「売れっ子作家も辛いわね……」
駅のホームでつぶやく。夜遅くまで編集者と打合せでは、ろくに睡眠をとることもできない。たまには息抜きも必要よ。バッグに入ったゲームをチラッと見る。新作の古代エジプト風乙女ゲーム『ナイルの誓い〜砂上の恋と神々の契約〜』。これを楽しむために缶詰めで原稿を仕上げた。数日間、仕事を忘れられるのは最高ね。
「まもなく、ホームに電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ちください」
はいはい、分かってますよ。もう一歩下がる……はずだった。
「あ」
バランスを崩し、気がつくと線路に落ちていた。これは死んだな。薄れゆく意識の中でそう思った。
「お……。おい……るのか」
遠くから声がする。もしかして、死んでない? それとも、ここはあの世? 目を開けると、目の前に一人の男が立っていた。顔にはオレンジ色の顔料が塗られ、目の周りは黒や灰色でアイラインが引かれている。そして、腰に巻かれた布。
「アイシャ、もう一度言う。お前との婚約を破棄する」
「は?」
「これ以上、言うことはない。とっとと出ていけ」
いや、そう言われても。ここ、どこですか?
周りにあるのは、質の高そうな木製の収納箱や腰掛け。ただ、日本のものとは明らかに違う。そう、まるで古代エジプトのような……。そして、気がついた。目の前にいる男は貴族のカーミル。『ナイルの誓い〜砂上の恋と神々の契約〜』の攻略対象の一人。
「あれ、まさか……私はゲームの世界に転生したの!? それに、アイシャって悪役令嬢じゃない!?」
その瞬間、全てが繋がった。私はゲームのヒロインを邪魔する悪役令嬢、つまり、この世界では嫌われ者だということに気がついた。最悪のタイミングで転生してしまった……。
ここに留まっていても、いいことはない。だが、言うべきことがある。
「絶対に後悔するわよ!」
見返してやる。そして、結婚破棄したのは間違いだったと土下座させる。それが、私の生きざまよ!
「お帰りなさいませ、アイシャ様」
そう、仮にも令嬢なのだから世話係がいる。
「えーと……」
この人の名前知らないわ。
「ありがとう、ダリア」
「私の名前はレイラですよ?」
「そうだったわね」
よし、情報ゲット。世話係の名前は「レイラ」。
高貴な身分でも、叩けば埃の一つや二つ出てくるはず。
「レイラ、カーミルのことを徹底的に調べ上げるわよ!」
「アイシャ様?」
レイラは、きょとんと見上げてくる。婚約者の悪事を暴くなんて、普通じゃないから当然の反応ね。事情を話せば、私の
「いいこと、私の命令は絶対よ!」
レイラに身辺調査をさせること数日。何にも出てこない。偉い奴は、何か不正をして今の地位を築きあげたんじゃないの? もしかして、それは現実世界だけ?
「アイシャ様、あの……」
レイラは何かを言うか言うまいか迷っているらしい。
「非常に申し上げにくいのですが……カーミル様から婚約破棄されたと聞きました」
あ、バレた! 終わったわ……。
「大丈夫です、私は味方です。何があっても、お役に立ってみせます!」
レイラ、いい子じゃない。他の侍女からは、赤ちゃんの頃、捨てられていたところ、父が引き取り世話係として雇ったと聞いている。それが、彼女の原動力なのかもしれない。恩返ししようと。
「早速ですが、ご報告です。カーミルですが、ミイラ室の隣の部屋で誰かと密会されているようです」
密会?
「次は、明日の夜のようです。いかがいたしましょうか」
「決まってるわ、その場に乗り込むわよ」
レイラの言う通りなら、もうそろそろのはず。レイラを伴って部屋の前に着くと、すでに明かりがともっている。誰かいるの? 密会相手かしら。
入り口から中を見ると、そこにあったのは――倒れたこんだ女だった。
「きゃぁぁぁ」
ドタバタとした足音と共にカーミルがやってきた。
「アイシャ、お前がなんでここにいる!」
「カーミル、衛兵を呼びに行くわよ。部屋の中で人が倒れているわ!」
どうやら、事情を察したらしい。カーミルは素早く走り去る。砂埃を立てて。
レイラとともに衛兵室へ駆け込むと、「人が倒れてる!」と告げて部屋に戻った。しかし、そのには女の姿はなかった。
「アイシャ様、これは一体……?」
嘘でしょ。女が消えてる!?
「アイシャ、お前は嘘をついたな」
振り返ると、そこにはカーミルの姿があった。
「婚約破棄された腹いせに俺をからかったのか? この嘘つき女め!」
「違うの。本当にあったのよ」
「アイシャ様の言う通りです。私もしっかりと見ました」
レイラが援護する。
「それは本当か!? だが、現に人はいないわけだが……」
衛兵は戸惑っている様子だが、カーミルから何かを受け取ると、態度が一変した。
「カーミル様、このような女に付き合う必要はありません。帰りましょう」
必ず消失の謎を解いてみせる。ミステリー作家のプライドにかけて。