に受け取って食べた。
「よく噛んで食べるんだな」
食べ終わると、黒猫は悠真の足元から離れなかった。むしろ、まるで当然のように後をついてくる。
「おいおい、付いてくるのか?」
黒猫は「ニャ」と一声鳴くだけで、悠真の歩調に合わせて歩き続けた。
「まあ、そのうち帰るだろう」
悠真はそう思いながらも、黒猫を気にしながら買い物を続けた。
日用品や、牧場で使える道具などを揃えていくうちに、日が傾き始めた。クリフとの待ち合わせ時間が近づいている。
「さて、帰るか」
買い物袋を両手に持ち、悠真が門へと向かう。黒猫はまだ付いてきていた。
「まだ付いてくるのか?そろそろ帰らないと迷子になるぞ」
黒猫は「ニャァ」と鳴くだけで、悠真の歩みに合わせて歩き続ける。その姿には不思議と威厳があり、まるで自分がどこへ行くべきか熟知しているかのようだった。
「悠真さん!こっちだよ!」
クリフが馬車の前で手を振っていた。悠真が近づくと、クリフは黒猫に気づいた。
「おや?その猫は?」
「さっきから付いてくるんだ。町の猫だと思うけど」
クリフは少し驚いた表情を浮かべた。
「へえ、珍しいな。この町の猫は人になつかないことで有名なんだが……」
「そうなのか?」
「ああ。特にこの黒猫は、町の人たちの間でも『王様』って呼ばれているんだ。誰にも懐かない気難しい猫でね」
悠真は改めて黒猫を見つめた。確かに、その佇まいには凛とした空気がある。
「王様、か……」
馬車に乗り込もうとすると、黒猫も当然のように飛び乗ってきた。
「おいおい」
クリフは笑いながら馬車を走らせ始めた。
「気に入られたみたいだね」
「なぜだろう?」
「動物には分かるんだよ。心の優しい人がね」
牧場に向かって走る馬車の中、黒猫は悠真の膝の上で丸くなって眠り始めた。
――――――
夕暮れ時、馬車は牧場の前で止まった。
「じゃあ、また会おう。ありがとうね」
クリフと別れ、悠真は買い物袋を持って牧場に入る。黒猫もまだついてきていた。
「つい乗せてきてしまったけど、お前で一人で戻れるのか?」
黒猫は「ニャ」と鳴き、さも当然のように牧場内を歩き回り始めた。その様子に悠真は思わず苦笑いした。
「牧場の動物たちとは仲良くできるか?」
すると、黒猫はまるで理解したかのように、ベルに近づいていった。悠真は少し心配になり、ベルが驚いて雷を放たないか見守った。
しかし、ベルは黒猫を見ると、意外にも穏やかに鳴いた。
「メェ〜」
黒猫はベルの足元をすり抜け、次にヘラクレスの元へ。大きな牛は鼻を鳴らしただけで、特に気にする様子もない。そしてトレジャーが木から降りてきて、黒猫の周りをホバリングするように飛んだ。
「カァ!」
黒猫は「ニャ」と鳴き返し、まるで挨拶を交わしているかのようだった。
「大丈夫そうだな」
悠真が小屋の前に座ると、黒猫はすぐに彼の膝の上に飛び乗ってきた。思わず頭を撫でると、心地よさそうに「ゴロゴロ」と喉を鳴らした。
「完全にくつろいでるなぁ。もしかしてここに住むつもりなのか?」
黒猫は「ニャ―」と返事をした。悠真にはそれが「そうだ」と言っているように聞こえた。
「そうか。じゃあ、名前をつけないとな……」
悠真が黒猫を見つめると、月明かりに照らされた黒い毛並みが青く輝いて見えた。瞳の黄金色が神秘的に光っている。
「お前、どことなく月夜に似ているな。『ルナ』はどうだ?」
黒猫はしばらく悠真を見つめ、ゆっくりと目を閉じて開いた。それから「ニャ~」と鳴き、まるで承認するように頭を小さく動かした。
「決まりだな、ルナ。これからよろしく」
悠真が微笑むと、新たに名付けられたルナは嬉しそうに喉を鳴らした。
「さて、お前の寝床も作らないと」
小屋に入り、悠真は古い布を集めて小さな箱の中に敷いた。優しく柔らかな寝床ができあがる。
「これでどうだ?」
ルナはその寝床を少し嗅ぎまわり、足で軽く踏みしめてから、くるりと丸くなった。満足そうな表情を浮かべている。
「気に入ったみたいだな」
悠真は買ってきた食材を整理しながら、ふと思い出した。
「そうだ、魔像結晶を試してみよう」
購入したばかりの装置を手に取り、窓の外に向けた。牧場の温泉から立ち上る湯気と、その向こうに広がる星空。悠真はレバーを引いた。
「どうなるかな……」
装置の中から光が漏れ、やがて内部の結晶が淡く輝いた。覗き窓から見ると、確かに先ほどの風景が結晶に封じ込められている。
「すごい、本当にカメラだ」
興奮した悠真の足元で、ルナが「ニャー」と鳴いた。
「お前も撮ってみようか?」
悠真は魔像結晶をルナに向け、再びレバーを引いた。結晶の中に、黄金の瞳を輝かせるルナの姿が収められた。
「これは面白い。明日からいろんなものを撮ってみよう」
ベッドに横になると、ルナも自然と枕元に飛び乗ってきた。
「おいおい、もう勝手に決めてるのか?」
悠真が苦笑いすると、ルナは当然のように彼の腕の脇に丸くなった。その温もりは不思議と心地よく、懐かしさすら感じさせる。
「まあいいか……おやすみ、ルナ」
「ニャァ」
――――――
朝日が小屋の窓から差し込み、悠真の目を覚ました。起き上がろうとすると、胸の上に重みを感じる。ルナが気持ちよさそうに眠っていた。
「おはよう、ルナ」
悠真の声に、ルナはゆっくりと目を開け、大きくあくびをした。伸びをする姿はどこか優雅だ。
「さあ、朝の仕事だ」
小屋を出ると、牧場の動物たちがすでに目を覚ましていた。ベルは草を食み、ヘラクレスは温泉の近くで横になり、トレジャーは朝の飛行から戻ってきたところだった。
「おはよう、みんな」
悠真が呼びかけると、動物たちはそれぞれの鳴き声で応えた。ルナも小屋から出てきて、牧場の中を堂々と歩き回り始めた。まるでここが自分の領地だと言わんばかりの様子だ。
「もう馴染んでるな」
朝の作業を終え、朝食を準備していると、遠くから聞き覚えのある明るい声が聞こえてきた。
「悠真さーん!おはようございますー!」
ミリアムが薬草バスケットを抱えて小走りにやってくる。
「おはよう、ミリアム」
「今日も薬草採りに来ました!あれ?」
彼女の視線がルナに止まる。ミリアムは驚いた表情を浮かべた。
「黒猫さん……まさか王様猫じゃないですか?」
「王様猫?クリフも似たようなことを言ってたけど」
ミリアムは恐る恐るルナに近づいた。
「町では伝説の猫なんです。誰にも懐かず、でも時々姿を見せるから『王様』って呼ばれてて。昔から住んでるって言われてるんですよ」
「昔から?」
「はい!おじいちゃんの時代からいるって村のお年寄りが言ってました。もう何十年も……」
悠真は不思議そうにルナを見つめた。普通の猫にしては長生きすぎる。
「なんだか不思議な猫だな」
ルナはそんな会話を聞きながら、悠真の足元で毛づくろいを始めた。
「悠真さんに懐いたってことは、すごく特別な方なんですね!」
ミリアムが目を輝かせる。
「まあ、そうかもな」
悠真が微笑むと、ルナは「ニャ」と鳴いた。その鳴き声はどこか同意するような響きを持っていた。
この黒猫の正体はまだ分からないが、悠真は不思議と安心感を覚えていた。
温泉から立ち上る湯気の向こうに、新しい一日が始まろうとしていた。