朝露に濡れた草が、白石悠真の長靴に小さな水滴を残していく。夜明け前、牧場から少し離れた森に足を踏み入れた悠真は、周囲の気配に敏感に耳を澄ませていた。
「今日も良い天気になりそうだな」
澄んだ空気が肺いっぱいに広がる。鳥たちの目覚めの歌が森全体に響き渡り、木々の葉が朝風に優しく揺れていた。
悠真が森に来たのは、ミリアムに頼まれた特別な薬草を探すためだった。「月光草」という、満月の夜に青白い光を放つ珍しい植物。薬効があるらしいが、見つけるのが難しいという。
「確か、水辺に生えるって言ってたよな…」
悠真はミリアムが描いてくれた簡易マップを頼りに、森の奥へと進んでいく。小川のせせらぎが聞こえてきて、その音に引き寄せられるように足を進めた。
木々の間から差し込む朝日が、水面を金色に輝かせている。悠真は周囲を見回し、薬草らしきものを探し始めた。そのとき、足元で何かが光った。
「これは…?」
水辺の岩陰で、淡い青色の葉を持つ小さな草が目に留まった。葉の縁には銀色の筋が走り、露のように小さな水滴が宿っている。
悠真は慎重に近づき、草を観察した。確かにミリアムの描写と一致している。
「見つけた。これが月光草か」
丁寧に数本を摘み取り、用意していた小さな布袋に収めた。ミリアムが喜ぶ顔が目に浮かぶ。
「そろそろ帰ろうか」
と、背を向けようとした瞬間、小川の上流から不思議な輝きが目に入った。好奇心に駆られた悠真は、その光源に向かって歩き出した。
――――――
小川に沿って数分歩くと、悠真の目の前に小さな滝が現れた。滝壺は澄み切っており、底まで見通すことができる。そして、水面が七色に輝いていた。
「なんだこれは…?」
悠真は目を見開いた。滝壺の周りには見たことのない花々が咲き乱れ、水中には小さな魚たちが優雅に泳いでいる。
「まるで絵本の中の世界みたいだ」
悠真が水面に近づくと、その透明度に驚かされた。底には何かが光っている。手を伸ばせば届きそうな深さだ。
「少し冷たいかな…」
恐る恐る指先を水に浸すと、予想外の温かさに驚いた。春の陽だまりのような心地よさが指先から全身に広がる。
「温泉…?いや、違うな」
悠真は腕まくりをして、水中の光る物体を取ろうとした。水に手を入れると、不思議とエネルギーが体に流れ込むのを感じる。
「なんて気持ちいいんだ…」
水底から拾い上げたのは、拳大の青白い結晶だった。中から光が漏れ出すように輝いている。
「これは…魔石?」
異世界に来て学んだ知識から、悠真はそれが魔法のエネルギーを宿した「魔石」である可能性が高いと思った。しかし、本で見たどの種類とも異なる輝きを放っている。
「持ち帰って調べてみようか」
悠真がポケットに魔石を入れようとした瞬間、背後で木の枝が折れる音がした。振り返ると、そこには見たことのない生き物がいた。
「うわっ!」
体長約1メートル、全身が淡い水色の鱗で覆われ、背中には小さな翼のような突起がある。竜の幼体にも見えるが、どこか違う。その大きな目は深い知性を湛えていた。
「お、おまえは…」
生き物は悠真を観察するように首を傾げる。敵意はなさそうだ。しばらく見つめ合った後、突然、生き物が滝壺に飛び込んだ。
「あっ!」
水しぶきが上がり、悠真の顔に冷たい水が降りかかる。しかし、生き物の姿は消えてしまった。代わりに、魔石が悠真の手の中で一段と明るく輝いた。
「これは一体…」
魔石から優しい脈動が伝わってきて、まるで生きているかのようだった。
「牧場に持ち帰って、ミリアムに見せた方がいいかな」
悠真は不思議な体験に首をかしげながらも、魔石をしっかりとポケットに収め、来た道を戻り始めた。
――――――
牧場に戻ると、悠真を待っていたのは何やら興奮した様子のミリアムだった。亜麻色の髪を風になびかせ、エプロン姿で庭先に立っている。
「悠真さん!おかえりなさい!見て見て、この子が牧場に来たんです!」
ミリアムが指さす方向には、小さな翼を持つ純白の子馬がいた。まるで伝説の生き物「ペガサス」のようだ。
「すごいな…どこから来たんだ?」
悠真が近づくと、子馬は警戒するどころか、好奇心いっぱいに鼻先を伸ばしてきた。
「今朝方、牧場の門の前で困った様子でいたんです。けがをしているみたいで…」
ミリアムが説明すると、子馬は小さく鳴いて、右前脚を少し持ち上げた。確かに、足首あたりに傷があるように見える。
「サクラの治癒の力で治せないかな?」
「試したんですけど、効果が薄いみたいで…」
ミリアムの表情が曇る。そのとき、悠真のポケットの中の魔石が突然、明るく光り出した。
「あっ、これは…」
ポケットから取り出した魔石を見て、ミリアムは目を丸くした。
「それは、癒しの泉の魔石じゃないですか!どうしてそれを?」
「森の中の小さな滝壺で見つけたんだ」
ミリアムは、驚きつつも納得した様子で説明を始めた。
「あの泉には言い伝えがあって、守り手である水の精霊が認めた人には、その魔石を授けることがあるそうなんです…」
悠真は森で見た不思議な生き物を思い出した。あれが水の精霊だったのかもしれない。
「その魔石、怪我を治す力があるって聞いたことがあります!」
ミリアムの言葉に、悠真は魔石を子馬の傷に近づけてみた。すると、魔石が優しく脈動し、青白い光が傷を包み込んだ。子馬はびっくりしたように首を上げたが、じっとしている。
光が消えると、傷は完全に癒えていた。子馬は試しに脚を地面につけ、何の問題もなく立つことができた。嬉しそうに小さなひづめで地面を蹴る。
「すごい!治りました!」
ミリアムが歓声を上げる。子馬は喜びのように悠真の周りを走り回り、最後には彼の肩に鼻先を押し付けてきた。
「おまえ、お礼を言ってるのか?」
悠真が笑いながら子馬の首を優しく撫でると、子馬は目を細めて嬉しそうに鳴いた。
「名前、つけましょうよ!」
ミリアムの提案に、悠真は子馬をじっと見つめた。羽のような小さな翼が背中で微かに震えている。
「……ウィンド、どうだろう?風のように自由に駆け回れるように」
「素敵な名前です!ウィンドちゃん、よろしくね!」
ミリアムがウィンドに優しく語りかけると、子馬は嬉しそうに首を振った。受け入れたようだ。
「それにしても、この魔石の力はすごいな…」
悠真は手の中で輝きを失った魔石を見つめた。なぜ水の精霊は自分にこの魔石を授けたのだろう?
「案外こいつを助けるためだったのかもな。まあ、今はウィンドの世話が先だ。それから…」
悠真はもう一方の手に握っていた布袋を差し出した。
「月光草、見つけたよ」
「わあ!本当に!ありがとうございます!」
ミリアムは両手で布袋を受け取り、大切そうに抱きしめた。その笑顔は太陽のように明るい。
「これで新しい薬が作れます!」
牧場の仲間たちも、新しく加わったウィンドを歓迎するように集まってきた。ルナは興味深そうにウィンドの足元をうろうろし、ベルは優しく「メェー」と鳴いた。トレジャーは空から舞い降り、ウィンドの背中に止まって羽を広げる。
「みんな仲良くしてやってくれよ」
空には薄い雲が流れ、穏やかな風が牧場全体を包み込む。悠真にとって、異世界での牧場生活はまだまだ予想外の出来事に満ちていた。